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達人転生 ~理を知る達人は転生チートなんか必要ない~  作者: まつすけ


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9/13

第八話 家族と病

冬の風が、屋敷の窓を静かに叩いていた。


ルミリアの冬は、王都ほど厳しくはない。


それでも朝晩は冷える。


庭の木々は葉を落とし、石畳には薄く白い霜が降りる日もあった。


レンは、庭に出る前に廊下の窓から外を見た。


白い息が、かすかに窓に映る。


その向こうで、ガレスが木剣を振っていた。


速くはない。


だが、以前よりも深い。


足の置き方。


腰の沈め方。


剣を振り抜いた後の戻り。


どれも、少しずつ変わっている。


ガレスは強くなろうとしていた。


出世のためでもない。


戦場で敵を斬るためでもない。


守るために。


ミリアの病が分かってから、ガレスは変わった。


いや、正確には、変わったように見えた。


もともと彼は家族を守る男だった。


ただ、その守り方が少し変わった。


以前のガレスは、危険が来れば前に出る男だった。


魔物が出れば剣を取る。


敵が来れば立ちはだかる。


家族の前に、当然のように身体を置く。


それが彼の守り方だった。


だが、病は前から来ない。


斬りかかってこない。


こちらの剣を待ってもくれない。


病は、静かに家の中へ入り、気づけば大切な人の呼吸を少しずつ浅くする。


ガレスはそれを知った。


だから、彼は鍛えていた。


病そのものは斬れない。


それでも、病以外のすべてからミリアを守るために。


余計な来客を減らす。


家の中の負担を減らす。


ミリアが休める時間を作る。


もしミリアの病を利用しようとする者が現れたなら、決して近づけない。


そのために、強くあろうとしていた。


レンは窓から父を見て、小さく息を吐いた。


「父さまは、分かりやすい」


声に出すつもりはなかった。


だが、口からこぼれた。


廊下の向こうから、オルドが歩いてきた。


「分かりやすい方がよい時もある」


「先生」


「ガレスは不器用だ。剣を振らせておく方が、心が折れぬ」


「……そうですね」


オルドは窓の外を見た。


ガレスの木剣が、朝の空気を切る。


「良い剣になってきた」


「父さまは、元から良い剣です」


「親に甘いな」


「そうでしょうか」


「そうだ」


オルドは少しだけ笑った。


「だが、まあ、それも悪いことではないだろう」


レンは黙って庭を見た。


ガレスの剣は、以前より少し静かになっていた。


力で押すだけではない。


前へ出るだけでもない。


一歩退く。


待つ。


相手の動きに合わせる。


守るための剣。


それを、ガレスは改めて学ぼうとしていた。


レンはそれが嬉しくもあり、少し苦しくもあった。


父が強くなろうとしている理由を、知っているからだ。






ミリアの病が分かってから、家の暮らしは少し変わった。


大きく変わったわけではない。


ミリアは今まで通り笑った。


朝には食卓に座り、セラの歌を聞き、ガレスの忘れ物を指摘し、レンの服の乱れを直した。


ただ、立ち続ける時間は短くなった。


階段を上がった後には、少しだけ手すりに触れる。


長く話した後には、息を整える。


夕方には早めに椅子へ座る日が増えた。


それでも、病人らしくは見えなかった。


だからこそ、余計に怖かった。


弱っているのではない。


ただ、少しずつ削られている。


そんなふうに見えた。


レンは、ミリアのそばにいる時間が増えた。


セリウスから、内魔律不全の説明は受けている。


体内魔力の律が、呼吸や心拍、精神の安定と少しずつずれていく病。


魔力が足りないのではない。


外から補えば治るものでもない。


乱れているのは、本人の内側の流れそのもの。


だから、今の医学でも魔法学でも根本治療はできない。


だが、症状を軽くすることはできる。


薬。


休息。


治癒魔法による一時的な安定。


そして、呼吸と姿勢。


レンができるのは、最後の部分だった。


「母さま」


昼下がり、レンはミリアの椅子の横に立った。


ミリアは刺繍の手を止めて、顔を上げる。


「何?」


「少し、肩が上がっています」


「そう?」


「はい。息を吸う時、胸だけで吸っています。肩の力を抜いて、背中へ息を落とすようにしてみてください」


ミリアは少し笑った。


「背中へ息を落とす、というのは難しいわね」


「では、私の手に合わせてください」


レンはミリアの背中に手を添えた。


肩甲骨の少し下。


力が固まりやすい場所。


前世で、それは何度も見てきた。


病人だけではない。


剣士も、武芸者も、疲れた老人も、緊張した弟子も、同じように余計な力を抱える。


