陸を歩けぬヒレならば
目覚めると、見慣れた自分の部屋で。
フィッツ侯爵領は偶然視察に訪れた王弟殿下一行により救われたのだと知る。弱冠十三歳の王弟が護衛として連れていた騎士たちを率い、フィッツ侯爵領を襲った魔物を残らず倒してくれたのだと。
わたくしたちは、本当に間一髪で助けられたらしい。
教会を蹂躙し尽くした魔物が、最後に手を掛けたのがわたくしたちのいた倉庫で、小麦粉のバリケードが破壊されたそのときに、わたくしの両親に頼まれてわたくしたちを探しに来た王弟殿下が駆け付けてくれたのだから。
両親はいたく王弟殿下に感謝していた。
多くの領民を救ってくれたのみならず、跡取りであるわたくしの命まで、救ったのだ。当然と言えば当然だろう。
望むものを礼に差し出すと言った両親に、けれど王弟殿下は、王族として民を救うのは義務だからと、なにも求めはしなかった。
王弟殿下はそのとき、王位継承権一位。けれど、兄である国王陛下にご子息がお生まれになれば、継承権を破棄するだろうと言われていた。
それならば、フィッツ侯爵領を殿下に。
わたくしの提案に、両親は、それが良いかもしれないと頷いた。フィッツ侯爵領は広く、魔物被害が少ないため豊かだ。領民たちも命の恩人である殿下を敬愛しているから、喜んで受け入れるだろう。
両親は国王陛下に、王弟殿下がもし継承権を放棄するならば、フィッツ侯爵家に婿入りして、領地を継いではどうだろうかと申し入れた。
けれど国王陛下は頷かず、あなた方はまだ若いから、跡を継ぐ男児が生まれることもあるだろうと、申し出を受け入れなかった。愛弟に与える領地については、考えがあると。
国王陛下の予想は正しく、その一年後に両親は男の子を授かる。わたくしは跡取りではなくなり、フィッツ侯爵領を与えることは出来なくなった。
領を継がなくて良いならば、結婚の条件が変わる。
フィッツ侯爵家の利となる相手との婚姻を。
幸いにも、王弟殿下は国王陛下に溺愛される弟。王位継承権放棄後には、領地も与えられるらしい。
間違いなく、フィッツ侯爵家の利となる。
王弟殿下の妻になりたいと望んだわたくしを、だから両親は咎めなかった。
けれど、状況は動く。
八年前。わたくしは九歳で、王弟殿下は、十五歳だった。
王位継承権を放棄することになった王弟殿下に、国王は黒い森との境の三領地を統合し、新たにエーデルシュバルツ辺境公領として与えた。ちょうど、三領地のうち二つの領地で、後継の領主がいないことが問題となっており、残りひとつの領地も、大規模な魔物害で深刻な被害を出したところだった。
国王は、エーデルシュバルツ辺境公領の領主に自らの弟を据え、元の三つの領主家には、その補佐を命じた。元の領主家から反発の起こりそうな人事だったが、三つの家から文句は出なかった。それだけ、三家共に疲弊していたのだ。
黒い森。それは、魔族の兵士でも迂闊に立ち入ればたちまちに命を落とす恐ろしい森。黒い森とエーデルシュバルツの境にある三領地は、絶え間ない魔物の襲来と戦い続ける、荒廃した土地だった。
三つの領地を統合すれば、エーデルシュバルツ王国で最も広大な領地となる。けれど、その領地を治めたいと手を挙げるものはほぼいないだろう。命懸けの土地だ。その分、高額で売れる魔物の素材は得られるが、割に合うものではない。
実際、与える領地が広過ぎるとか、そんな領地を与えるにはあまりにも若いとか言う反論は出たものの、では誰か代わりに行くかと問われて、手を挙げるものはいなかった。
王弟殿下は十五歳にして、広大なエーデルシュバルツ辺境公領の領主となり、そして、それまでわたくしが王弟殿下の妻になりたいと望むことを反対して来なかった両親は、手を翻してわたくしに別の方との縁談を勧めた。
同時期、それまでは多く届いていた王弟殿下宛の縁談が、ぱったりと消えたらしい。
いくら、国王に溺愛される王弟との縁談だとしても、愛する娘を黒い森の境にやるわけには行かないと。おそらく、縁談を結んでも、すぐ未亡人となっては旨みがないと言う気持ちもあっただろう。
それだけ、過酷な土地なのだ。エーデルシュバルツ辺境公領となった場所は。
すぐに命を落とすのではないか。
そんな、ひとびとの予測に反して、辺境公となった王弟殿下は目覚ましい活躍を見せ。
エーデルシュバルツ辺境公領は、黒い森から溢れる魔物を残らず堰き止める、エーデルシュバルツの盾となった。
それは、エーデルシュバルツ王国にとって福音であり、そして、わたくしにとっては希望の絶たれる状況であった。
実績を出した以上、しかもそれが、今まで誰も成し遂げられなかった実績である以上、王弟殿下は命ある限り辺境公の地位を守るだろう。王弟殿下は、辺境公領を、終の住処に据えたのだ。
辺境公領の外に魔物を漏らさないために、それまで以上に魔力汚染を進め、もはや毒の土地と化した、辺境公領を。
わたくしは、魔族としては魔力耐性の低い体質だった。それでも、エーデルシュバルツ王国内の、大抵の土地では問題なく生活出来る。けれど。
「あなたでは、エーデルシュバルツ辺境公領で生きられないわ。愛する方に迷惑を掛けたいわけではないならば、辺境公閣下に嫁ぐことは、もう諦めなさい」
母はきっぱりと、わたくしに言った。
それでも。それでも。
なにか、方法はないか。なにか、状況は動かないか。
エーデルシュバルツ辺境公領の、魔力汚染が改善されないだろうか。
国王陛下が気持ちを変えて、王弟殿下を辺境公領から異動させないだろうか。
自分本位なわたくしの醜い願いなど叶うこともないまま、月日は経ち、気付けばわたくしも十五歳。王弟殿下が辺境公となった歳になっていた。
「良い加減、夢を見るのはおやめなさい」
王弟殿下は、未だ妻を得ていなかった。諦め悪くほかの縁談を見ようとしないわたくしに、母が言う。
「あなたが嫁いで、辺境公閣下になにをしてあげられると言うの?あの領地に、足手纏いの妻など必要ありません。あなたはあなたの、身の丈に合った相手を探しなさい」
母は伯爵家の生まれで。上の立場の家の嫡子との婚姻を勝ち取り、立派にその妻を務めている母は、娘に甘い父と違って、厳しい言葉も口にする。
「若さは有限なのよ、エル」
何度言われたかわからない言葉を、また母が口にする。
「あなたの今は、今しかないの。あとから後悔しても、どうにもならないのよ」
それならわたくしは、最後まで夢を見続けたい。
そんなわがままは、言えなかった。
妹も、弟たちもいるのだ。
ほんとうは、わかっていた。
わたくしは、もっと早く目を覚まして、妹や弟たちの助けになる方との、縁談を進めていなければならなかったことを。
「はい。お母さま」
だからわたくしはとうとう、自分の気持ちを圧し込めて、母の言葉に頷いた。
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