九年目② 見送りの年、ですわ
それからの冬は、何事もなく過ぎていく、はずだった。だってもう何の予定もないもの。他の貴族たちも領地に帰り、次に面々が顔を合わせるのはいつの誰のパーティーだろう、なんて考えていた。
油断しているときにこそ、悲しい報せはやってくるものだ。
「奥様、クラーク家より火急の便りが」
レイチェルが差し出した封筒には、いつになく乱れ、震えた乱雑な字が並んでいた。差出人はリカルド・クラーク。テオバルトの長兄である。
急いで封を切って中を読んだ瞬間、私は頭の中が真っ白になるのを感じた。
『我が母フィオナは今朝、息を引き取りました』
用件だけの簡潔な手紙。涙で滲んだのか判読できない箇所がいくつもあった。
かろうじて読み取れたのは葬儀の日取りと、「どうかテオバルトに知らせてください」という一文だった。
さすがテオバルトの兄というべきか、彼は手紙の中で何度も何度も謝っていた。「テオバルトがすでにリンジー家のものだと言うことは分かっています」、「しかし、どうか」、「どうか」と。
私は手紙を握りしめたまま、しばらく動けなかった。予想はあったのだ。そろそろだろう、と。フィオナの顔色は見舞いにいくたびどんどん悪くなっていったから……。
だが実際にその報せを受け取ると、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「テオバルトは今、どこに?」
「馬術の稽古を終えられて、書斎にいらっしゃるかと」
メイド長も私の表情から大方の事情を察したのだろう、心配そうに眉を寄せながら教えてくれる。
私は手紙を封筒に戻し、廊下へ足を踏み出した。ああでも、全然心の準備ができていない。こんな報せどうやって伝えればいいの。
もう随分と大人びてきたとはいえ、まだ母を慕う気持ちを隠しきれない年頃の子供に。
私の子供に。
私の子供だ。
フィオナから託された私の子供――。
書斎の扉を開けると、テオバルトは机に向かっていた。領地の帳簿と地図を見比べ、往年の収穫と見比べてと何かを計算しているようだ。
扉の音を聞いて彼はさっと顔を上げた。口の端にひらめいた少しの微笑みは、私の様子を見て消えた。
「シャーロット様、どうかなさいましたか」
腰を上げた彼の声には、既に不安の色が滲む。
「また葡萄の病気ですか?」
「テオバルト。座って」
私は彼の隣に進み、まだ手で握れる肩を押して強引に椅子に座らせる。こんな話をしなければならないなんて。私の口から、話さないといけないなんて。
「クラーク家から手紙が届いたわ」
テオバルトの顔が、みるみる青ざめていく。その先に何を言われるのか、察してしまったようだった。
「……お母さん、ですか」
私は頷いた。頭の芯がぼんやりして、しっかりしなきゃ、しっかりするのよシャーロット、この子の方がもっと辛いのよと誰かが叫んだ。
テオバルトはしばらく、ぼんやりと机の一点を見つめていた。まなざしが焦点が合わなくなり、茫漠と手元を見つめる。ぴくっと指が動いたかと思うと、硬さを確かめるようにぎゅうっと椅子の肘掛けを握った。
「いつ……?」
「今朝だそうよ」
「……そう、ですか」
彼の声は、驚くほど落ち着いて聞こえ、だが震えているのがわかった。私だからこそ分かったのだと思う。ずっと家族として接してきたから。
平静さを装う仕草が痛々しかった。この数年で身につけた、貴族としての自制。感情に蓋をして、平然を装おうとしている。どんなときでも貴族は動じない、わめかない。
でも彼は子供だ。
「テオバルト。我慢しなくていい、我慢しなくていいの。ね?」
呟きながら鳶色の頭を抱きしめる。彼の全身がわなわな震え出し、握りしめた手の甲にぽたぽた涙が落ちる。
「……僕、僕」
「ええ、ええ」
「最後に会ったの、いつだろう……」
「そうよね。そうでしょうとも。あなたはずっと忙しかった……」
「もっと会いに行けばよかった。最近は、お屋敷のことが忙しくて、でも……」
ああ!
