十年目 狩猟大会ですわ!
フィオナの死のすぐあと、私はテオバルトには心の悩みを打ち明けられる存在が必要だと気づいた。私では役者不足だ。私は彼の後見人であって、家族ではあるかもしれないけれどそこまで心の深い部分に立ち入ったら関係が崩壊する。
リンジー家には猟犬とそれを飼育する専門の職員の部署がある。ここ数年、絶えて出番のなかったそこに私は目を付け、テオバルトのための子犬をもらった。
いずれ猟犬にするためという目的ももちろんある。それに、人間の傍にいて慰めてくれるなら犬ほど適した動物はいないだろうから。
テオバルトは白い小さな子犬を自分の手で育て上げた。朝晩の餌やり、根気強いしつけ、雨の日も風の日も欠かさぬ散歩。飼育員からの助言に興味深く聞き入り、パーティーで狩猟好きな貴族と出会えばその人の犬の話を聞いた。
忙しい社交や当主教育の合間を縫って、彼は本当に丁寧にその犬と向き合ったように思う。
ちなみに私は犬猫のことは好きだけど、あくまで観賞用でお願いしたい。ドレスを嚙まれたりしたら叫んじゃうかもしれないので。
できれば家の中にも入れないでほしいッ。私の壁紙、私のカーテン、私のいい匂いの薔薇を生ける花瓶が~~~~~ッ!
だけどもテオバルトはときどき、こっそりその犬を自分の部屋に入れているようだ。まあそこは見て見ぬふりを貫いた。私の自室や大事なスペースにおしっこしないなら、いいわよ。……できればやめてほしいけどねッ。
狩猟は貴族の誇りであり、猟犬との絆は大切なものである。テオバルトは犬と親友のような関係になった。
その甲斐あってか犬はめきめきと成長し、賢く俊敏な猟犬になった。狩りの基本動作も、テオバルトは根気よく教え込んだ。犬舎にいた他の猟犬たちがよいお手本になってくれたようだ。
「テオバルト、あなた本当にこの子を可愛がっているのね」
「はい。フィオンは僕にとって初めての、弟です」
「フィオン?」
「あっ……名前です」
「そう。いい名前ね」
えへへ、とテオバルトは笑った。母親の名前をもじって犬を名付けたことに、私は気づかないふりをする。
フィオナの死から一年。テオバルトの目から悲しみが消えるまで、ずいぶんかかった。
穏やかで単調な日々の日課、たとえば毎日の家庭教師の授業であったり共にする毎回の食事であったり、あるいは何度かの盛大なパーティー、園遊会やお茶会への参加のおかげだろうか、だんだん笑顔が増え、思い悩む時間も短くなったのがごく最近のことだ。
いいことなのだ、たぶん。
死者を偲ぶのも忘れていくのも乗り越えるのも、全部同じように必要なもの。
さて、夏の盛り。
王太子殿下主催の狩猟大会の招待状が、リンジー家に届いた。
「まあ、これは……」
メイド長のレイチェルが差し出した手紙の紙質、金縁、それから王家の紋章まで。感嘆に値するに決まっている。
私は思わず声を上げた。王太子殿下主催の狩猟大会は、社交界でも指折りの重要な行事である。招待されるということ自体が、その家の格式と信用を示すものだ。
開催地はリンジー家領の隣、キャトラル伯爵家領らしい。キャトラル家はリンジー家より家格こそ劣るものの、家族から多数官僚を輩出する名家である。
「テオバルト、あなた宛てに招待状が来ているわ」
と、私がわざわざ彼の執務室までやってきたものだから、テオバルトは顔を上げたまま瞬きをした。
「はい。ありがとうございます……?」
「開けてごらん」
手渡された手紙に顔色を変えたテオバルトは、慎重に封を切った。
宛名も間違っていない。確かにテオバルト・リンジー侯爵家次期当主宛てとなっている。
「この一年、社交界を丁寧に立ち回ってきた成果だわね」
私の方は感無量だ。