呼吸が浅くなる。


身体が固くなる。


気の流れが滞る。


言葉は違っても、見ているものは同じだった。


「ゆっくり吸ってください」


ミリアが息を吸う。


「少し止めます」


ミリアが止める。


「吐きます。肩ではなく、背中が広がるように」


ゆっくり、息が出る。


レンは指先で、背中の小さな硬さを探った。


経絡。


ツボ。


前世でそう呼ばれていたもの。


この世界では別の言葉になるかもしれない。


だが、人の身体に流れがあることは変わらない。


レンは強く押さない。


痛ませるためではない。


流れを戻すために触れる。


「ここが少し固いです」


「そこ?」


「はい。押します。痛ければ言ってください」


「分かったわ」


レンは親指の腹で、ゆっくりと圧を入れた。


深く、しかし鋭くなく。


ミリアの呼吸が少し止まる。


すぐに、レンは力を抜いた。


「今度は吐く時に合わせます」


「ええ」


ミリアが息を吐く。


その吐き終わりに合わせて、レンはもう一度押した。


今度は、ミリアの肩が少し落ちた。


「あ……」


ミリアが小さく声を漏らした。


「楽ですか」


「ええ。少し」


「では、もう一度」


それを数度繰り返す。


胸の奥で止まっていた呼吸が、少しだけ下へ落ちる。


浅く速かった息が、わずかに深くなる。


根本は変わらない。


病は治らない。


だが、苦しさを少し逃がすことはできる。


「レンは、不思議なことを知っているのね」


ミリアが言った。


「人の身体のことを、少しだけ」


「少しだけ?」


「はい」


「あなたの少しだけは、あまり信用できないわ」


レンは少し黙った。


最近、それを言われることが増えた。


ガレスにも。


オルドにも。


セリウスにも。


そして、母にも。


「……気をつけます」


ミリアは笑った。


その笑顔は、以前と同じように柔らかかった。


「ありがとう。楽になったわ」


「毎日少しずつ続けましょう」


「ええ。でも、レンも無理をしないで」


「はい」


「本当?」


「できる範囲でします」


ミリアは困ったように笑った。


「それは、あなたのお父さまも怪しむ言い方ね」


言い返せなかった。


血は繋がっていないはずの前世の癖まで、今世の家族に見抜かれている。


人間というのは油断ならない。


レンはミリアの背中から手を離した。


そこへ、セラが走ってきた。


「かあさま、うたう?」


「そうね。少しだけお願いしようかしら」


「うん!」


セラはミリアの膝元に座り、小さな鈴を持った。


ちりん。


優しい音が鳴る。


「かあさま、いき、すーすー」


あの日から、セラは時々この歌を歌う。


歌詞は相変わらず幼い。


だが、セラなりに真剣だった。


音に魔力が沿う。


淡く、細く、ミリアの呼吸へ触れる。


レンが整えた呼吸の道へ、セラの音がそっと入る。


ミリアの表情がわずかに和らいだ。


レンはそれを見ていた。


今はまだ、これでいい。


小さな緩和。


それでも、何もしないよりはずっといい。






エリナとリオルが帰省したのは、それからしばらくしてのことだった。


冬の休みに入ったのだ。


王都からの馬車が屋敷の前に止まる。


ガレスは門の前に立っていた。


落ち着いた顔をしている。


だが、足の位置がいつもより少し前に出ていた。


待ちきれていないのが丸分かりだった。


「父さま、落ち着いてください」


レンが言う。


「落ち着いている」


「足が門を越えそうです」


「気のせいだ」


「気のせいではありません」


オルドが横から言った。


ガレスは黙った。


馬車の扉が開く。


先に降りたのはエリナだった。


十二歳になったエリナは、以前よりもさらに背筋が伸びていた。


白い手袋。


整えられた髪。


隙のない所作。


王都の貴族学校で、彼女がどういう日々を過ごしているか、その姿だけで少し分かる。


続いてリオルが降りた。


十歳のリオルは、腕に本を抱えている。


荷物より先に本を抱えているあたり、変わっていない。


「ただいま戻りました」


エリナが礼をする。


「ただいま」


リオルが柔らかく笑う。


ガレスは一瞬で顔を崩した。


「おかえり!」


その声は大きかった。


エリナが少し眉を上げる。


「お父さま、門前です」


「お、おう」


「声が大きいです」


「すまん」


リオルはにこにこしている。


「父さま、元気そうですね」


「もちろんだ」


ガレスは胸を張った。


その横で、セラが飛び出してきた。


「ねえさま!リオルにいさま!」


「セラ」


エリナの表情が柔らかくなる。


セラはそのままエリナに抱きついた。


エリナは少しだけよろけたが、すぐに受け止める。


「大きくなりましたね」


「五歳!」


「知っています。手紙を送りましたから」


