第九話 レンと入学試験
二年が過ぎた。
大きな事件は何も起きていない。
ただ、日々が積もった。
朝が来て、剣を振る。
昼が来て、母の呼吸を整える。
夕方になれば、セラの歌が屋敷に流れる。
夜には、王都から届いた手紙を読む。
そうして、同じように見える日々の中で、少しずつ変わっていった。
ミリアは、以前より休む時間が増えた。
それでも、彼女は笑った。
朝の食卓では、ガレスの服の乱れを直し、セラの髪を結び、レンに「無理をしないで」と言った。
それは以前と変わらない。
ただ、長く立った後には椅子へ座る。
長く話した後には、少し息を整える。
外へ出る日も減った。
病は、確かにそこにあった。
けれど、屋敷の真ん中に座り込んで、すべてを暗くするほどではなかった。
家族が、そうさせなかった。
セラは毎日歌った。
五歳の頃は、ただ明るく跳ねる音だった。
七歳に近づく頃には、音の伸ばし方を覚えた。
鈴の音に合わせるだけではなく、水面の揺れや、風の抜け方や、ミリアの呼吸の速さに合わせて、歌を変えるようになった。
もちろん、本人は深く考えていない。
「今日は、こっちのうた!」
そう言って、その日の気分で歌う。
だが、レンには分かった。
セラの音は、母の呼吸に触れる場所を少しずつ探している。
癒やしているとは、まだ言えない。
治しているなどとは、もっと言えない。
けれど、ミリアの息が浅い日は、セラの歌で少しだけ深くなる。
眠りが浅かった日の夜、セラが枕元で歌うと、ミリアの表情が少し緩む。
小さな効果だった。
けれど、確かに積み重なっていた。
リオルからは、手紙が増えた。
王都の図書室で見つけた古い魔力疾患の記録。
儀式歌に関する古文書の写し。
治癒魔法と詠唱の関係。
医療魔法の失敗例。
内魔律不全に似た症例。
どれも到底、子供が読むものではなかった。
だが、リオルは読んだ。
読んで、分からないところを書き出し、セリウスへ送り、また読み直した。
手紙の最後には、いつもこう書かれている。
母さまへ。
無理はしないでください。
まだ分からないことばかりですが、分からないことが少しずつ分かってきました。
それは、リオルらしい文章だった。
分からないことが少しずつ分かってきた。
普通なら回りくどい。
だが、リオルが言うと、不思議と前へ進んでいるように聞こえる。
エリナからの手紙は、もっと実務的だった。
母の休む時間は守られているか。
来客は減ったか。
薬の管理表はつけているか。
セラが歌いすぎていないか。
ガレスが無理に明るく振る舞っていないか。
レンが一人で背負っていないか。
質問が多い。
多すぎる。
だが、その一つ一つに、確かな気遣いがあった。
エリナは王都の貴族学校で、さらに名を知られるようになっていた。
白手袋の裁定者。
教師を黙らせた騎士爵令嬢。
剣術で侯爵家男子を三本取った女。
面倒事を持ち込むと解決されるが、自分の非まで明らかにされる恐ろしい人。
噂は増えた。
人の口は、相変わらず勝手である。
事実をそのまま運べばよいものを、途中で砂糖や毒をまぶす。
菓子ならまだしも、噂に余計な味付けをする必要はない。
しかし、噂はそういうものだった。
リオルもまた、少しずつ知られ始めていた。
魔法理論の授業で教師に質問し、図書室で上級生と議論し、難しい本を普通の顔で読む。
柔らかい顔で、妙に深いことを言う。
怒っているのかと思えば、ただ考えているだけ。
こちらもこちらで、別の意味で扱いにくい生徒になっていた。
そしてレンは、屋敷にいた。
十歳になるまでの二年間、レンは外へ出ることよりも、自分の内側へ潜るように過ごした。
前世の理を、今世の心でどこまで取り戻せるか。
それを毎朝、毎夕、確かめ続けた。
八歳の頃、レンはすでに理を知っていた。
力の向きも見える。
呼吸の起こりも読める。
触れた瞬間に、相手の重心がどこへ流れようとしているかも分かる。
だが、分かることと、届くことは違った。
問題は、身体の小ささだけではない。
むしろ、大きかったのは心だった。
前世の玄斎は、百十五年をかけて心を沈めた。
怒りも、恐れも、驚きも、喜びさえも、すべて足元へ落とし、呼吸の底へ沈めることができた。
だから、相手の起こりが見えた。
相手の力を、余計な揺れなく受け取れた。
だが、今のレンは違う。
若い身体に、心が引っ張られる。
怒れば、胸が熱くなる。
驚けば、息が浅くなる。
嬉しければ、足が少し浮く。
恐れれば、指先がわずかに固まる。
前世なら静かに流せた感情が、今の身体ではすぐ表へ上がってくる。
理は知っている。
技もある。
だが、心が揺れれば、流れは濁る。
それが、今のレンが前世に届かない一番の理由だった。
だから、二年間、レンは強くなることよりも、戻すことを学んだ。
怒りを消すのではない。
恐れを否定するのでもない。
喜びを押し殺すのでもない。
胸へ上がったものを、呼吸へ戻す。
呼吸へ戻したものを、腹へ沈める。
腹へ沈めたものを、足元へ落とす。
感情を敵にしない。
ただ、流れの中へ戻す。
それができた時だけ、前世の理が少し戻った。
七歳の時、レンは父を傷つけられて怒った。
怒りに飲まれはしなかった。
だが、怒りが前へ出た。
もし父が死んでいたらどうだったか。
その問いに、レンは今でもはっきり答えられない。
だから、稽古を続けた。
剣の稽古ではない。
心を沈める稽古だった。
ある朝、レンはオルドと向き合っていた。
庭には薄い霜が残っている。
ガレスは少し離れた場所で見ていた。
セリウスもいる。
この二年で、セリウスはレンの稽古を見ても、いちいち水晶を持ち出すことは減った。
完全に納得したわけではない。
ただ、測っても何も出ないことを学んだだけである。
学習とは時に諦めに似ている。
「今日は少し速くする」
オルドが言った。
「はい」
レンは木剣を下げたまま立つ。
構えはない。
オルドが少し笑って言った。
「まぁお前にわざわざ断る必要ないだろうがな」
レンは息を吐いた。
白い息が、朝の空気に溶ける。
オルドが動いた。
速い。
以前より速い。
いや、正確には、速く見えない速さだった。
無駄が減っている。
この二年で、オルドも変わった。
レンの理を見て、自分の剣を削った。
見せる動きを減らし、読ませる情報を減らし、起こりを薄くした。
剣神がなお学ぶ。
それは恐ろしいことだった。
オルドの木剣が、レンの左肩へ向かう。
レンは受けない。
避けもしない。
肩へ向かう剣の側面に、自分の木剣の腹を添えた。
そこでレンは、ほんの少しだけ胸が熱くなるのを感じた。
楽しい。
前世では、そういう感情さえ深く沈んでいた。
だが今は、優れた剣を前にすると、心が動く。
嬉しさが、足を軽くしようとする。
レンはその感情を消さなかった。
嬉しさを、息へ戻す。