エディの醜聞からようやく立ち直りつつあるリンジー家に、王太子殿下からの声がかかるとは。
まあ、ただの人数合わせというか賑やかし要員かもしれないけど。うん。
「僕が、招待されてるんですよね」
テオバルトは手紙を見つめたまま戸惑った声を出した。ええ、と力強く頷いて、私はうろうろ室内を歩き回る。
「もちろんよ。これは絶対に逃してはいけない機会だわ」
狩猟大会は単なる娯楽ではない。若い貴族の子弟たちが、その勇気と技量と器量を示す場でもある。ここでの立ち居振る舞い一つで、将来の人脈も評判も大きく変わる。
しかも今回の主催者は王太子殿下。まだ若く、テオバルトとほとんど年齢が変わらないお方だ。もし万が一、彼と言葉を交わす名誉を頂戴できたら、もう誰もエディのことや私の身体のことをあてこする者はいなくなるだろう。
今後のリンジー家の進退にすら関係する話だ、これは。
テオバルトは自信なさそうに、私と手紙の間を視線は行き来する。
「フィオンも連れていっていいですか」
「もちろんよ。あなたが育てた猟犬でしょう。存分に見せておやりなさい」
「……」
「――不安?」
「……いいえ」
テオバルトは顔を上げる。
「いいえ、シャーロット様。僕、やり遂げてみせます」
「その意気よ。――あ、私も観戦しにいくからね。気にしないでね」
「えっ、来るんですか?」
「何よ、邪魔?」
「いや別に。ええ、もちろん、全然」
何やら含みある言い方をする義理の息子を私はねめつける。
テオバルト、どうも困ったことに最近色気づいてきて女の子に声かけするのだ。母親の死の反動か、単純にそういうお年頃なのか……。それで私のことをやたら鬱陶しがる。まあそれはそれとして、女の子好きについてはいっぺんきちんと叱ったことがあるのだが、そっぽを向いていた。
今みたいに。
まったくもう。
さて、狩猟大会当日。
そういえばうっかり忘れていたのだが、開催地は正確にはキャトラル伯爵家領ではなくそのさらに南方にある王家の狩猟場だった。国有地というやつである。キャトラル伯爵家は狩猟場に一番近いので、接待役兼開催者兼人員提供役を申し付けられたと言う次第らしかった。
いずれにせよ、名誉であることに違いはない。キャトラル伯爵は沽券に賭けて気合を入れた催しにしてくるだろう……という予想通り、それは壮麗なキャンプ地ができていた。
広大な森林、整備された狩り場、準備万端の猟犬たち。
色とりどりの天幕はカーニバルかサーカスかと見紛うほど。木々の間に張り巡らされた縄に王家や貴族家の紋章入りの旗がひらめき、金飾りがきらめきを添える。そこかしこに設けられた休憩用の東屋。木陰にはなんと医者の一団まで待機している。
それから数々の馬車。私たちが到着した頃には、すでに多くの貴族の馬車で込み合っており停める場所に苦労するほどだった。
どこの夜会かと思うほど着飾った貴公子や貴婦人たちを見るに、やはりこの狩猟には特別な意味があるのは間違いなさそうである。
テオバルトに手を引かれて馬車から降りてすぐ、話しかけられた。
「シャーロット様、ご無沙汰しております」
「まあ、お久しぶりですわ」
「シャーロット様じゃありませんか。お久しゅう」
「まあ奥様。うちのテオバルトをご紹介いたします」
「あらあらリンジー侯爵家の。……まだお一人なの? ふふっ」
うるっさいわね。
エディのことを当てこすられながら不快は顔に出さず、顔見知りの貴族たちに次々とテオバルトを紹介して回った。彼はもう十五歳、大人と直接口をきいていい年頃だ。
誰に対しても物怖じせず挨拶をこなしていく少年の姿は私の誇りである。
「こちらがリンジー侯爵家の次期当主、テオバルトですわ」