「リボン、つけた!」


「見えています。よく似合っています」


セラは得意げに笑った。


リオルはその横で、ミリアを見つけた。


「母さま」


「おかえりなさい、リオル」


ミリアは玄関の内側に立っていた。


いつも通り笑っている。


ただ、外まで出てこなかった。


それに、エリナはすぐ気づいた。


リオルも、少し遅れて気づいた。


二人とも何も言わなかった。


だが、エリナの目が一瞬だけ細くなった。


リオルは本を抱える手に、少し力を入れた。








話は、その日の夕方にされた。


食事の後。


セラはミリアの膝元で眠りかけている。


ガレス、ミリア、エリナ、リオル、レン。


そして、セリウスとオルドが同席していた。


エリナは、部屋に入った時点で、ただの団らんではないと分かっていた。


リオルも、本を持ってきていなかった。


珍しいことだった。


ガレスが口を開く。


「エリナ、リオル。話がある」


「はい」


エリナはまっすぐ父を見る。


リオルも静かに頷いた。


ミリアが言った。


「私の体のことです」


部屋が静かになった。


ガレスは一瞬、言葉を探した。


だが、ミリアが先に続けた。


「内魔律不全、という病だそうです」


エリナの表情は変わらなかった。


だが、膝の上に置いた手が、ほんの少しだけ握られた。


リオルは瞬きを一つした。


それから、セリウスを見た。


「先生」


「はい」


「どういう病ですか」


声は静かだった。


震えてはいない。


セリウスは丁寧に説明した。


体内魔力の律が乱れること。


呼吸、心拍、精神、体力に影響が出ること。


進行は緩やかであること。


今すぐ命に関わるものではないこと。


しかし、現代の医学と魔法学では根本治療ができず、いずれは命にかかわってくること


症状を抑えたり、生活を調整したりすることはできること。


リオルは最後まで黙って聞いていた。


エリナも、口を挟まなかった。


説明が終わると、エリナが最初に聞いた。


「今、必要なことは何ですか」


その声は落ち着いていた。


ただ、少し硬かった。


ガレスがエリナを見る。


ミリアも、少しだけ目を伏せた。


エリナは続ける。


「母さまが休む時間を増やすこと。来客を減らすこと。薬や治癒魔法の手配。家の中の負担の調整。王都で調べるべき資料。ほかにありますか」


泣かない。


取り乱さない。


必要なものを数える。


それがエリナだった。


クラリスが見れば、きっと「あなた、そういうところですわ」と言っただろう。


セリウスは頷いた。


「おおむね、その通りです」


「王都の図書室で調べられる資料はありますか」


今度はリオルが聞いた。


「あると思います。ただし、内魔律不全に関する資料は多くありません。古い医療魔法の記録や、魔力疾患の分類書に散らばっているはずです」


「探します」


リオルは即答した。


「無理はしないでね」


ミリアが言う。


リオルは母を見た。


「無理はしません。でも、調べます」


その言い方は穏やかだった。


だが、引く気はない。


ミリアは少し困ったように笑った。


「あなたも、レンに似てきたのかしら」


「レンが僕に似たのかもしれませんよ」


リオルは真面目に言った。


レンは少しだけ首を傾げた。


どちらも違う気がする。


だが、今は言わないことにした。


エリナはセラを見た。


「セラの歌が、母さまを楽にすると聞きました」


セラは眠そうな目をこすった。


「セラ、うたう」


「ええ。でも、無理はしないこと」


「ねえさまも、いう」


「言います。姉ですから」


セラは少し頬を膨らませた。


だが、エリナの膝に寄っていった。


エリナはその頭を撫でた。


優しい手つきだった。


「セラは、歌を好きなままでいなさい」


「すき!」


「なら、それが一番です」


リオルはセリウスに向き直った。


「先生。音で魔力の律を整えるというのは、理論としてあり得るのですか」


「現時点では、分かりません」


「でも、反応はあった」


「はい」


「なら、調べる価値はあります」


セリウスはリオルを見た。


リオルの目は静かだった。


だが、その奥で何かが動き始めている。


知りたい。


理解したい。


役に立ちたい。


そのすべてが、まだ幼い少年の中で静かに混ざっていた。


「リオル様」


「はい」


「急いで答えを出そうとしないでください」


「分かっています」


「本当に?」


「たぶん」


「そこは、はいと言ってほしかったですね」


リオルは少し考えた。


「精一杯前向きに善処することを検討します」


セリウスは小さく息を吐いた。


「......はぁ。まぁそれでいいでしょう」


エリナはミリアのそばへ行った。


膝を折り、母の手を取る。


「母さま」


「何?」


「私にできることがあれば、言ってください」


「ええ」