息へ戻したものを、腹へ沈める。
腹へ沈めたものを、足元へ落とす。
剣筋が見えた。
オルドの剣は外れる。
同時に、オルドの身体がわずかに流れる。
レンはそこへ入ろうとした。
だが、オルドは読んでいた。
流された剣を、そのまま肘で殺し、腰で次の軌道へつなぐ。
レンの木剣が空を切る。
オルドの膝が動く。
下段からの打ち上げ。
レンは下がらない。
前へ出た。
前へ出ることで、剣の力が乗り切る前の場所へ入る。
木剣の根元に触れる。
力の起点を押さえる。
オルドの剣が止まる。
だが、止まった瞬間、オルドの左手がレンの肩へ伸びた。
組み付くためではない。
崩すための手。
レンはその手に触れた。
触れた瞬間、前世の感覚が少し戻った。
身体が強くなったからではない。
心が、一瞬だけ静まったからだ。
オルドの指。
手首。
肘。
肩。
背。
腰。
足。
全部が一本の線で見える。
怒りも焦りもない。
勝とうとする心もない。
ただ、流れだけがあった。
レンはその線に逆らわず、ほんの少しだけ横へ流した。
オルドの重心がずれる。
剣神の身体が、半歩だけ沈む。
レンの木剣が、オルドの首筋へ添えられた。
止まった。
庭の空気も止まったようだった。
ガレスが息を呑む。
セリウスが目を見開く。
オルドは、首筋に添えられた木剣を見て、それからレンを見た。
「……今のは、前より近いな」
レンは木剣を下げた。
「はい」
「どのくらいだ」
レンは少し考えた。
前世の自分。
百十五年の果てにあった心。
百四歳でようやく掴んだ理。
そのすべてと比べれば、まだ遠い。
遠すぎる。
それでも。
「一瞬だけ、届きました」
レンは答えた。
オルドは目を細めた。
「一瞬か」
「はい。身体ではなく、心が静まった一瞬だけです」
「おかしいことを言っている自覚はありますか」
セリウスが横から言った。
レンはそちらを見た。
「はい。少しは」
「少しは、ですか」
「おかしいというか、簡単なことではないかなと」
セリウスは天を仰いだ。
屋外なので天井はない。
それでも見上げたくなる気持ちは分かった。
オルドは低く笑った。
「十歳で、わしの重心を半歩沈めた」
「完全には崩せていません」
「完全に崩されたら、わしは剣神を返上せねばならん」
「返上する場所があるのですか」
「知らん」
ガレスが笑った。
久しぶりに、心から楽しそうな笑いだった。
「レン、お前、本当に強くなったな。いや。元々の強さが磨かれたというべきか」
レンは父を見る。
「少し、静かになれました」
「静か?」
「はい。強くなったというより、心が前より揺れなくなりました」
ガレスはよく分からないという顔をした。
「つまり、強くなったということだな」
「そうとも言えます」
「よし」
ガレスは満足そうに頷いた。
複雑な説明は、父にはあまり必要ないらしい。
セリウスは必要だった。
「今の動きも、魔法反応はありません」
彼は測定具を見ていた。
「ですが、明らかに身体能力だけではありません」
「身体能力です」
レンが言う。
「その身体能力の定義が、私と違うのです」
「そうでしょうか」
「そうです」
セリウスは測定具をしまった。
「ただ、少し分かってきました」
レンは意外に思って、セリウスを見る。
「分かったのですか」
「少しだけです。あなたは、魔法を破っているのではない。人の動きを読んでいる。魔法であっても、使うのは人です。発動には意識があり、姿勢があり、呼吸があり、魔力の起こりがある」
「はい」
「そのすべてを、あなたは一つの流れとして見ている」
レンは頷いた。
「近いです」
セリウスは少しだけ嬉しそうにした。
「近い?」
「はい」
「ようやく近づきましたか」
「はい」
セリウスは小さく拳を握った。
上級魔法師が、十歳の子供の説明に近づけたことで喜んでいる。
冷静に見ると、かなりおかしな光景だった。
だが、セリウスにとっては大きな進歩だった。
「では、入学前の対魔法訓練を増やしましょう」
セリウスが言った。
レンは少し困った。
「まだ増やすのですか」
「当然です」
「学校では隠す必要があります」
「隠すためにも、知っておく必要があります。どこまで避ければ不自然か。どこまで受ければ怪我をしないか。どこで失敗したように見せるか」
オルドが頷いた。
「それは必要だ」
ガレスも真面目な顔になる。
「レン、学校では目立つなよ」
「努力します」
「その返事は信用できるのか」
「できる範囲で」
「それは信用できない返事だ」
全員に見抜かれている。
レンは少しだけ反省した。
十歳の誕生日が近づく頃、レンの貴族学校への入学試験の日が決まった。
アルクレイド家は騎士爵家である。
領地を持つ大貴族ではない。
だが、ガレスの武勲と、エリナとリオルの在学実績もある。
貴族学校の試験は、一般に言われるほど厳しいものではない。
少なくとも、貴族や騎士爵家の子にとっては。
筆記、魔力測定、実技、面接。
四つ合わせて五百点満点。
三百点で合格。
形式としてはそうなっている。
だが、実際には入学前の確認に近い。
筆記で基礎学力を見る。
魔力測定で適性を測る。
実技で魔法の扱いを見る。
面接で、家柄、礼法、態度、将来性を見る。
そして貴族の子は、面接で二百点を与えられることが多い。
よほど問題がなければ、落ちない。
それが貴族学校だった。
学校とはいえ、完全に身分から自由ではない。
人間は、建前を掲げるのは得意だ。
だが、その建前の下に椅子を置き、身分の高い者から順に座らせるのも得意だった。
レンは、その仕組みに特に驚かなかった。
前世でも似たようなものはあった。
名家の子。
有力者の子。
金を持つ者。
権威に近い者。
どこの世でも、入口の形は完全には平らにならない。
ただ、その中で何をするかは、本人次第だった。
試験当日。
レンは一人で王都へ向かった。
もちろん、本当に一人というわけではない。
屋敷の馬車があり、御者がいる。
学校までの道も、すでに何度か確認されていた。
だが、家族は屋敷で見送る。
それはエリナの時も、リオルの時も同じだった。
アルクレイド家では、子が学校へ向かう時、親が学校の門の前までついていくことはしない。
見送るのは屋敷まで。
そこから先は、自分で向かう。
玄関前には、ガレスとミリア、セラがいた。
オルドとセリウスも、少し離れた場所に立っている。
ミリアは玄関の内側に立っていた。
以前なら、門の近くまで出てきただろう。
だが、今は長く外に立たない方がいい。
レンも、ガレスも、それを分かっていた。
セラはミリアの隣で、レンの袖を握っている。
「レン兄さま、いくの?」
「はい。試験を受けて、そのまま学校に入ります」
「かえってくる?」
レンは少しだけ言葉を選んだ。
「すぐには帰れません。次の休みには帰ります」