「初めまして。テオバルト・リンジーと申します」
「まあ、なんとご立派な」
――などと会話する傍ら、聞こえよがしのひそひそ話もまた聞こえてくる。ふんだ。言いたいなら言えばいいわ。
エディの醜聞を知る者たちも、この聡明で礼儀正しい若者を前にすれば態度を軟化させるに違いない。
狩猟場の中央には、大きな天幕が張られている。幕は上げられ、その中央にひときわ豪華に整えられた席があるのが見えた。
「あれが王太子殿下のお席ですの?」
と尋ねると、私たちを取り巻く紳士淑女は口々に肯定した。
「ご挨拶にお伺いしたいところですが」
「キャトラル伯爵がお怖いんですの」
「左様」
「何か不手際があればあの方のせいにされてしまいますものね」
「伯爵もお若いんですもの、当然です」
などなど。
私は大体の事情を把握した。
まだ十代後半の若き王太子は、家臣団を形成してる最中なのだ。父親の国王陛下から与えられた側近たちだけでなく、王太子本人に忠誠を誓う貴族を見繕う。それがこの狩猟大会の目的なのだ。
国王陛下の陣営に今から入り込むのは不可能に近い。すでに壮年の彼の政策にも個人的な友情にも、リンジー家が取り入る隙間がない。だが。
私とテオバルトは目配せし合う。もし、うまくいけば――
リンジー家の名誉を回復せしめる、絶好の機会を得られるかもしれない。
それから小一時間ほどだろうか、だらだらした時間が過ぎた。皆、待ちきれずに号令がかかるのを今か今かと待っていた。テオバルトが連れてきた猟犬と合流したそのとき、ようやく、王太子が立ち上がったという噂がさざ波のように貴族たちの間を走り抜ける。
「ではシャーロット様、ぼ、俺はこれで」
「ええ。楽しんでね」
テオバルトと言葉少なに別れを交わし、狩猟に直接参加する男たちは馬と犬を連れて指定の持ち場へ。
私たち女は設えられた日除けの下に座り込み、お菓子が回されお茶が淹れられ、すっかり腰を落ち着ける雰囲気になる。あーもう、私が男だったらなー。テオバルトと一緒に馬で駆けたらきっと楽しかっただろう。しかもこんな天気のいい日に。
集合した男たちの前に王太子が姿を現したのはそのときである。
皆、示し合せたわけでもないのに一斉に頭を下げた。丁寧に息詰まる沈黙。王太子がぐるりと全員を、自分の招待状によってこの場に召喚することができた貴族たちを眺める気配。
そして彼は言った。
「では、そろそろ狩りを始めるとしよう」
号令一下。
貴族たちが次々と馬に乗り、猟犬を連れて森へと散っていく。若者は先走って、年長者はゆったりと。先頭を行くのは当然のように王太子一行で、誰しも彼をうっかり追い越さないよう注意しているようだった。
一人の貴婦人に焼き菓子を取って差し上げがてら、世間話が始まった。
「テオバルト様は初めての狩猟大会ですのね」
「ええ。まだ未熟ですけれど」
「頼もしい猟犬をお連れですこと」
そうなのかな?
フィオンはいい子だが、私には猟犬のよしあしはわからない。曖昧に笑って頷くにとどめた。
森の中でどんなことが起きているのか、私たちには見えない。天幕の下で、貴婦人たちはお茶を飲みながら世間話に興じる。
「今年の狩りは豪勢ですこと」
「誰が一番いい成果を出すのかしら」
「うちの息子は去年、猪を仕留めましたのよ」
「まあ、素晴らしいわ」
私も微笑みながら会話に加わるが、内心はそわそわしていた。
テオバルトは大丈夫だろうか。何しろ実地の狩りはほとんど初めてである。それもこんな大きな狩猟大会だなんて。緊張してお腹が痛くなってないだろうか。フィオンはちゃんと働いてくれるだろうか。
――ん。待って。
ひょっとしてこういうところが鬱陶しがられる原因なのでは……?
