十年目② 未来がそこにあるのですわ!
その日の夜。
一行はキャトラル伯爵領へ移動し、彼の邸宅で狩猟大会の締めくくりとして晩餐会が開かれた。
王太子は上座の長机に座り、上機嫌で、あっという間にほろ酔いになった。ずらりと居並ぶ側近たちが止めるのも聞かず、階下に降りて参加者たちに気安く声をかけていく。そうしてみると、ただの調子に乗りやすい若者に見えた。
私は気が気ではなかった。狩猟の一行は貴婦人たちと別れてキャトラル伯爵邸へ向かったから、テオバルトと直接話せていないのが気にかかったし、何より王太子と彼の距離の縮め方について、一言でも小言を言っておかなければならなかった。
王族に気に入られるというのは諸刃の剣だ。
もし王太子が私の予想通り家臣団に組み込みたい貴族を物色しているのだとすれば、リンジー家はそりゃお役に立てるくらいは稼いでいる貴族だが、それはつまり政変に巻き込まれやすい立場を得ることと同義である。
ううう、王都で政治家になるテオバルトとか見たくないよー。
私はあの子にとっとと実権を譲って隠居して、毎日買い物して暮らしたいんだよおー。
手っ取り早く貴族たちに自分を認めさせる手段として、王太子を使おうなんて思っちゃいけない。いけないのだ。ネズミ駆除に大砲持ってくるみたいなものだ。
危なすぎる橋をわざわざ渡らなくていいと、テオバルトに忠告しなくちゃ……。
ワインをちびちび飲みながら、目の前の鶏の丸焼きにはあまり手を付けず、私はテオバルトを盗み見た。男女で長机が別れている上、この長机というのが曲者で、結婚式の祭壇へ続く前の道くらい長さがある。こっそり回り込んで話しかけにいくなんて芸当、できそうにない。
晩餐会の主役は、もちろん今日の狩りで一番の成果を上げた者たちだ。様々な男性の話題が上がるたび耳をそばだてる。テオバルトの名前もまた、何度か話題に上った。というか、私に聞こえるように話しているのかもしれない。
「あの若者はまだ十五だと聞きましたよ……」
「みごとな鹿でしたわ。それを殿下にお譲りするなんて奥ゆかしいこと」
「猟犬もよく躾られていましたわね」
時々、大げさにテオバルトを褒められて謙遜するのも忘れない。うう、集中できない。
男性の席では、貴族子弟たちがテオバルトの周りに集まり、口々に狩りの話をせがんでいた。若いものだから声が大きくてよく通るので、ここまで話の内容が飛んできた。
「テオバルト殿、あの一射はどうやって? 風向きを読んでいたのか」
「あの猟犬、あとで譲ってもらえないだろうか」
「殿下とは森の中でどんな話を?」
「おいおい、これじゃ何も食べられないだろう」
若者たちはどっと笑み崩れた。
テオバルトは少し戸惑いながらも、丁寧に答えているようだ。この場に馴染もうと、けれど出過ぎないように――絶妙な塩梅で立ち回っているのが見て取れる。
そこは合格。
問題点は、フラフラする王太子が徐々にテオバルトのいる一画へ近づいていることである。
他の皆と同じくらい王太子に注目していると、自然と王太子派かそうでないかがわかるようになってきた。なんとなくだが。若い貴族子弟たちは王太子寄りで、年寄りほど若者たちの熱狂に立ち入らないようにしているみたいだ。
――テオバルトのあの態度。まるで挑発するようだった。
王太子には若い貴族を惑わす何かがあるのだろうか? 確かに金髪の偉丈夫で、国王陛下にも物怖じせず政策への意見を述べるという賢い人で、人心掌握は得意だろうが。
王太子はふらふらと酔っぱらった様子であちこちの男性に声をかける。ときには給仕係の若いメイドにちょっかいかけることもある。
フラフラ、と花から花へ飛び回る蝶のように気ままに……見せかけた、油断ない目つきで。
その彼がテオバルトの背後に立つ。
私は危うくワインにむせかける。
テオバルトは王太子を振り返る。二人のまなざしが交錯する。
大広間のざわめきは分厚い深紅の絨毯に吸収され、きらめくシャンデリアが見下ろす中、二人の若者の会話が始まった。
「テオバルト・リンジーだったか」
王太子の声は酔っているにしてははっきりと通った。近くにいた貴族子弟たちがさっと道を空ける。
もうこっちの会話に相槌うつのが精一杯だ、耳に全神経を集中させる。
テオバルトは椅子から立ち上がり、王太子へ深く頭を下げた。
「はい、殿下」
「座れ座れ、堅苦しいのは苦手だ」
テオバルトの左隣の貴公子がさりげなく席を立つと、王太子は空いたその椅子に断りもなく腰を下ろした。従者が慌てて新しいグラスを運んできた。
テオバルトが失礼にならない程度にゆっくりと座り直すなり、会話が始まった。
「今日の狩り、見事だったな。あの鹿はなかなか手強かったろう」