悲鳴混じりの空気のかたまりがテオバルトの喉から転げ落ちる。
彼はどさりと背もたれに身体を預けてしまった。私はひたすら、よしよし、よしよしと彼の髪の毛を撫でるしかない。いつだったかフィオナがしていたように。
「お母さん、ずっと待ってたと思うんです。僕が帰ってくるの。なのに、僕、狩猟大会の準備だとか、社交の練習だとか、そんなことばかりに時間を使って、ちゃんとお別れも言えなくて……っ」
もう、平静を装う余裕はなかった。テオバルトは両手で顔を覆い、肩を震わせて泣き始めた。まだ子供らしさの残る泣き方だった。
私は彼の背中にそっと手を添えた。何を言っても、この痛みを和らげることはできないだろうから。
「泣いていいのよ、テオバルト。――ね?」
彼は声を上げて泣いた。私はただ、その背中をさすり続けた。
あああ。
どうして。神様。
優しい人から先に私たちから去っていくのはどうしてでしょうか。優しい人たちだから、人の世には惜しいと思って、御許にお呼びになるのですか。
――葬儀はクラーク家で慎ましやかに行われることになった。
私はテオバルトを連れて、馬車で向かった。道中、彼はずっと窓の外を見つめ、一言も口を利かなかった。
喪服に身を包み、泰然と座っているように見える。だが迷子のような表情のどこにも、大人びた部分など見受けられなかった。
クラーク家に着くと、そこにはすでに近隣の人々が集まっていた。ぼろのような黒い服からどこかの貴婦人のお下がりらしい古い喪服まで、弔いの気持ちだけが共通する装いの人々だった。
街の中でも決して裕福とは言えない区画に乗り付けたリンジー家の馬車は目立った。私はわけもなく恥ずかしくなった。先に降りたテオバルトの後を追い、御者の手を借りて道に降りながら、もっと質素な喪服を着てくるんだったと悔やんだ。
家の中に入ると質素な棺桶が陣取っている。その中にフィオナが眠っていた。生前の病苦の名残りがあるこけた頬、皺のついた額。
だが表情はそれらを補って有り余るほど穏やかだった。まるで眠っているだけのようで、今にも目を開けて、あの優しい笑みを浮かべそうに見えた。
「テオ……」
棺の傍らに座り込んだヴァルターが、テオバルトの姿を見て掠れた声を上げた。この数年ですっかりやつれ果て、白髪も増え、実年齢よりずっと老け込んで見える。酒浸りの日々のせいだろう、末息子に伸ばした手は震えていた。目の下の深い黒い隈、かすかに漂う酒精の臭い。
テオバルトは棺の前に進み出る。兄たちが人々の間からやってきて、少年の肩を抱く。私は彼の背中を見つめながら、そっと目を伏せた。
「お母さん……」
呻き声を漏らしてテオバルトは崩れ落ち、棺桶の縁に手をついた。嗚咽が漏れる。
よたよたと床を這うようにして息子の傍にたどり着いたヴァルターが、震える手でその肩を抱いた。
「テオ、テオ……すまない、すまない。お前をリンジー家に、送り出してしまって。お母さんの最期に、もっと、一緒にいさせてやれば……」
「違います、お父さん」
テオバルトは涙を拭いながら、きっとなって言い返す。私がここにいるから――違う、本心だわ。きっと。
「お母さんが望んだんです。僕とお母さんと、お父さんもそれがいいって言ったでしょ。僕がリンジー家に行くこと、それがお母さんの――」
そこまで言って、彼はまた言葉に詰まった。二人はしばらく、互いの肩を抱いて声を殺して男泣きに泣いた
近所の人たちだろう、黒い服を着た人々がどうっと雪崩をうつようにテオバルトたちの周囲に集まり、口々に弔意を示し慰めを口にする。皆、テオバルトが幼い頃からの顔見知りだとわかる口調だった。