あれこれと考えているうちに、時間はゆっくりと過ぎていく。太陽が高く昇り真昼の時間になって、たまに走ってくる伝令役の侍従が、誰それの彼これが何を仕留めましたと叫び、拍手が起きる。それだけ。
森の方からは犬の声と角笛の音が忙しなく響いていた。時折、人間の男の怒号も。
いい加減、誰しもが待ちくたびれて足を崩したり扇で顔を仰いだり、疲弊して馬車に戻ったりし始めた頃。
「あら、誰か仕留めたようですわね」
と誰かが声を上げた。
貴婦人たちはたちまちざわめく。私も思わず身を乗り出した。獲物を仕留めた合図を奏でる角笛の音と、馬蹄の響きが遠くから聞こえてくる。
さんざめきながら待っていると、馬に乗った男たちが続々と戻ってきた。むわっと血の匂いがあたりに立ち込める。猪を担いだ者、雉を提げた者、手ぶらの者はきまり悪げに、槍が折れてしまったらしくしょげた者など様々だ。私は目を凝らしてテオバルトの姿を探した。
「――あっ」
見つけた。彼は最後の方に、フィオンを従えて戻ってきた。
そして馬の鞍の後ろには――立派な角を持った、大きな鹿が括り付けられていた。
なんてこと。すごい……。
呆然としたのは私だけではない。大人たちはひそひそと、あんなに若い少年が鹿を仕留めたことを噂する。
鹿は狩猟の中でも仕留めるのが最も難しい獲物の一つとされている。俊敏で警戒心が強く、確実な一射で仕留めなければならないからだ。
先に到着した男たち、待っていた女たちの歓声の中、テオバルトは堂々と顔を上げて馬の歩みを止める。頬に返り血らしき赤色がついている以外、怪我もしていなさそうなことに私は安堵した。
そしてテオバルトを追うように姿を現したのが、王太子であった。金の糸を束ねたような金髪を無造作に後ろでひとつに括り、テオバルトの背中を燃えるような目で見つめていた――ように見えたけれど、すぐに表情は柔和になり、お供の人たちの中に降り立ったので定かではない。
貴婦人たちは次々立ち上がって、愛する者がいる者はそちらに、いない者はその再会と獲物の周辺を取り囲んだ。
私もテオバルトのところへ行きたかったのだが、そうするには彼と王太子の距離が近すぎた。
なんと王太子は、自分の馬や賞賛する貴族たちの対応もそこそこに、テオバルトへ向かって歩み寄ったのだ。徐々に沈黙が、息を呑んでことの成り行きを見守るための静寂が、その場に満ちていく。私もまた息を呑んでその場に立ち尽くす。どんなお作法の本にも、こんなときどうすればいいかなんて書いていなかった。
テオバルトもまた、歩いてくる王太子に気づいたらしい。少年はするりと馬から降りると、片膝をつき、深々と頭を下げる。傍らで賢い白い猟犬もかしこまってお座りをする。
「王太子殿下」
「見事な仕留めっぷりだったな」
王太子は目を細めて笑った。背筋がゾクリとしたのは気のせいだったと思いたい。
「俺が先に目を付けた獲物だったのだが。いや、狩猟の場においては早いも遅いもない。仕留めた者の勝ちだ。ははは」
「もし殿下がよろしければ――この鹿を、ぜひ献上させていただきたく存じます」
「ほう?」
王太子はにっこりした。
「この鹿を? 見るからに初陣のようだが、これはお前の初の獲物ではないのか?」
貴族の男にとって初めての獲物は特別な意味を持つ。男の子が一人前の度胸を示した証とされるからだ。家にもよるが、最初の獲物が何であれ剥製にして飾ったり、毛皮を絨毯に加工して使ったりする場合もある。記念の品なのだ。
私は胸がどきどきした。いったいテオバルトは王太子に何を言い出すのだろう?
「はい。ですからなおのこと、殿下に受け取っていただきたく。私の初の獲物が、殿下に更なる幸運を与えてくれるよう願掛けいたします」
瞬間、王太子は目を見開き、呵呵大笑と笑い出した。
「あははははは! いいな、いいなあ! 幸運と来たか。ハハッ――お前、名前は?」
「テオバルト・リンジーと」
「リンジー侯爵家の息子か?」
「はい」
テオバルトは誇らしげに胸を張る。周囲のどよめきなど気にした様子もなく。
「いいだろう。受け取っておこう。私の更なる幸運のために、な」
「ありがとうございます、殿下」
テオバルトは深々と頭を下げ、その肩に王太子は手を置いた。もはや隠すこともない貴族たちのため息が二人の若者を押し包む。今、テオバルトは明らかに王太子の関心を引いた。
貴族社会においてそれはほとんど天啓だ。国王に気に入られ、その間近に仕える者こそが次世代の権力者になる、それが普遍の摂理なのだから。
私は身体のあちこちに突き刺さる視線の束を感じた。冷たく、遠慮なく、ずぶずぶと。
テオバルトにそれらが向かないことを願った。無駄だとわかっていても。
ああテオバルト。ひょっとしたら――あなたはリンジー家に迎え入れるには、優秀過ぎたのかもしれない。