「言わないと分かりません」


ミリアは少し驚いたようにエリナを見る。


エリナはまっすぐ見返していた。


「母さまは、すぐ大丈夫と言います」


ミリアは言葉に詰まった。


ガレスが小さく頷く。


レンも頷きそうになった。


ミリアは困ったように笑った。


「そうね。気をつけるわ」


「気をつける、では足りません」


エリナは淡々と言う。


「疲れた時は疲れたと言ってください。休みたい時は休みたいと。苦しい時は苦しいと。私たちは、言われたからといって母さまを弱いとは思いません」


部屋が静かになった。


ミリアの目が、わずかに潤んだ。


だが、涙は落ちなかった。


「……分かったわ」


「約束です」


「ええ。約束します」


エリナは頷いた。


泣きはしない。


けれど、静かに母を抱きしめた。


ミリアも、その背に手を回した。


リオルはその光景を見ていた。


そして、ぽつりと言った。


「僕は、治す方法を探します」


ガレスがリオルを見る。


「リオル」


「今は、それしかできないので」


「それでいい」


ガレスは低く言った。


「お前にしかできないことだ」


リオルは小さく頷いた。


レンは、家族を見ていた。


泣き崩れる者はいない。


叫ぶ者もいない。


だが、それぞれが、確かに受け取った。


母の病は、母だけのものではなくなった。


家族全員のものになった。


それは悲しいことでもあり、少しだけ心強いことでもあった。






翌日から、屋敷の空気は少し変わった。


エリナは、すぐに家の中の仕事の流れを確認した。


誰が何をしているのか。


ミリアが普段どこまで手を出しているのか。


来客の頻度。


書類の整理。


家政の指示。


薬の管理。


使用人への伝達。


半日もしないうちに、いくつかの無駄が見つかった。


「母さまが確認しなくてもよいものが多すぎます」


エリナはそう言った。


ガレスは苦笑した。


「頼りにしていたからな」


「頼りにすることと、負担を増やすことは違います」


「はい」


父が娘に正座させられそうな勢いだった。


実際には正座していない。


だが、心は正座していた。


リオルは、セリウスの部屋にこもった。


正確には、セリウスが持ってきた本や資料を片っ端から読み始めた。


内魔律不全。


魔力疾患。


治癒魔法の限界。


音と魔力反応。


古い儀式歌。


医療詠唱。


リオルは黙々と読む。


分からない言葉があれば、すぐセリウスに聞く。


セリウスは最初こそ丁寧に答えていたが、途中から顔が険しくなった。


「リオル様」


「はい」


「それは十五歳以上の医療魔法理論です」


「でも、ここに内魔律と似た記述があります」


「ありますが」


「読まないと分かりません」


「読んでも普通は分かりません」


「では、分かるところまで読みます」


セリウスは天井を見た。


「アルクレイド家は本当に……」


最後まで言わなかった。


言っても仕方がない。


最近、セリウスはそのことを学んでいた。


一方、セラはエリナに見張られながら歌っていた。


「一日に何度も歌わないこと」


「なんで?」


「喉を痛めます」


「いためない」


「痛めます」


「ねえさま、こわい」


「怖くありません」


「こわい」


「では、怖い姉の言うことを聞きなさい」


セラは頬を膨らませた。


だが、エリナには逆らえない。


ミリアはそれを見て笑っていた。


笑っている時間が増えた。


それはきっと、良いことだった。


レンは、朝と夕方にミリアの呼吸を整える時間を作った。


背中。


首の付け根。


胸の中心。


手首。


足首。


強く押すのではない。


流れを見る。


硬さを探す。


呼吸に合わせ、余計な力を抜く。


ミリアは最初こそ不思議そうにしていたが、数日もすると受け入れた。


「ここを押されると、息がしやすいわ」


「胸の力が抜けるからです」


「本当に不思議ね」


「身体は繋がっています」


「レンが言うと、全部何かの極意に聞こえるわ」


「普通のことです」


ミリアは笑った。


「あなたの普通は、普通ではないのよ」


それも最近、よく言われる。


レンは反論を諦めた。






その日の午後、セリウスは薬草の保管場所を確認するため、屋敷の奥へ向かっていた。


ミリアの症状を軽くする薬を調合するためである。


使用人に案内されるはずだったが、途中で急用が入ったらしく、セリウスは一人で廊下を進むことになった。


屋敷の造りは複雑ではない。


だが、アルクレイド家の屋敷には、使われていない小さな中庭や、昔の訓練場がいくつかあった。


セリウスは薬草庫へ向かうつもりで、廊下の角を曲がった。


その先で、乾いた音がした。


木剣が打ち合う音。


セリウスは足を止めた。


庭の奥。


普段、彼が立ち入らない場所。


そこに、オルドとレンがいた。