「はい。二度、逃げられかけました。フィオン――私の猟犬が、最後に回り込んでくれなければ、仕留められなかったと思います」
「よい犬はよい主人である証だ。悪い主人の犬は悪く、使い物にならなくなる」
ひ、ひええ。なんの隠喩だろう? 怖すぎる。
王太子がグラスの縁を指でなぞりながらけらけら笑うと、どっと追随が起きる。これが権力かあ。――怖い。
その後の会話は笑い声に呑まれてよく聞こえない。だが王太子が何かを言い、テオバルトが受け答えたことだけはわかった。
二人は初対面の日にしては長いこと話し込んだ。
やがて王太子はテオバルトを離れて次の標的へ旅立った。
私は胸を撫で下ろし、もう、ほんとにやめてくれえ……。天井を仰いだ。聖堂のように丸いアーチ状で、金の装飾と天使の絵が綺麗だった。
遠方の客は泊っていくが、私たち近郊の領地の者はうちに帰る。
キャトラル伯爵、および伯爵夫人のお見送りの中、微笑みを絶やさないまま階段を降りていくのは相当な努力を必要とした。
空はあいにくの曇天だった。とはいえ、昼間は晴れていたのだからよかった。
私はずっといらいらしていたというか、悲しかった。
ごった返す車寄せからリンジー家の馬車を見つけ出すのも。馬車の中で一人、テオバルトを待ち、やっと姿を見せた彼を無言で中に招き入れるのも。なかなか悲しい仕事だった。
「テオバルト・リンジー! 王太子殿下に対し馴れ馴れしすぎましたよ!」
「シャーロット様、王太子殿下が彼の宮廷に招待してくれました!」
「――はいぃ?」
「え、ええええ……?」
双方、口を開けてぽかんと見つめ合う。御者が遠慮がちに馬車を出す。
「な、馴れ馴れしかったですか? でも僕は、彼に気に入ってもらえたらきっとリンジー家の醜聞についても力を貸してくれると思って……」
「ちょっと待って宮廷? 王宮のことを言っているのよね? いや、あの。話が、大きくなりすぎて」
しばし休戦。
二人して窓枠に寄りかかって項垂れる。
「――あのね、」
と復活したのは私が早かった。神妙にするテオバルトにくどくど言い聞かせる姿は、まあ確かにこりゃ鬱陶しがられるわね、うん。自分でもそう思うわ。
「まず、殿下と具体的に何を喋ったか教えて」
「ええっと――リンジー家は色々あったと聞いている、と言われました」
すうっと血が冷えた。王太子は当然、醜聞のことを知っていたのだ。
「そ、それで?」
テオバルトは表情を変えず淡々と続ける。
「前の当主の嫡男が、家名を汚す振る舞いをいたしました。恥ずべきことです、って言ったんだ。そうしたら、隠さないとは面白いとか言われて」
「そん……うん。で、どう答えたの?」
「隠すことこそが、二度目の不誠実になると思いますって言いました。そうしたら彼、ふっと笑って……今度王宮に遊びに来るといいって」
「それを、受けたのね?」
「いいえ――まだリンジー家の当主にもなっていませんから、領地を守ることが、今の私の最初の責務だと思っておりますって言いました。そうしたら、遊学だと思ってくるといいって。色々と教えてやるぞと」
私は痛む頭を抑えた。いったいどういうことなの……。
「義理の母に聞きませんと、って言ったら命令ではないが、王太子の誘いを断ることがどんな意味を持つのか知るといい、とおっしゃいました。僕の耳元で」
それが笑い声で聞き取れなかった部分か。
「そうしたら彼は離れて行ってしまって、それで終わりです。ほんとに、それだけだったんです」
「それはもう、招待を受けたことになってしまっているわね……」
私は馬車の天井を仰いだ。
「僕、行きたいと思いました。王宮に行って、王太子殿下について学んでみたいと思います。そうすればきっと、」
「ねえテオバルト、」
私は勢い込んで話を遮る。ただやみくもに悲しかった――テオバルトがどこかへ行こうとしている。危ないところへ。
そんなこと許しちゃいけない、だってフィオナに約束したんだもの。
「王族っていうのは怖いものなのよ。政治的な派閥に巻き込まれる上に、『王太子派』だって勝手に思われて、殿下がもしこの先失敗や失態をなさった場合は巻き込まれるの。他にも秘密を知ってしまうことで後戻りできなくなったり、勝手に伝言係や交渉役にされてあくせく働いて、ホラ、今日の狩猟大会のキャトラル伯爵のお金のかけようを見たでしょう? あれ全部自腹なのよ。別に補填してもらえるわけでなし、見栄のためだけにあれほどの……」
「これでシャーロット様がカラッポの壺なんて呼ばれなくてよくなるかもしれないのに」
「……どこで聞いたの、それ」
カラッポの壺、子種も受けられない皿、子無し腹、石の腹、血筋を繋げぬ女。家を潰す嫁、女の形をしてるだけのなり損ない。
夫を繋ぎとめられなかった女、メイドに寝取られた女、コナー侯爵家の貧乏娘、金目当て女。
まあ、全部言われた覚えのある言葉だ。