セラの手が、レンの袖をぎゅっと握った。
「今日はかえってこないの?」
「はい」
セラは唇を尖らせた。
「やだ」
「私も、セラの歌が聞けないのは寂しいです」
「じゃあ、行かないで」
「それは困ります」
「セラもいく」
「学校には、まだ入れません」
「じゃあ、うた、もって行って?」
レンは少し考えた。
「歌は持っていけますか」
「もって行けるよ!」
セラは真剣な顔で言った。
「セラのうた、レン兄さまの中に入れる」
そう言うと、セラは小さく息を吸った。
「レン兄さま、がんばれー。ちゃんと、ねてー。ちゃんと、食べてー。かえってきてー」
がんばれより、注意の方が多い。
おそらくミリアとエリナの影響だった。
レンは静かに聞いた。
歌は幼い。
だが、その音は温かかった。
「ありがとうございます。持っていきます」
セラはようやく袖を離した。
「じゃあ、ゆるす」
少し偉そうだった。
けれど、その目は少し潤んでいた。
ミリアは笑っていた。
「気をつけてね、レン」
「はい」
「無理はしないで」
「はい」
「目立ちすぎないで」
「努力します」
ミリアの目が少し細くなる。
「レン」
「はい」
「そこは、はいと言うところよ」
「はい」
ミリアは満足そうに頷いた。
ガレスは腕を組んでいた。
先ほどから、何度も何かを言いかけては黙っている。
「父さま」
「何だ」
「三回ほど、同じ顔をしています」
「どんな顔だ」
「ついて行きたい顔です」
「……そんな顔はしていない」
ミリアが静かに言った。
「しています」
ガレスは黙った。
オルドが横で少し笑う。
「ガレス。門の前までついて行けば、それだけで目立つぞ」
「分かっています」
「分かっている顔ではないな」
「分かっています」
セリウスも続けた。
「試験会場に父親同伴で現れれば、教師側にも余計な印象が残ります。レン様にとっても不利になる可能性があります」
「分かっている」
ガレスは三度目を言った。
言葉だけなら、確かに分かっていそうだった。
顔はまだ納得していなかった。
レンは父を見上げた。
「父さま」
「何だ」
「大丈夫です」
ガレスは少しだけ眉を下げた。
「それをお前が言うと、あまり大丈夫に聞こえない」
「そうでしょうか」
「そうだ」
ガレスは大きく息を吐いた。
それから、レンの頭に手を置いた。
「緊張しているか」
「少し」
「そうか」
「父さまは?」
「かなり」
「父さまが緊張するのですか」
「する。息子の試験だぞ」
「父さまが受けるわけではありません」
「だから緊張するんだろう」
レンは少し考えた。
遠い記憶だが、確かにそういうものだったかもしれない。
ガレスはレンの頭を軽く撫でた。
「行ってこい」
「はい。行ってきます」
ミリアが手を振る。
セラも両手を振る。
「レン兄さま、がんばれー!」
レンは馬車へ乗った。
扉が閉まる。
車輪が動き出す。
屋敷が少しずつ遠ざかる。
窓の向こうで、セラがまだ手を振っている。
ミリアも、玄関の内側から穏やかに見送っていた。
ガレスは腕を組んだまま立っている。
ついて来たい気持ちを、全身で我慢している顔だった。
レンは小さく頭を下げた。
今日、試験を受ける。
そして、受かればそのまま寮へ入る。
屋敷へ帰るのは、次の休みになる。
エリナも、リオルも、そうして家を出た。
今度はレンの番だった。
馬車は王都へ向かう。
王都の貴族学校は、広かった。
高い石壁。
整えられた門。
正面には古い校舎があり、その奥には訓練場と庭園が見える。
魔法学の塔。
剣術場。
図書棟。
どれも、普通学校とは規模が違う。
馬車は学校の外門前で止まった。
御者が扉を開ける。
レンは礼を言い、馬車を降りた。
門の前には、受験生らしい子供たちが何人かいた。
付き添いの使用人を連れている者。
不安そうに周囲を見る者。
自信ありげに立つ者。
家名を見せるような振る舞いの者。
そのどれもが、この学校の入口らしかった。
レンは門を見上げた。
ここに、エリナとリオルがいる。
姉は四年生。
兄は二年生。
そして、今日からレンもこの場所に関わる。
受付を済ませると、レンは試験会場へ案内された。
最初は筆記だった。
歴史。
地理。
計算。
礼法の基礎。
魔法学の初歩。
問題は難しすぎるほどではない。
普通学校の内容よりは高度だが、家庭教師を受けている子なら解ける範囲である。
レンは淡々と解いた。
魔法学の理論部分は苦手ではない。
使えないだけで、仕組みそのものは理解できる。
火を生む式。
水を動かす式。
土の形を変える式。
障壁の基礎理論。
どれも、体で使おうとすると上手くいかない。
だが、紙の上で見る分には分かる。
むしろ、魔法が使えない分、式の無駄や構造が見えやすいこともあった。
筆記が終わると、魔力測定へ移った。
水晶に手を乗せる。
魔力測定具が淡く光る。
光は弱かった。
係の教師が、少しだけ眉を動かした。
「魔力量、低。属性反応、極めて低。生活魔道具への反応はあり」
記録係が書き込む。
点数は、五点だった。
ほぼ最低点である。
レンは特に驚かなかった。
五歳の時と変わらない。
少しは扱える。
だが、魔法使いとしての適性は低い。
次は実技だった。
訓練用の的が置かれている。
試験官が言った。
「火、風、水、土のいずれかで的に当てなさい。威力は問わない。安全に制御すること」
レンは小さく頷いた。
選んだのは風だった。
火は弱すぎる。
水は形が崩れる。
土は遅い。
風なら、まだ何とかなる。
レンは呼吸を整え、掌に魔力を集めた。
魔力は少ない。
だが、暴れないように絞る。
強くしようとしない。
届けばいい。
小さな風の弾が生まれた。
それはふらりと揺れながら、的へ向かった。
速度は遅い。
威力も弱い。
だが、狙いは外れなかった。
風弾は的の端に当たり、軽く紙を揺らした。
試験官が少し意外そうな顔をした。
「制御は悪くない」
別の試験官が頷く。
「威力は低いが、暴発はない。的には当てた」
実技は十点。
低い。
だが、レンにとっては十分だった。
魔法だけで的に当てたのだから、むしろ頑張った方である。
最後は面接だった。
面接室は、他の試験会場とは空気が違った。
広い部屋の奥に、数人の教師が座っている。
中央にいる老人は、白い髪を後ろへ流し、深い青のローブを着ていた。
年齢は高い。
だが、背筋はまっすぐ伸びている。
目は穏やかだが、奥が深い。
その老人の周囲だけ、部屋の広さが少し違って見えた。
近いはずの椅子が遠く、遠いはずの壁が近い。
空間そのものを、薄く握っているような感覚。
この人が校長だろう。
元世界最強の魔法使い。
今でも、世界で三本の指に入ると言われる空間魔法の名手。
名は、アーヴァイン・レクシード。
レンは一礼した。
「レン・アルクレイドです」