オルドは木剣を構えている。


レンも木剣を持っている。


セリウスは最初、ただの稽古だと思った。


剣神が、ガレスの息子に剣を教えている。


珍しくはあるが、アルクレイド家ではあり得る話だ。


だが、次の瞬間、セリウスの考えは止まった。


オルドが踏み込んだ。


速い。


老いてなお剣神と呼ばれる男の動き。


セリウスの目では、遠目でも剣筋を追うのがやっとだった。


だが、レンは避けた。


避けた、ようには見えなかった。


ただ、そこにいなかった。


半歩。


いや、半歩にも満たない。


身体の向きがわずかに変わり、オルドの木剣が空を切る。


同時に、レンの木剣がオルドの手首へ触れていた。


打ったのではない。


添えた。


それだけで、オルドの剣が落ちかけた。


オルドはすぐに持ち直し、今度は下から打ち上げる。


レンは木剣の腹を添え、剣筋を横へ流した。


オルドの身体がわずかに前へ出る。


レンはその流れを利用し、肩へ指を添える。


そこで止まった。


一瞬で、制圧していた。


セリウスは呼吸を忘れた。


何を見ているのか分からなかった。


速い、では足りない。


強い、でも足りない。


そもそも、動きの理屈が違う。ように見えた。


オルドが剣を振る前に、レンがそこを知っているように見えた。


未来を読んでいる。


そうとしか思えなかった。


「……未来予知?」


思わず呟いた。


その声に、レンが振り返った。


オルドも目を向ける。


セリウスは固まった。


しまった、と思った時には遅かった。


オルドが目を細める。


「見たか」


「……見ました」


嘘はつけなかった。


セリウスは上級魔法師である。


魔法に関しては、王都でも十分通じる実力者だ。


だからこそ、今見たものを魔法として考えてしまう。


未来予知。


力の操作。


運動干渉。


空間把握。


身体強化。


どれか。


どれかでなければ、おかしい。


セリウスはレンを見た。


「レン様」


「はい」


「今のは、魔法ですか」


「違います」


即答だった。


セリウスは眉を寄せる。


「身体強化は?」


「使っていません」


「運動干渉」


「使っていません」


「未来予知」


「できません」


「力場操作」


「分かりません」


「分からない?」


「言葉の意味は分かりますが、使っていません」


セリウスは額に手を当てた。


「では、何をしたのですか」


レンは少し考えた。


「見て、触れて、流しました」


「説明が短すぎます」


「そうでしょうか」


「短すぎます」


オルドは横で笑っていた。


楽しんでいる。


明らかに楽しんでいる。


セリウスはオルドを見た。


「オルド様は、ご存じだったのですか」


「知っていた」


「なぜ黙っていたのですか」


「言っても分からぬ」


「今も分かりませんが」


「だから言わなかった。出来る限り少人数だけの秘密にしているのもある」


これだけの才能。露見すれば面倒に巻き込まれかねない。


それはわかるが...。


セリウスはレンに向き直った。


「検査をさせてください」


レンは少し困った顔をした。


「検査、ですか」


「はい。魔力反応を測ります」


「何も出ないと思います」


「出るかどうかを確認します」


「分かりました」


レンは素直に頷いた。


セリウスはすぐに道具を取りに戻った。


薬草の用事は、完全に頭から消えていた。


学者とはそういう生き物である。


目的地より疑問を優先する。


便利な時もあるが、わりと迷惑である。






検査の結果、魔法反応は出なかった。


セリウスは水晶を使った。


魔力測定石を使った。


身体強化を測る符も使った。


運動干渉の痕跡を見る薄紙も使った。


未来予知や予測魔法に特有の意識干渉を測るため、簡易の精神波測定具まで持ってきた。


結果は、すべて同じだった。


反応なし。


「おかしい」


セリウスは呟いた。


「おかしいのですか」


レンが聞く。


「おかしいです」


「魔法を使っていないなら、反応がないのは自然では」


「使っていないことがおかしいのです」


「そうですか」


「そうです」


セリウスは水晶を睨んだ。


水晶に罪はない。


だが、睨みたくなる気持ちは分からなくもない。


「もう一度、先ほどの動きをしてください」


レンはオルドを見た。


オルドは頷く。


「よかろう」


二人は向き合った。


セリウスは水晶と測定具を構え、目を凝らす。


オルドが踏み込む。


レンが半歩動く。


木剣が触れる。


剣筋がずれる。


オルドの身体が流れる。


レンが制圧する。


水晶は光らない。


測定具も反応しない。


魔力の痕跡はない。


セリウスは黙った。


「もう一度」


三度。


四度。


五度。


結果は同じだった。