別にいい。事実だもの。エディの子供が欲しくなかったのは本当だし。
私は手を伸ばしてテオバルトの肩に置く。びくっと彼は視線を彷徨わせる。
「忘れなさい、私はなんとも思っていないんだから」
「でも。でも――あなたはあんなこと言われるべき人じゃない」
囁き声だった。ひそひそと、テオバルトは続ける。握られた拳が震えているのに戸惑う。そんなに――怒ってくれなくてもいいのよ。
「彼を利用していると疑われるかもしれないのは知っています。今、王宮で王太子派はどんどん勢力を増している。敵は国王陛下かもしれないって、彼は確かに言いました。僕の耳元で」
目を閉じながら、テオバルトはそれでも言葉を続ける。
あ。と続けて気づいた。
テオバルトの肩はがっしりしていて、もう骨ばっていなかったし、肉が柔らかくもなかった。代わりにみっちり詰まった筋肉と頑健な骨、若々しさが息づいている。
足元でクウンと声がするので見ると、フィオンが白いしっぽを振っている。犬が一緒なことにも気づけないくらい、私は動揺していたらしかった。
そうか。
テオバルトはもうすぐ大人なのだ。彼が十八歳になったら私は裏に引っ込んでいてもいい。
守ってもらっていい立場になる。
それで、そしたら――全部から切り離されてもよくなる。
そうかあ。
テオバルト、もう私が守らなくてもいいのか。
私が悲しかったのは、テオバルトを心配していたのは、ただたんに彼が離れていくのがいやだったから? でも、もう……私は必要ないくらい、テオバルトは自分で決められる。
養い子はいつの間にか、そのくらい強くなっていた。
「あなたはもっと報われるべきです、シャーロット様」
テオバルトは顔を上げて言った。灰色の目がぎらぎら輝いて、まるで銀色だった。古く長く守り伝えられてきた銀食器の色。決してくすまないよう大切に磨かれてきたものの輝き。
「僕がきっとそうしてみせます。あなたの思っていたのとは違うかもしれない。リンジー家を破滅に導いてしまうかもしれない。でも、やってもいないのに諦めるなんてことはできません」
「テオバルト……」
「あなたは僕に未来をくれました。教育をくれました。誇りをくれましたし、生活も教養も乗馬やマナーや、生きてて楽しいって思えることは全部あなたから教わったんです」
車窓の外では雨の音が聞こえ始めていた。犬がさやさや耳を澄ませる表情は安心して見え、テオバルトの足元にいるからこそこの子はそうなのだと知る。
「僕がリンジー侯爵家を在りし日の、いいえ、それ以上の姿に再建してみせる」
力なく肩から外れた私の手を取って、テオバルトはそっと手の甲に口づけた。
ぴりぴりした熱がそこから血管に直接流し込まれたかのようだった。私の知らない温度だった。知ろうと考えたこともないものだった。
「だからお願いします。どうか思うようにやらせてください」
と彼は言う。
もう九歳でも、母を失ったばかりでもない少年が。
私をまっすぐに見つめて言う。
私は――。
こんなふうに何かに立ち向かったことがあっただろうか? テオバルトのように戦ったことがあっただろうか? 一度もなかった。耐え忍ぶことだけが得意だった。
戦わなかった者が、戦う者に何かを言えるわけはないことくらい、わかっていた。
「……わかったわ」
私はするりと少年の手から手を引き抜いた。ぱあっと表情を輝かせるテオバルトへ、最後の忠告のつもりで言う。
「あなたが王太子殿下の元へ行って宮廷貴族になったら、もうリンジー家は政権闘争から逃げられないわ。全部、巻き込む勇気があってのことなのね?」
ぐっと喉が動いて、テオバルトは確かに言いよどんだ。
でも結局、彼は頷いた。
「――はい。全部、覚悟しています。リンジー家の名を背負っていることを」
「わかった。……王都の知り合いに手紙を書いてあげる」
それで話は終わった。
雨は降り続き、道はぬかるんで、前途多難と思われる。私が望んだ安楽な日々はもっとずっと遠いようだ。
私はできればテオバルトにもスローライフをあげたかった。運動なんて散歩で十分じゃない? と思っていた。でも彼は馬に乗り、狩猟へ行った。そこで王太子と出会った。
だったら私は、応援すべきだろう。テオバルトのこと、彼の選択、彼の人生そのものを。
たとえどれほど暗雲立ち込める門出だとしても。
きっとそれが、本来ならとっくのとうに追放されて終わったはずだった私の人生の使い方、そのものなのだと思うから。
【第一部 完】
とりあえず第一部完結です!
これからも続ける気はありますが、不定期更新になると思います。気長にお待ちいただければ何よりです。
お付き合いくださりありがとうございました。
今後とも、シャーロットの物語を見守っていただければ嬉しいです。