その瞬間、アーヴァインの目が、ほんのわずかに細くなった。
一礼。
ただの礼だった。
年相応に丁寧で、家で教えられた通りの礼。
そう見える。
だが、アーヴァインには少し違って見えた。
頭を下げる角度。
足裏に残る重さ。
腰の沈み方。
視線を下げる瞬間の呼吸。
どれも礼法としては目立たない。
しかし、隙がない。
いや、隙がないように見せているのではない。
そもそも、隙というものを作らない立ち方だった。
十歳の子供がする礼ではない。
貴族の子が習う礼法とも違う。
剣士の礼にも近い。
だが、剣士のそれとも少し違う。
アーヴァインは、レンの魔力測定の結果を思い出した。
魔力量、低。
属性反応、極めて低。
生活魔道具への反応はあり。
魔法の才は乏しい。
それは確かだ。
しかし、今目の前にいる少年は、魔法の才がないというだけで片づけるには、あまりに静かだった。
部屋には、面接官たちの視線がある。
校長である自分の圧もある。
普通の十歳なら、少しは呑まれる。
背筋が固くなる。
呼吸が浅くなる。
指が動く。
視線が泳ぐ。
だが、レンにはそれがほとんどない。
緊張していないわけではない。
緊張はしている。
ただ、その緊張が胸に上がっていない。
足元へ落ちている。
アーヴァインは、そこで一つ目の違和感を覚えた。
校長アーヴァインは、穏やかに頷いた。
「よく来ました、レン君。エリナ君とリオル君の弟ですね」
「はい。姉と兄がお世話になっています」
「二人とも、なかなか印象深い生徒です」
その言い方に、隣の教師の何人かが微妙な顔をした。
印象深い。
便利な言葉である。
褒めてもいるし、困ってもいる。
きっと両方なのだろう。
面接官は校長のほかに、剣術、魔法学、礼法、歴史、基礎教養の教育責任者が並んでいた。
その中で、一人だけ明らかに不満そうな顔をしている教師がいた。
黒いローブの男。
年は四十前後。
鋭い目つきで、レンの資料を見ている。
魔法学の教育責任者の一人らしい。
名札には、グレアン・ヴォルフとあった。
アーヴァインは、まず家での学習について聞いた。
「家庭では、どのような学習をしてきましたか」
「読み書き、計算、歴史、地理、礼法の基礎です。魔法学は、セリウス先生から初歩を教わりました」
「魔法学は好きですか」
「はい」
グレアンの眉がわずかに動いた。
アーヴァインも、それに気づいた。
「使うのは苦手だと聞いています」
「はい。苦手です」
「それでも好きですか」
「はい」
「なぜ?」
レンは少し考えた。
「仕組みがあるからです」
「仕組み?」
「はい。火が生まれるにも、水が動くにも、土が形を変えるにも、魔力がただ強いだけではなく、流れと形があります。私はうまく使えませんが、その流れを見ることはできます」
アーヴァインの指が、肘掛けの上で小さく止まった。
流れを見る。
十歳の子供が、魔法についてそう言った。
魔力を感じる、ではない。
式を覚える、でもない。
流れを見る。
アーヴァインは静かにレンを見た。
「魔法の流れが見えるのですか」
「魔法そのものは、あまり得意ではありません」
レンは正直に答えた。
「ただ、魔法を使う人の動きは見えます。視線や、呼吸や、手の動きです」
アーヴァインは、二つ目の違和感を覚えた。
この少年は、魔法を魔法として見ていない。
魔法を使う人間の行為として見ている。
それは、魔法師とは別の視点だった。
剣術の教師が興味深そうに身を乗り出した。
「剣は習っているのか」
「はい。父と、オルド先生から少し」
「オルド先生、とは剣神オルド殿か」
「はい」
部屋の空気が少し動いた。
グレアンは小さく鼻を鳴らした。
「剣神に学ぶとは、ずいぶん恵まれていますね」
レンはそちらを見た。
「はい。ありがたいことだと思っています」
嫌味は通じなかった。
いや、通じなかったように見えた。
アーヴァインには、そうではないと分かった。
レンは今、嫌味を理解している。
理解したうえで、返す必要がないと判断した。
十歳の子供の反応ではない。
だが、表情はあくまで穏やかだった。
礼法の教師が問う。
「学校生活で、気をつけたいことはありますか」
「一人で決めつけないことです」
「決めつけない?」
「はい。家では分かっていることでも、学校では知らないことが多いと思います。自分の見方だけで人を見ると、間違えるかもしれません」
「なかなか良い答えですね」
礼法の教師は頷いた。
アーヴァインは、その答えにも静かに目を細めた。
十歳らしい優等生の答えにも聞こえる。
だが、言葉の奥が少し違う。
この少年は、人を見ることの怖さを知っている。
そして、自分が人を読めることも知っている。
だからこそ、決めつけないと言った。
そう聞こえた。
もちろん、考えすぎかもしれない。
老いた魔法使いの悪い癖だ。
長く生きると、子供の一言にまで意味を見つけようとする。
人間、年を取ると面倒になる。
アーヴァインは自分の思考を少し抑えた。
だが、違和感は消えなかった。
「魔法適性について、どう考えていますか」
アーヴァインが聞いた。
レンは答えた。
「得意ではありません。ですが、学ばなくてよいとは思っていません。魔法を使う者が多い世界で生きるなら、魔法を知らないことは危険です」
「自分が使えなくとも、知る必要はあると」
「はい」
「なぜ?」
「相手が使うからです」
部屋が少し静かになった。
レンは続けた。
「火を使えなくても、火の危険は知るべきです。水を操れなくても、水の流れは知るべきです。障壁を張れなくても、障壁の向こうにいる相手とは向き合います」
アーヴァインは、はっきりと三つ目の違和感を覚えた。
この答えは、防ぐ者の答えではない。
向き合う者の答えだ。
魔法を恐れているのではない。
魔法を、相手の手段の一つとして数えている。
魔法適性が低い少年の答えとしては、あまりに落ち着いていた。
「なるほど」
アーヴァインは小さく笑った。
礼法の教師が頷く。
剣術の教師も、明らかに興味を持った顔をした。
だが、グレアンだけは違った。
彼は資料を机に置き、冷たく言った。
「言葉は立派ですが、数値は正直です」
空気が少し硬くなる。
アーヴァインは止めなかった。
グレアンが何を言うか、ある程度読めていた。
そして、ここで止めれば、彼の不満は入学後まで残る。
それは、それで面倒だった。
グレアンは続けた。
「魔力測定五点。実技十点。魔法適性はほぼ最低。筆記は八十六点と悪くありませんが、貴族学校で学ぶには魔法の資質があまりにも低い」
レンは黙っていた。
グレアンはレンではなく、他の教師たちを見るように言った。
「アルクレイド家の長女は魔法剣に才があり、長男は魔法理論に優れている。だからといって、この次男も入れるべきだという理由にはなりません」