「……なぜ」


セリウスの声が低くなる。


レンは少し申し訳なさそうにした。


「分かりにくいと思います」


「分かりにくいのではありません。分かりません」


「そうですか」


「そうです」


セリウスはしばらく考え込んだ。


それから、顔を上げた。


「レン様」


「はい」


「私と模擬戦をしてください」


オルドが眉を上げた。


「セリウス」


「お願いします」


セリウスの目は真剣だった。


「私の魔法に対して、レン様がどう動くのか確認したいのです」


「危険ではありませんか」


レンが聞く。


「もちろん加減します」


「私ではなく、先生が」


「……私が?」


「はい」


セリウスは一瞬、言葉に詰まった。


八歳の子供に、上級魔法師が加減される心配をされた。


普通なら失礼である。


だが、先ほどの動きを見た後では、怒る気にもなれなかった。


オルドが笑いをこらえている。


セリウスは咳払いした。


「では、互いに怪我をしない範囲で」


「分かりました」


レンは木剣を下げた。


セリウスは庭の端に立つ。


魔法師としての構え。


杖を持ち、魔力を整える。


風が少し揺れた。


最初は、低位の風弾だった。


人を傷つけるほどではない。


当たれば軽く押される程度。


セリウスが指を動かす。


風弾が三つ、レンへ飛ぶ。


レンは動いた。


いや、動いたように見えなかった。


一つ目は肩をかすめる寸前で外れた。


二つ目は、レンが半歩踏み込んだことで通り過ぎた。


三つ目は、木剣の腹で撫でるように触れられ、軌道を変えて地面へ落ちた。


魔法の風が、土を少し巻き上げる。


セリウスは目を見開いた。


「今、触れましたか」


「はい」


「魔法に?」


「風の流れに」


「それを魔法と言います」


「そうなのですか」


「いえ、違います。違いますが、そう言いたくなります」


セリウスは混乱していた。


次に、土の拘束。


足元から土の輪を起こし、足首を固定する初級魔法である。


発動は速い。


通常なら、近接戦闘者はこれで足を止められる。


セリウスが魔法式を組む。


土が動く。


レンは、その前に足を置き換えていた。


土の輪が閉じた時、そこに足はない。


「発動前に避けた?」


セリウスが呟く。


「はい」


「なぜ分かるのです」


「先生の視線と、魔力の起こりが足元へ向かいました」


「魔力感知は苦手では?」


「魔力そのものは苦手です。ただ、先生の身体が先に教えてくれます」


「身体」


「はい。目、指、呼吸、足。魔法を使う前に、先生の意識はもうそこを見ています」


セリウスは黙った。


次は、光の目くらまし。


これも初級。


だが、剣士相手には有効である。


瞬間的に視界を奪い、動きを止める。


セリウスが光を弾けさせた。


白い光が広がる。


しかし、レンは目を閉じていた。


光が弾ける前に。


そして、そのまま動いた。


セリウスの背後へ回り、木剣の先を杖に添える。


「取れます」


レンが言った。


セリウスはゆっくり振り返る。


「……いつ目を閉じたのですか」


「先生のまぶたが、少しだけ細くなった時です」


「私の?」


「はい。光を出す前に、先生自身も光に備えました」


セリウスは何も言えなかった。


自分の癖。


発動前の準備。


意識の向き。


それらを読まれている。


魔法を読まれているのではない。


魔法を使う自分を読まれている。


それが、ひどく恐ろしかった。


「続けます」


セリウスは言った。


声が少し低くなっていた。


今度は、中級魔法だった。


水の鞭。


空気中の水分を集め、細い鞭のようにして動かす。


速度は速く、軌道も曲がる。


レンは避けた。


水の鞭が曲がる。


レンはそれに合わせるように歩く。


走らない。


跳ばない。


ただ、歩く。


歩いているだけなのに、当たらない。


水の鞭は何度も軌道を変える。


だが、そのたびにレンは、ほんの少し前にそこを外れている。


セリウスは魔力を強めた。


鞭が二本になる。


レンは片方を避け、もう片方に木剣を添えた。


水の鞭が、木剣に沿って流れる。


勢いを失い、地面へ落ちた。


「魔法を斬ったのですか」


「斬っていません。流しました」


「水魔法を?」


「水なので」


「水なので、では済まないでしょう」


セリウスの声が少し荒くなった。


オルドは腕を組み、非常に楽しそうに見ている。


ガレスならきっと大笑いしていた。


幸か不幸か、今この場にはいない。


次は、炎だった。


もちろん、殺傷用ではない。


訓練用に熱量を落とした火球。


しかし、当たればかなり熱い。


セリウスはそれを三つ作った。


「危険なら止めます」


「はい」


レンは短く答えた。


火球が飛ぶ。


レンは一つ目を避けた。


二つ目は、木剣で触れない。


