嵐の海で
恋に落ちることが不可避の瞬間が、この世には存在する。
わたくしにとっては辺境公閣下に初めて手を取られたあのときが、恋に落ちざるを得ない瞬間だった。
「怪我はありませんか?」
そう言って手をさしのべて下さった辺境公閣下、当時はまだ王弟殿下だった、の姿は、今も胸に焼き付いて離れない。
十年前。
王弟殿下は十三歳で、わたくしは七歳だった。
当時はまだ、黒い森の境界は三つの領地に分かれて、それぞれ別の領主が治めていて。もちろん三つの領の領主たちは、溢れ出る魔物の対策を行っていたけれど、すべてを境界地で倒しきるなんてことは出来ず、国のあちこちで黒い森から溢れた魔物が害をなしていた。
魔物は国のどこへでもあらわれ、貴賤問わず命を奪う。けれど、わたくしの生家であるフィッツ侯爵領は、黒い森やほかの魔物生息域から離れていることもあり、百年以上も魔物害を被ったことのない土地だった。だから、おそらく、油断があったのだ。
治安の良い土地ゆえに、子どもが外を出歩くことも許されていた。わたくしは幼い妹と共に、侍女と数人の護衛を連れて、森の教会に行くことを習慣にしていて、その日もいつも通りに、馬車で教会に向かった。
森の教会と言っても、家からそう離れているわけではない。馬車に乗れば二十分ほどで着く距離で、いつもなにごともなく行って帰って来れていた。
その日もなにごともなく、行って帰って来れると、思っていた。
わたくしたちは、忘れてはいけなかった。
空前は決して、絶後を証明してくれるものではないと言うことを。
その日、なんでもなく終わるはずだったその日。平穏なはずのフィッツ侯爵領を、魔物の大群が襲った。
いくら油断していたと言っても、建物は強固な石造りに鉄扉で、窓だって鉄製の鎧戸が付けられていた。建物に籠ってしまえば、魔物からだって籠城出来る。
けれどそれは、建物に籠る余裕があればの話で。
いくら強固な鎧戸でも、閉めなければ意味がない。
住民の多くが予期せぬ魔物襲来にパニックを起こし、きちんと家の守りを固められなかったが故に魔物の侵入を許し、掛け替えのない命を散らした。
もちろん、家の中にシェルターなどを作っていて、そこに逃げ込んで命だけは助かったものもいるし、物置や倉庫、戸棚に隠れて九死に一生を得たものもいる。
けれど逃げ遅れて隠れられもしなければ。老いも若きも男も女も貴族も平民も関係なく、魔物は襲い掛かり、命を奪った。
魔物たちにとっては、聖地であろうと特別ではなかった。ちょうど教会に着いたところだった馬車を襲われ、護衛に庇われ教会に逃げ込むも、魔物は美しいステンドグラスを割って、教会に入って来た。
少しでも、安全な場所へ。
妹とふたり、侍女たちに引きずられるように地階へ逃げ、奥の奥の倉庫に逃げ込んだ。倉庫の扉は厚いが木製で、閂もない。侍女たちは倉庫にあった小麦の袋で扉をふさぎ、小さなわたくしと妹を戸棚に押し込んだ。
真っ暗な戸棚のなか、妹を抱き締めて震えながら、誰か助けてと祈る。外からは聞きたくもない恐ろしい音が響いていて、そのたびに泣き叫びそうになる妹の口を、必死に塞いでいた。大丈夫、大丈夫とうわごとのように呟いていたのは、妹に言い聞かせるためか、自分に対する暗示か。
どれほどの、時間が経ってからだろうか。近くでバキバキと破壊音が聞こえた。続いて、侍女の悲鳴。それから、どっと、重いものが床に落ちる音がいくつも。
静かになった場に、侍女は殺されてしまったのかと怯えた。戸棚に光が差し込んで、自分たちを守る扉が開けられようとしているのだと気付く。
逃げなければ。でも、どうやって?
恐怖に身体は凍りついて、まばたきすら出来ず、わたくしは開く扉を見つめていた。
「大丈夫ですか?」
聞こえた言葉が、瞬間理解出来なかった。
恐ろしい魔物が顔を見せるかと思った場所には、白い粉をまとった天使のように美しい顔があって。
もしや自分はもう魔物に食べられて死んでいて、ここは神の国なのだろうか。
思ったわたしを案じるように、天使は戸棚を覗き込んだ。
「ここにいた魔物はみな倒しました。もう大丈夫ですよ」
優しい声でそう言って、わたくしに手を差しのべる。
「怪我はありませんか?」
恐る恐る取ったその手が温かくて、わたくしは泣いてしまった。つられたように、妹も泣き出す。
泣きじゃくるわたくしたちを、けれど嫌な顔ひとつせず、天使はそっと持ち上げた。
「恐ろしかったでしょう。よく、頑張りましたね」
言って侍女たちの手に、わたくしと妹を託す。
「ここは私の騎士が守りますからご安心を。街の方にまだ残党がいるようなので、私は加勢に行きます」
辺りを見渡そうとしたわたくしの目を、天使の手が覆う。
「目を閉じていなさい。そうすれば、もう怖いことは起こりませんから」
頷いたわたくしの頭をなでて、天使は走り去った。わたくしは目を閉じたまま侍女に運ばれ、気付けば大きく頑丈そうな馬車のなかにいた。
「ああ、こんなに小さな子が」
馬車にいた女性が、わたくしを抱いていた侍女もろとも抱き締める。
「よく無事で。もう、大丈夫ですからね」
その言葉と、温かい腕に、ああ、恐ろしいことはもう終わったのだと思って。
緊張と恐怖に疲弊していたわたくしは、安堵のあまりそこで気を失ってしまった。
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