ガレスが同席していれば、眉を吊り上げていただろう。
幸い、面接室にはいない。
レンは静かに息をした。
怒りはない。
少しだけ、胸が熱くなった。
家族を引き合いに出されたからだ。
その熱を、呼吸へ戻す。
腹へ沈める。
足元へ落とす。
アーヴァインは、それを見た。
ほんの小さな変化だった。
普通なら見逃す。
だが、彼は空間魔法の名手である。
人がそこにどう立っているか。
どこへ重さを置いているか。
どの瞬間に身体の芯が揺れるか。
それを見ることには慣れていた。
今、レンの中で何かが上がり、すぐに下へ沈んだ。
怒りか。
不快か。
それとも、別の感情か。
いずれにせよ、十歳の子供が面接室でできる処理ではない。
アーヴァインは、ほとんど確信に近いものを覚えた。
この少年は、何かを隠している。
魔法ではない。
魔力量は低い。
反応も弱い。
だが、魔法ではない何かを持っている。
しかも、それを見せないようにしている。
アーヴァインは、内心で小さく息を吐いた。
アルクレイド家は、どうしてこういう子ばかりなのか。
姉は場を裁く。
兄は理論を掘る。
そして弟は、どうやら自分の底を隠している。
学校長という仕事は、年々面倒になる。
「グレアン先生」
アーヴァインは穏やかに言った。
「貴族学校は、魔法使いだけを育てる場所ではありません」
「分かっております」
グレアンは答えた。
「ですが、この学校の中心は魔法学です。王国を支える貴族、騎士、官僚となる者は、魔法の理解と実践を持たねばならない。生活魔道具程度しか扱えぬ者を、将来ある生徒たちと同じ場に置くことが、本当に本人のためになりますか」
言葉だけ聞けば、筋は通っている。
本人のため。
学校のため。
周囲のため。
便利な言葉だ。
だが、そこにあるのは、魔法を持たぬ者への軽視だった。
レンはそれを感じた。
アーヴァインも、それを感じていた。
校長は静かに資料を見た。
「点数はどうなっていますか」
記録係が答える。
「筆記八十六点。魔力測定五点。実技十点。面接は、規定通り二百点を付けるなら合計三百一点です」
三百一点。
合格点は三百点。
一点だけ上回る。
ぎりぎりだった。
あまりにも、ぎりぎりだった。
部屋の何人かが微妙な顔をした。
制度上は合格。
しかし、誇れる数字ではない。
グレアンはその一点を見て、さらに不満を強めた。
「面接で二百点を与えるから合格するだけです。実質的には不合格に等しい」
アーヴァインは穏やかに言った。
「制度上は合格です」
「制度を盾に、学校の質を落とすべきではありません」
剣術の教師が少し眉を動かした。
「グレアン先生、言い過ぎでは」
「いいえ。私は当然のことを言っています」
グレアンはレンを見た。
「魔法を扱えない者が、貴族学校で何をするのですか」
レンは静かに答えた。
「学びます」
「何を」
「魔法を。剣を。歴史を。礼法を。人を」
「魔法が使えぬのに?」
「使えないから、学びます」
グレアンの顔に苛立ちが浮かんだ。
「言葉遊びは結構です」
アーヴァインが軽く手を上げた。
「そこまでにしましょう」
しかし、グレアンは引かなかった。
「いいえ、校長。ここは曖昧に済ませるべきではありません」
部屋の空気が、さらに重くなった。
グレアンはレンを見た。
その目には、苛立ちだけではなく、確信に近いものがあった。
魔法の資質を持たぬ者を、この学校に入れるべきではない。
そう信じている目だった。
「私は、この生徒を入れるべきではないと考えます」
剣術の教師が眉を寄せた。
「制度上は合格です。異議を唱えるには弱いのではありませんか」
「制度そのものが、貴族の子弟を落とさぬために作られているからです」
グレアンは言った。
「面接点で二百点を与えれば、ほとんどの者は合格する。ならば、我々教師が見るべきは、数字の裏にある本質でしょう」
礼法の教師が静かに言った。
「本質、ですか」
「ええ」
グレアンは机の上の資料を指で叩いた。
「魔力測定五点。実技十点。この数値は、魔法教育における致命的な不足を示しています。ここは貴族学校です。礼法や歴史だけを学ぶ場所ではありません。王国を支える者を育てる場所です」
それは完全な暴論ではなかった。
だからこそ、面倒だった。
差別や侮りは、時に正論の形をして現れる。
「ならば、どうしたいのですか」
アーヴァインが穏やかに聞いた。
その声に怒りはない。
だが、部屋の空気がわずかに引き締まった。
グレアンは少し間を置いた。
そして、言った。
「追加試験を提案します」
「追加試験?」
「はい。魔法への対応力を見る試験です」
数人の教師が、すぐに顔を上げた。
「相手は誰が?」
剣術の教師が聞く。
グレアンは、当然のように答えた。
「私が行います」
部屋が静まり返った。
十歳の受験生に、魔法学の教育責任者が直接試験を行う。
普通ではない。
いや、異例という言葉でも足りない。
礼法の教師が眉をひそめる。
「それは、少し行き過ぎではありませんか」
「殺傷性のある魔法は使いません」
グレアンは即座に答えた。
「攻撃を当てる必要もない。十分間、私の魔法による攻めに耐えられるかを見るだけです。本人は魔法が苦手だと言う。ならば、せめて魔法の場で自分を守れるかくらいは確認すべきでしょう」
「十歳の子供です」
「貴族学校に入る子供です」
グレアンの声は硬かった。
「この学校では、魔法演習も、野外演習もあります。魔法を扱えぬ者が、危険な場で足を引っ張ることになれば、本人だけでなく周囲も危険に晒す」
また、筋は通っているように聞こえた。
だからこそ、空気が重くなる。
誰もすぐには否定できない。
ただ、その提案の奥にある感情も、誰もが感じていた。
認めたくないのだ。
魔法に乏しい少年が、面接点によってこの学校へ入ることを。
アーヴァインは、しばらく黙っていた。
そして、レンを見た。
その視線は穏やかだった。
だが、レンには分かった。
見られている。
点数でも、家名でも、魔法適性でもなく、自分の中の何かを。
アーヴァインは、すでにかなり近いところまで察している。
完全に見抜いているわけではない。
だが、何も知らないふりをしている。
そう見えた。
アーヴァインは静かに言った。
「グレアン先生」
「はい」
「あなたの提案は、通常なら認められません」
「……」
「受験生に対して、教師が直接魔法を用いる。しかも十分間の継続試験。これは入学前検査の範囲を超えています」
グレアンは口を閉じた。
校長の言葉は穏やかだったが、拒絶に近い響きがあった。
しかし、アーヴァインはそこで言葉を切らなかった。
「ですが」
その一言で、部屋の空気が変わった。
「あなたがそこまで言うのであれば、学校長として条件付きで承認します」
礼法の教師が驚いたように校長を見た。