熱は流せても、木剣は燃える。


だから、風の動きを使った。


火球の横を通り抜ける瞬間、レンは木剣を振った。


剣で火を叩いたのではない。


空気を動かした。


火球の周囲の流れが乱れ、火がわずかに形を崩す。


その隙間を、レンの身体が通る。


三つ目は、地面の土を蹴った。


細かな砂が火球の前へ上がる。


火が砂に触れ、勢いを落とす。


その間に、レンはセリウスの懐へ入っていた。


木剣の先が、セリウスの喉元に添えられる。


「終わりです」


セリウスは、ゆっくり息を吐いた。


無傷。


レンは無傷だった。


髪も焦げていない。


服も息も乱れていない。


魔力の痕跡もない。


「……上級を使います」


オルドが少し目を細めた。


「セリウス」


「殺傷性はありません。障壁と拘束を合わせます」


「ならよい」


レンも頷いた。


「お願いします」


セリウスは魔力を練った。


今度は明らかに違う。


空気が重くなる。


地面に薄い魔法陣が浮かぶ。


風、土、光の複合。


対象の位置を絞り、足場を固定し、周囲を圧で包む。


上級魔法師らしい、実戦的な拘束魔法だった。


普通の剣士なら、発動した瞬間に動けなくなる。


セリウスは手加減しつつも、真剣だった。


魔法陣が光る。


レンは、その中心に立っている。


逃げない。


セリウスは発動した。


地面が沈むように重くなる。


空気が壁になる。


光が視線を乱す。


レンの身体が固定される。


はずだった。


レンは、発動の直前に息を吐いた。


肩を落とす。


膝を緩める。


足裏の重さを、地面へ沈める。


魔法の圧が身体を包む。


レンは逆らわなかった。


押し返さない。


力まない。


圧がかかる方向を受け取り、そのまま自分の重心をずらす。


魔法の拘束は、対象がそこにいることを前提にしている。


だが、レンの中心は、そこから少し外れていた。


身体はある。


だが、魔法が掴もうとしている芯がない。


セリウスの魔法が、わずかに空回りした。


その一瞬。


レンは歩いた。


一歩。


ただの一歩。


魔法陣の外へ。


セリウスは目を見開いた。


「抜けた……?」


レンはそのまま近づき、セリウスの手首へ触れた。


杖を握る手。


魔力を流す指。


そこへ、軽く触れる。


セリウスの魔法式が乱れた。


無理に壊したのではない。


手首の角度。


指の力。


呼吸の間。


そのわずかな乱れで、魔力の流れが途切れた。


魔法陣が消える。


庭に静けさが戻った。


レンの木剣が、セリウスの胸元に添えられていた。


「終わりです」


セリウスは動けなかった。


怪我はない。


痛みもない。


ただ、完全に制圧されている。


何度やっても同じだった。


低位でも。


中級でも。


上級でも。


レンは魔法を真正面から破ったのではない。


魔法そのものより前を読んでいた。


魔法を使う人間を読んでいた。


魔法が形になる前の、起こりを見ていた。


セリウスは、ようやくそれを理解した。


理解したが、納得はできなかった。


「……魔法反応は」


セリウスは測定具を見た。


何も出ていない。


「ありません」


自分で言って、自分で疲れた顔をした。


オルドが笑う。


「だから言ったであろう」


「言われていません」


「見れば分かる」


「見ても分かりません」


「なら、仕方ない」


セリウスはレンを見た。


「レン様」


「はい」


「あなたは、本当に何なのですか」


レンは少し考えた。


そして、いつものように答えた。


「レン・アルクレイドです」


「そういう意味ではありません」


「父さまと母さまの子で、エリナ姉さまの弟で、リオル兄さまの弟で、セラの兄です」


「それも以前聞いたような気がします」


「はい」


セリウスは深く息を吐いた。


「魔法ではない」


「はい」


「未来予知でもない」


「はい」


「身体強化でも、運動干渉でも、力場操作でもない」


「はい」


「では、余計に何なのですか」


レンは木剣を下げた。


「理です」


「理」


「力には向きがあります。魔法にも、人にも、呼吸にも、視線にも、足にも。どこから生まれ、どこへ向かうのか。それを見て、少しだけ触れるだけです」


セリウスは黙った。


その説明は、説明になっているようで、なっていない。


だが、完全に意味不明でもない。


魔法師であるセリウスには、流れという言葉の意味が少しだけ分かった。


魔力にも流れはある。


魔法式にも起こりはある。


発動前の構築。


意識の向き。


身体の準備。


それらは確かに存在する。


ただ、それを戦闘中に読み切り、触れ、崩し、利用するなど、普通はできない。


普通はできない。


その言葉が、最近のセリウスの中で何度も出てくる。


アルクレイド家に関わってから、普通という言葉の価値が暴落していた。