私はいつの間にか壁際に追いやられ、静かにその光景を眺める。血縁と地縁を共有する者たちだけが持つ一種の熱。――少し、羨ましいと言うのはあまりに罰当たりで、でも胸が疼くのは止められない。
テオバルトがどれほど人々に愛され、父親に愛され、大切にされてきたのかがわかる気がした。リンジー家がこの小さなコミュニティから彼らのテオバルトを奪い取ったとき、このうち何人が理不尽さに涙しただろうか。
気づけばすぐそこに二人の男がやってきて、つくねんと立っている。テオバルトの二人の兄たちだった。私が会釈すると、二人とも目礼を返して人の波の中に消えていく。
小さな狭い家は人いきれと熱気でいっぱいだった。足の踏み場もないくらいだ。慟哭と、嗚咽と、呻き声とで耳鳴りがするくらいだ。
長兄のリカルドはもう二十代半ばを過ぎ、リンジー家の支援を経て王国代官配下の官吏として働いている。
次兄のエイモスも医学校を無事に修め、祖父の医院を手伝いながら独り立ちの準備を進めている。
二人ともこの数年ですっかり立派な大人に成長していた。まるでテオバルトの未来を見るかのようだった。
弟に近づいたリカルドが、ヴァルターの手からその身体を受け取りそっと抱きしめる。次のエイモスの抱擁。テオバルトの顔が見たことないほどくしゃくしゃになり、私はきゅっと胸が痛むのを無視した。
そうして葬儀が終わり、フィオナは村外れの墓地に埋葬された。丁寧に整えられた白い墓石だった。
私はリンジー家の名で、その墓地の管理をする教会へそれなりの額を寄進した。フィオナが望んだであろう、静かで美しい墓所を整えるために。
家族がその場を離れたあとも、墓の前でテオバルトは長いこと立ち尽くしていた。ぽつねんと。寂しそうに。
長兄リカルドが近づき、何かを言った。次兄エイモスが何か、おそらく形見の品をテオバルトに手渡した。三人はしばらく見つめ合ったまま動かず、墓地の入り口で待つ私もあまり見ないようにしていたからどんな会話があったのかはわからない。
ただ、なんとなく――これが三兄弟の永遠の別れなのかもしれない、と思った。
次にパーティーや親戚の集まりなんかで顔を合わせても、おお、とかやあ、とか挨拶をしてそれだけで。近況を語り合ってそれで終わり。以上のことはなにもない……そういう終わり方をする仲なのかもしれない。
私の妄想であるといい、そうであってくれと願う。
たとえたくさんの人生のほとんどすべてが『そう』なのだとしても。
やがて彼は振り返り、私のところへ歩み寄ってきた。目はまだ赤いが、表情はもう子供に見えなかった。
黙ったまま馬車へ乗り込む間も、出発してからしばらくも無言だった。心地よい沈黙だった、と言ってしまうとフィオナに失礼だろうか?
何か言おうかと思ったが、テオバルトは窓の外を見つめるばかり。
たぶんフィオナは怒ってもないし後悔もしていない。彼女はあなたの未来のためにあなたを手放し、そしてあなたは立派な人間に育って――
やめよう。そんなこと。
今日という日を台無しにするだけだ。
夕暮れの光が彼の横顔を静かに照らしていた。
この子が背負っているものの重さに思いをはせる。つくづく、私は因業なことをしたものだ。幼いうちに実の家族と別れさせ、養子先で重責を負わせ、そしてこれから先の長い人生で社交界とも貴族社会とも縁を切ることができない。
テオバルトがしっかりと前を向いて歩いていけるよう、できるだけのことをしよう。
私は改めて自身に誓う。
――この子をエディのようにはさせない。
そのために私は生きている。