剣術の教師も、わずかに目を細める。
グレアンは少しだけ表情を緩めた。
だが、校長の次の言葉で、その緩みは消えた。
「条件は厳しくします」
アーヴァインの声は静かだった。
「殺傷性のある魔法は禁止。過度な負傷を与える魔法も禁止。対象を直接傷つける火炎、雷撃、石槍、氷刃の類は禁止。拘束、牽制、押し出し、視界妨害までとします」
グレアンが口を開きかける。
だが、アーヴァインは続けた。
「さらに、レン君からの攻撃は禁止。回避、防御、移動のみ。十分間、意識を保ち、場外へ出ず、倒れなければ合格とします」
「倒れなければ、ですか」
「ええ」
アーヴァインはグレアンを見た。
「あなたが確認したいのは、魔法の場で自分を守れるかどうかでしょう。ならば、それで十分です」
グレアンは唇を引き結んだ。
本当は、もっと明確に打ち負かしたかったのだろう。
だが、校長の条件に反論することはできなかった。
アーヴァインは、次にレンを見た。
「レン君」
「はい」
「これは本来、受ける必要のない試験です。制度上、あなたは合格しています」
その言葉に、グレアンの眉がわずかに動いた。
校長は気にせず続ける。
「断っても、不利にはしません」
部屋の視線がレンに集まった。
レンは少しだけ考えた。
ここで断っても、制度上は合格。
校長もそう言った。
だが、このまま入れば、グレアンの納得はない。
魔法至上の教師は、今後もレンを見るたびに同じ目を向けるだろう。
それ自体は構わない。
だが、面倒は早めに形にしておいた方がいい。
形にすれば、流せる。
それに、校長の目が気になった。
あの人は、おそらく分かっている。
少なくとも、レンがただの魔法不得手な子供ではないことを。
そのうえで、断る道も残した。
無理に晒そうとしているのではない。
むしろ、この場を最も小さな形で収めようとしている。
ならば、受けてもいい。
「受けます」
レンは答えた。
アーヴァインの目が、ほんのわずかに笑った。
「分かりました」
それは、驚いた笑みではなかった。
やはり、そう答えると思っていた。
そんな笑みだった。
「では、訓練場へ」
訓練場には、すぐに数人の教師が集まった。
本来なら非公開の追加試験である。
だが、面接官たちは全員立ち会うことになった。
校長アーヴァインもいる。
彼は訓練場の端に立ち、穏やかな顔でレンを見ていた。
その目だけは、穏やかすぎて逆に読めない。
空間魔法の名手。
元世界最強。
その評価は、誇張ではないだろう。
レンは、彼の周囲の空気が他の者と違うことを感じていた。
距離が、少し曖昧になる。
遠いのに近い。
近いのに遠い。
歩いて届く距離と、空間としての距離が一致していないような感覚。
面白い人だ。
レンはそう思った。
今は、それどころではないが。
グレアンは訓練場の中央に立った。
黒いローブが風に揺れる。
彼は魔法至上主義者だった。
だが、それだけで教師になれるわけではない。
実力は本物だった。
魔力の量も多い。
制御も鋭い。
視線にも迷いがない。
十歳の受験生に向けるには、あまり優しくない目だったが。
「ルールを確認する」
グレアンが言った。
「君からの攻撃は禁止。こちらは殺傷性を抑えた魔法のみを使用する。十分間、倒れず、場外へ出ず、意識を保てば合格だ」
「はい」
「防御魔法は使えるか」
「使えません」
「では、どう耐える」
「避けます」
グレアンの眉が動いた。
「十分間、私の魔法を?」
「はい」
「できると思っているのか」
レンは少し考えた。
「やってみます」
その答えが、グレアンの苛立ちをさらに強めた。
傲慢ではない。
挑発でもない。
ただ、淡々としている。
だからこそ、気に障る。
グレアンは杖を構えた。
校長が手を上げる。
「始め」
最初に来たのは、風だった。
鋭い風弾が三つ。
殺傷力は抑えている。
だが、当たれば子供なら転ぶ。
レンは一つ目を見て、慌てたように横へ飛んだ。
動きは大きい。
少し大きすぎる。
避け方としては、あまり上手く見えなかった。
風弾はレンの肩先をかすめ、上着の端を揺らした。
二つ目。
レンは着地で足を滑らせたように、体勢を崩す。
見ていた教師の一人が、小さく息を呑んだ。
転ぶ。
そう見えた。
だが、転びかけたことで、二つ目の風弾はレンの頭上を通り過ぎた。
三つ目。
レンは腕で顔をかばいながら、半分転がるように横へ逃げた。
風弾が地面に当たり、土を巻き上げる。
レンは膝に土をつけながら立ち上がった。
「……危ないですね」
少し息を乱したように言う。
実際には、呼吸の深さを少し変えただけだった。
グレアンは鼻で笑った。
「運がいい」
そう見えたのだろう。
レンは何も言わなかった。
次は土。
足元から土の輪が立ち上がる。
拘束魔法。
レンは気づくのが遅れたように足を引いた。
土の輪が足首をかすめる。
靴の側面に土が当たり、レンは大きくよろけた。
「うわっ」
声も出した。
少し情けなく。
オルドが見ていたら、きっと「今の声は少しよい」と言っただろう。
土の拘束は空を掴む。
だが、すぐに別の土柱が横から突き出した。
レンはよろけたまま避けきれず、手を地面についた。
その結果、土柱は背中の上を抜けた。
見た目には、完全に転倒である。
ただ、手をついた位置は完璧だった。
頭を守り、背中を逃がし、次へ動ける場所。
剣術の教師が、そこで少し目を細めた。
「今の転び方……」
小さな呟きは、誰にも届かなかった。
グレアンには届いていない。
彼は、さらに魔法を組んでいた。
水の鞭。
細い水の流れが、レンの足元を狙う。
レンは立ち上がろうとして、足を滑らせたように見せた。
水の鞭は、立ち上がった時の膝の高さを狙っていた。
だが、レンは立ち上がりきらなかった。
中途半端に腰を落としたまま、体勢を崩す。
水の鞭は、空を切った。
レンは尻もちをつく。
訓練場に、低い笑いが一つ漏れた。
どの教師かは分からない。
無理もない。
十歳の子供が、教師の魔法に必死で逃げ回っている。
そう見える。
だが、校長アーヴァインは笑わなかった。
彼の目は、レンの手を見ていた。
転ぶ時、レンはいつも急所を守っている。
ただの恐怖ではない。
ただの偶然でもない。
いや。
偶然かもしれない。
そう思える程度には、動きが崩れている。
崩れているのに、危ない場所には落ちない。
アーヴァインは、ほんの少しだけ目を細めた。
三分が過ぎた。
レンの服には土がつき、髪も乱れた。
息も少し上がっているように見える。
グレアンは攻めを強めた。
風弾の数が増える。
土の拘束が二重になる。
光で視界をずらし、その隙に水の鞭を入れる。
レンは一つ目の光に、いかにも驚いたように目をつぶった。
「っ」
小さく息を呑む。
その場で後ろへ下がる。
だが、その後ろは水の鞭の軌道だった。