「……記録しても?」


セリウスが聞いた。


レンは少し考えた。


「家の外へ出さない形なら」


「もちろんです」


「なら、構いません」


セリウスは手帳を取り出した。


そして、書き始めようとして止まった。


「何と書けばいいのですか」


オルドが言った。


「魔法ではない何か」


「記録として最悪です」


「では、剣ではない剣」


「さらに悪化しました」


レンは少し考えた。


「観察不能、と書いては」


セリウスは目を閉じた。


「それは敗北宣言です」


「違うのですか」


「違いませんが、書きたくありません」


オルドが声を出して笑った。


セリウスは疲れた顔で手帳を閉じた。


その時、屋敷の方からセラの歌が聞こえた。


小さく、明るい声。


ミリアのために歌っているのだろう。


セリウスはその声を聞き、少し表情を戻した。


「……セラ様の音も、レン様の理も、今の魔法学では説明しきれません」


「説明できるようになりますか」


レンが聞く。


「するしかありません」


セリウスは言った。


その声には、先ほどとは違う決意があった。


「奥様の病を考えるなら、セラ様の音を理解する必要があります。リオル様も、いずれそこへ向かうでしょう。私も、逃げるわけにはいきません」


レンは頷いた。


「お願いします」


「あなたもです」


「私も?」


「はい」


セリウスはレンを見る。


「奥様の呼吸を整えている方法。あれも、何かの体系なのでしょう」


「体系というほどでは」


「あなたの“ほどでは”は信用しません」


レンは黙った。


また言われた。


「いずれ、教えてください」


「分かりました」


「ただし、八歳児が知っていてよい内容かは、後で考えます」


「今考えてもいいのでは」


「今考えると頭が痛くなるので、後にします」


セリウスは本気で疲れていた。


レンは少しだけ申し訳なく思った。


だが、同時に心強くもあった。


セリウスは、理解しようとしている。


セラの音も。


ミリアの病も。


レンの理も。


分からないからといって切り捨てない。


分からないからこそ、向き合おうとしている。


それは、きっと必要なことだった。






その夜。


エリナとリオルは、それぞれの部屋へ戻る前にミリアの部屋を訪ねた。


セラはすでに眠っている。


ミリアは寝台に背を預けていた。


顔色は悪くない。


だが、昼間より少し疲れているようだった。


エリナは椅子に座り、静かに言った。


「母さま。明日から、午前と午後で休む時間を決めましょう」


「エリナ」


「これはお願いではありません」


ミリアは少し笑った。


「命令?」


「提案です。強めの」


「そう」


リオルは横で本を抱えていた。


「僕は王都へ戻ったら、内魔律不全と音魔法に関する資料を探します」


「ありがとう。でも、無理はしないで」


「無理はしません」


リオルは少し考え、付け足した。


「たぶん」


「そこは言い切ってほしかったわ」


「......気をつけます」


ミリアは困ったように笑った。


エリナがすぐに言った。


「リオル。無理をしたら私が止めます」


「うん」


「うん、ではなく、はい」


「はい」


リオルは素直に頷いた。


やはり、エリナは強い。


レンは扉の近くに立っていた。


家族の会話を聞きながら、静かに息をした。


泣く者はいない。


だが、誰も軽く受け止めてはいない。


それぞれが、自分にできることを探している。


エリナは環境を整える。


リオルは理論を探す。


セラは歌う。


ガレスは未来に備えて強くなる。


セリウスは理解しようとする。


オルドはガレスとレンを見ている。


そしてレンは、理で母の苦しさを少しでも逃がす。


病は、まだそこにある。


静かに。


ゆっくりと。


けれど、その周りに家族が立った。


ミリアは一人ではなかった。


それだけは、確かだった。


窓の外では、冬の風が吹いている。


部屋の中では、暖炉の火が静かに揺れている。


ミリアが小さく息を吐いた。


その息は、以前より少し深かった。


レンはそれを見て、ほんの少しだけ安堵した。


まだ、できることはある。


剣で斬れないものにも、届く手はある。


そう思えた。


その夜、屋敷には小さな音がいくつもあった。


セラの寝息。


リオルが本を閉じる音。


エリナが椅子を引く音。


ガレスが庭で木剣を握り直す音。


オルドがそれを見守る足音。


そして、レンが母の呼吸に合わせて、静かに自分の息を整える音。


病は、家族の中へ入ってきた。


だが、家族はそれを囲んだ。


恐れだけではなく。


悲しみだけでもなく。


それぞれのやり方で、守るために。

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