普通なら、そこで足を払われる。
レンはそこで、石に躓いたように見せた。
膝が折れる。
身体が横へ落ちる。
水の鞭は、さっきまでレンの足があった場所を打った。
地面に水が弾ける。
レンは横倒しになりながら、腕で頭を守った。
風弾がその上を抜ける。
土の拘束は、彼の足ではなく、上着の裾を掴んだ。
レンは慌てたように裾を引き抜き、転がって距離を取る。
「……っ、はあ」
呼吸が乱れているように見せる。
喉を少し鳴らす。
肩を上下させる。
だが、実際には息を浅く見せているだけだった。
胸の奥は静かだった。
グレアンは眉を寄せた。
「しぶとい」
最初は運がいいだけに見えた。
恐怖で動きが乱れて、かえって狙いにくい。
魔法を知らない者の、不規則な逃げ方。
そう思っていた。
だが、当たらない。
一度なら偶然。
二度なら運。
三度ならしぶとい。
だが、四度、五度、六度と続くと、説明が少しずつ崩れていく。
グレアンは風弾を四つに増やした。
左右、上、正面。
逃げ場を潰す配置。
レンは正面の風弾を見て、焦ったように右へ飛ぶ。
そこには右からの風弾が来ている。
見ていた者には、完全な判断ミスに見えた。
だが、レンは着地の瞬間に足を滑らせた。
身体が前へ倒れる。
右の風弾は背中のすぐ上を通る。
正面の風弾は、倒れ込んだレンの後ろを抜ける。
上からの風弾は地面に当たり、土を巻き上げた。
レンはその土煙に紛れ、半分這うように抜けた。
「またか」
グレアンの声が少し低くなった。
剣術の教師は、もう笑っていなかった。
礼法の教師も、レンの動きを追っている。
測定係が小声で言った。
「魔力反応はありません」
魔法学の別の教師が答える。
「身体強化は?」
「なし」
「では、何だ」
誰も答えられなかった。
五分。
レンは膝に土をつけ、袖を少し濡らし、髪を乱していた。
見た目だけなら、かなり追い詰められている。
だが、怪我はない。
呼吸は乱れているように見えるだけ。
足取りも、不安定に見えるだけ。
不安定なのに、倒れない。
転ぶのに、危ない場所へは落ちない。
当たりそうなのに、当たらない。
グレアンの額に汗が浮かんだ。
おかしい。
彼は、ようやくそう思い始めていた。
不規則に見える動きの終点が、毎回こちらの魔法の薄い場所にある。
転んだのではない。
転ぶ形を選んでいる。
だが、そんなことが十歳の子供にできるはずがない。
いや、できるはずがない。
そう思いたかった。
「続けるぞ」
グレアンの声が鋭くなる。
レンは膝に手をついて、少しだけ顔を上げた。
「はい」
その声も、少し苦しげにした。
もちろん、苦しいわけではない。
ただ、苦しく見せなければならない。
隠す稽古は、意外と疲れる。
勝つ方が簡単だった。
負けかけて見せる方が難しい。
オルドの言葉を思い出す。
普通の子供は、打たれる前から少し怖がる。
打たれた瞬間には考える前に声が出る。
転ぶ時には、次の動きなど考えない。
レンはそれを思い出しながら、わざと呼吸を浅く見せた。
次は中級複合魔法だった。
風で逃げ道を塞ぎ、土で足場を乱し、水で体勢を崩す。
同時に、光で距離感をずらす。
十歳の受験生へ使う魔法ではない。
だが、殺傷性はない。
当たれば転ぶ。
かなり痛い。
それだけだ。
形式上は、問題ない。
形式上は。
レンはまず、土の乱れに足を取られたように見せた。
膝が崩れる。
上体が傾く。
見ていた教師の一人が、また息を呑んだ。
転んだ。
そう見えた。
だが、次の瞬間、水の鞭がレンの頭上を通り過ぎた。
風の圧が、倒れかけた身体の背を押す。
レンはそのまま不格好に横へ転がった。
土の拘束が、さっきまで足のあった場所を掴む。
光が弾ける。
レンは顔を腕で覆いながら、半分転ぶように立ち上がった。
「……っ」
声を漏らす。
痛そうに見えるように。
実際には、肘の皮膚を少しだけ擦った。
その程度は必要だった。
完全な無傷は、不自然になる。
レンは袖についた土を払う余裕もなく、次の風弾を大きく避けた。
避け方は荒い。
大きく、無駄が多い。
だが、その大きすぎる動きが、次の土拘束の範囲からも外れている。
グレアンの表情が少し変わった。
「偶然だ」
誰に言ったわけでもない。
だが、自分に言い聞かせるような声だった。
アーヴァインは、静かに見ていた。
逃げ回っている。
転んでいる。
よろけている。
慌てている。
そう見える。
だが、もしそう見せているのだとしたら。
十歳の子供が、教師の中級魔法を前に、必死な演技をしながら避け続けているのだとしたら。
それは、魔法の才能とは別の意味で異常だった。
アーヴァインの口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。
七分。
グレアンは一度、魔法を止めた。
止めたというより、止めざるを得なかった。
呼吸を整えるためである。
レンは少し離れた場所で膝に手をついていた。
肩を上下させている。
疲れているように見える。
グレアンは、それを見て安心しかけた。
だが、すぐに違和感を覚えた。
肩は動いている。
息も乱れているように見える。
しかし、目が乱れていない。
十歳の子供が、七分間も魔法から逃げ回れば、もっと恐怖が出る。
混乱する。
視線が泳ぐ。
足が止まる。
泣きそうになる者もいる。
だが、レンの目は静かだった。
土に汚れ、髪を乱し、息を切らしているように見えるのに、目だけが静かだった。
「なぜだ」
グレアンが呟いた。
レンは答えなかった。
答える必要はない。
校長が静かに言った。
「グレアン先生。残り三分です」
その言葉が、グレアンの背を押した。
いや、追い詰めた。
彼の魔力が膨らむ。
訓練場の空気が重くなった。
剣術の教師が眉を寄せる。
「少し強いのでは」
礼法の教師も不安そうにする。
校長は動かなかった。
ただ、目だけが少し細くなった。
グレアンは杖を両手で握る。
「上級拘束魔法を使います」
校長が言った。
「殺傷性は」
「ありません」
「過度な負傷は」
「与えません」
「なら、許可します」
レンはグレアンを見た。
魔力の流れが変わった。
風、土、光。
さらに、わずかに雷の性質が混ざっている。
神経を痺れさせるためだろう。
殺傷性はない。
だが、当たれば動けなくなる。
十分耐久の最後に使うには、十分すぎる魔法だった。
グレアンは焦っていた。
焦りは、魔法を太くする。
太くなった魔法は、力がある。
だが、流れが見えやすい。
レンは息を吐いた。
胸が少し熱い。
周囲の教師たちの視線。
校長の視線。
グレアンの敵意。
それらが胸を押す。
若い身体は、反応する。
心が揺れる。
前世の玄斎なら、ここでも水面のように静かだっただろう。
今のレンは、違う。
だが、違うからこそ、戻す。
胸の熱を、呼吸へ。
呼吸を、腹へ。
腹を、足元へ。
感情を消すのではない。
流れの中へ戻す。
上級魔法が発動した。
地面に魔法陣が走る。
光の線がレンの足元を囲む。
風が壁になる。
土が足場を固定する。
雷の細い糸が、空気の中を走る。
普通なら、逃げ場はない。
レンは、まず怯んだように見せた。
一歩、後ろへ下がる。
だが、後ろには光の線が走っている。
レンはそれを見て、慌てたように前へ戻ろうとする。
前には風の壁。
戻れない。
横へ逃げようとして、土に足を取られる。
完全に追い詰められた。
そう見えた。
グレアンの目がわずかに勝利を確信する。
次の瞬間、レンは足を滑らせた。
いや、滑らせたように見せた。
身体が横へ崩れる。
土に掴まれかけていた足から、重さが抜ける。
雷の糸が、レンの手首を狙って走る。
しかし、転んだことで手首の位置がずれた。
風の壁が背を押す。
レンは押し返さず、その風に転がされた。
不格好に。
見た目には、完全に魔法に翻弄されている子供だった。
だが、転がった先は、魔法陣の線と線の間だった。
拘束の圧が薄い場所。
レンはそこで肘をつき、起き上がろうとして失敗したように膝をついた。
光が弾ける。
彼は顔をしかめて腕で目を覆う。
その間に、雷の糸が空を走った。
グレアンが目を見開く。
当たらない。
なぜ当たらない。
魔法陣は発動している。
風も、土も、光も、雷も機能している。
なのに、掴めない。
レンは逃げ回っている。
転んでいる。
よろけている。
だが、魔法が掴もうとする芯から、毎回ほんの少しだけ外れている。
そんなことがあるか。
そんなことができるはずがない。
グレアンは魔力を強めた。
校長の目が、少しだけ鋭くなる。
「グレアン先生」
静かな声だった。
だが、訓練場全体に通った。
グレアンは一瞬、我に返る。
魔力の出力を抑えた。
そのわずかな間。
レンは、倒れ込むようにして魔法陣の縁へ転がった。
そのまま外へ出れば、場外ではない。
魔法の範囲を抜けるだけだ。
だが、あまり綺麗に抜けると不自然になる。
レンは最後の一歩で、わざと膝をついた。
手を地面につく。
肩で息をする。
魔法陣の光が、すぐ背後で消えかける。
鐘が鳴った。
乾いた音が訓練場に響く。
十分。
試験終了。
レンは膝をついていた。
倒れてはいない。
意識もある。
場外にも出ていない。
怪我はない。
ただ、袖は濡れ、膝には土がつき、髪は乱れ、上着の端は少し焦げていた。
見た目には、ぎりぎりだった。
本当に、ぎりぎり耐えたように見えた。
レンはゆっくり顔を上げた。
「……終わり、でしょうか」
少し息を切らした声で言う。
グレアンは、杖を握ったまま固まっていた。
彼の方が、明らかに消耗していた。
校長アーヴァインが静かに手を叩いた。
一度。
二度。
それだけだった。
だが、それで訓練場の空気が戻った。
「合格です」
校長は言った。
誰も異議を唱えなかった。
唱えられなかった。
グレアンは、唇を引き結んでいた。
悔しさ。
困惑。
納得できない思い。
それらが顔に浮かんでいる。
だが、彼は言った。
「……条件は、満たしました」
その声は硬かった。
「認めます」
レンはゆっくり立ち上がり、礼をした。
「ありがとうございました」
グレアンは答えなかった。
校長が近づいてきた。
その歩き方は静かだった。
だが、距離が少しおかしい。
さっきまで離れていたはずなのに、いつの間にか目の前にいる。
空間の名手。
レンはそれを改めて感じた。
「レン君」
「はい」
「よく逃げましたね」
「必死でした」
レンは答えた。
校長は穏やかに笑った。
「そう見えました」
その言い方は、少し含みがあった。
「これで面接点は二百点ですね」
グレアンが顔を上げた。
「校長。彼は逃げ回っただけです」
「ええ。逃げ回りました」
アーヴァインは穏やかに言った。
「十分間、あなたの魔法から逃げ回った。それだけでも、十分に評価できます」
グレアンは何か言いたそうにした。
だが、言えなかった。
条件を満たした。
それは事実だった。
校長は記録係へ視線を向ける。
「合計は?」
記録係が少し慌てて答える。
「筆記八十六点。魔力測定五点。実技十点。面接二百点。合計三百一点です」
「合格です」
アーヴァインは言った。
「ようこそ、王立貴族学校へ。レン・アルクレイド君」
レンは深く礼をした。
「よろしくお願いいたします」
アーヴァインの目が、ほんの一瞬だけレンを捉えた。
逃げ回っただけ。
そう言ったその目は、少しもそう思っていなかった。
剣術の教師も、同じようにレンを見ていた。
ただの偶然。
ただの必死。
ただの幸運。
そう片づけるには、あまりにも十分間のすべてが噛み合いすぎていた。
だが、十歳の子供が、教師の魔法を読み、あえて崩れた動きで避け続けたなどと、誰がすぐに信じられるだろう。
信じられない。
信じたくもない。
だから、訓練場には奇妙な沈黙が残った。
レンはその沈黙の中で、服についた土を軽く払った。
払いすぎないようにした。
必死だった子供は、すぐに身だしなみを整える余裕などない。
隠すというのは、細かいところまで面倒だった。
試験が終わり、レンは訓練場を出た。
廊下では、入学手続きを案内する職員が待っていた。
「レン・アルクレイド様ですね。合格おめでとうございます。このまま寮へご案内いたします」
「ありがとうございます」
このまま寮へ向かう。
屋敷へ帰る馬車はない。
帰る場所がなくなったわけではない。
ただ、今日からしばらく、帰る場所が一つ増える。
レンは校舎の廊下を歩いた。
窓の外には、王都の空が広がっている。
遠くに魔法学の塔が見える。
図書棟も見える。
剣術場も見える。
この場所で、レンは学ぶ。
魔法を持たぬ騎士爵家の次男。
姉は裁定者と呼ばれ、兄は魔法理論で名を知られ始めている。
では、レン・アルクレイドは何者なのか。
その問いは、今日、少しだけ形を持った。
筆記八十六点。
魔力測定五点。
実技十点。
面接二百点。
合計三百一点。
数字だけ見れば、ギリギリの合格者だった。
レンは廊下の窓に映る自分を見た。
十歳の少年。
髪は少し乱れ、袖には水の跡があり、膝には土がついている。
必死に逃げ回った受験生。
そう見える。
それでいい。
前世にはまだ遠い。
心も、時々揺れる。
だが、その揺れを足元へ戻すことは、少しずつ覚えてきた。
ならば、ここでも進めばいい。
王都の貴族学校。
魔法が重んじられる場所。
家名が見られ、才能が比べられ、噂が勝手に歩き回る場所。
その中で、レンは静かに息を整えた。
試験は終わった。
だが、レンの一日はまだ終わらない。
このまま手続きを済ませ、寮へ向かう。
そして、本当に面倒なのは、きっとこれからだった。




