第七話 母と診断
セラが五歳になった。
屋敷では、朝から小さな祝いの準備が進められていた。
大きな宴ではない。
家族と、近しい者だけのささやかな祝いである。
とはいえ、セラ本人にとっては十分だった。
朝から落ち着かない。
廊下を歩きながら歌い、庭へ出て歌い、ミリアのそばへ戻ってまた歌う。
「セラ、今日はよく歌うな」
ガレスが笑う。
「きょう、セラのひ!」
「そうだな。セラの日だ」
「だから、うたう!」
「いつも歌っている気もするが」
「きょうは、もっと!」
セラは胸を張った。
理屈としてはよく分からない。
だが、本人が楽しそうなので、それでよかった。
ミリアはセラの髪に、エリナから届いた白いリボンを結んでいた。
エリナは王都の貴族学校にいる。
誕生日に合わせて手紙と贈り物を送ってきたのだ。
白いリボンは、派手ではない。
だが、柔らかな光沢があり、セラの明るい髪によく合っていた。
「はい、できたわ」
ミリアが言うと、セラは両手で髪に触れた。
「ねえさまの?」
「ええ。エリナからよ」
「にあう?」
「とても似合っているわ」
「レンにいさま!」
セラはくるりと振り返った。
「にあう?」
レンは少しだけ目を細めた。
「うん。よく似合ってる」
「ほんと?」
「本当」
「やった!」
セラはその場で跳ねた。
跳ねた勢いで、リボンが少し揺れる。
ミリアは笑いながら、またそっと整えた。
その手つきはいつも通り優しい。
ただ、ほんの少しだけ、動きが重かった。
レンはそれに気づいた。
けれど、何も言わなかった。
今日はセラの誕生日だ。
ミリアも朝から準備をしていた。
少し疲れているだけかもしれない。
そう思うことにした。
思うことにした、という時点で、本当は気づいているということだ。
だが、まだ言葉にはしないでいた。
リオルからは絵本が届いていた。
歌う鳥と、音に反応して花が開く話である。
セラは絵本を抱えて、嬉しそうに笑った。
「とりさん、うたう!」
「リオル兄さまが、セラに似ていると思ったみたいだよ」
レンが手紙を読み上げると、セラはさらに嬉しそうにした。
「セラ、とり?」
「歌うところは似てるね」
「ぴよぴよ!」
「それは鳥というより、ひよこかな」
「ひよこ!」
セラは今度はひよこの歌を作り始めた。
ガレスはそれを聞いて、上機嫌で笑っている。
ミリアも微笑んでいた。
そして、部屋の端にはセリウスがいた。
リオルの家庭教師であり、上級魔法師である。
彼は祝いの席に招かれていた。
表向きは、リオルからの手紙の返事を届けに来たついで、ということになっている。
だが、レンは知っていた。
セリウスの本当の目的は別にある。
五歳。
正式に魔法適性を検査できる年齢。
セリウスは、その日を待っていた。
かなり待っていた。
首を長くして、という言葉がある。
実際に首が伸びていないのが不思議なくらいだった。
セリウスの視線は、自然とセラへ向く。
セラが歌う。
セリウスが見る。
セラが鈴を鳴らす。
セリウスが見る。
セラがリボンを揺らして笑う。
セリウスが見る。
「セリウス先生」
レンが小さく声をかけた。
「はい、レン様」
「今日は誕生日です」
「もちろんです」
「検査の日ではありません」
「分かっています」
「本当に?」
「……分かっています」
少し間があった。
怪しい。
非常に怪しい。
レンはセリウスを見た。
セリウスは咳払いした。
「本日はお祝いの日です。検査は、後日落ち着いてから行うつもりです」
「それならよいのですが」
「ただ」
「ただ?」
「今日の歌も、観察対象としては非常に」
レンは黙ってセリウスを見た。
セリウスは言葉を止めた。
「……何でもありません」
魔法師という生き物は、興味を持つとすぐ前のめりになる。
知識欲は大事だ。
だが、相手が五歳児であることを忘れると、ただの危ない大人になる。
セリウスは賢い。
だから、危ない大人になる一歩手前で踏みとどまっていた。
たぶん。
その日の祝いは穏やかに過ぎた。
セラは歌い、笑い、贈り物を抱え、疲れた頃にはミリアの膝で少し眠った。
ミリアはその髪を撫でていた。
セラの白いリボンが、ミリアの指の下で静かに揺れる。
「母さま」
レンが小さく声をかける。
「何?」
「疲れていませんか」
ミリアは少し驚いたようにレンを見た。
そして、いつものように微笑んだ。
「少しだけね。でも、大丈夫よ」
「本当に?」
「本当に」
そう言って、ミリアはセラの髪を撫でた。
その笑顔は柔らかい。
だが、頬の色は少し薄かった。
レンは、それ以上言わなかった。
言えば、ミリアはきっと「大丈夫」と言う。
そして、本当に大丈夫そうに振る舞う。
そういう人だった。
正式な検査は、誕生日から数日後に行われた。
屋敷の一室が使われた。
机の上には、水晶、火の小皿、水を張った器、土の板、羽根、魔力測定石が並べられている。
それに加えて、小さな鈴があった。
レンがセラに贈った鈴である。
「レンのすず!」
セラはすぐに気づいた。
「はい。今日はこれも使います」
セリウスが言う。
「すず、うたう?」
「そうですね。最後に、鈴と一緒に歌ってみましょう」
セラは嬉しそうに頷いた。
検査と言われても、セラはあまり緊張していなかった。
むしろ、並んだ道具に興味を持っている。
ミリアはセラのそばに座っていた。
「嫌なことがあったら、すぐに言うのよ」
「うん!」
「疲れたら休みましょうね」
「つかれない!」
子供はだいたいそう言い張る。
そして、突然眠る。
この世界でもそこは変わらない。
ガレスは腕を組んで見守っていた。
オルドも部屋の後ろに立っている。
剣神が五歳児の検査に立ち会う必要は、本来ない。
だが、アルクレイド家では最近、何が起きるか分からない。
オルドはそう言って、当然のように立っていた。
セリウスは水晶をセラの前に置く。
「まず、この水晶に手を置いてください」
「こう?」
セラが小さな手を乗せる。
水晶が、淡く光った。
セリウスは頷く。
「魔力量は中程度。年齢を考えれば、十分です」
次に火。
小さな火を少し大きくするように促す。
セラは真剣な顔で火を見た。
火は、ほんの少し揺れた。
だが、大きくはならない。
水も、土も、風も同じだった。
反応はある。
しかし、強くはない。
セラは少し不安そうにした。
「セラ、できない?」
ガレスがすぐに言った。
「俺も細かい魔法は苦手だぞ」
セラは父を見る。
「ちちさまも?」
「ああ。剣の方が得意だ」
「じゃあ、いっしょ!」
「そうだな!」
ガレスは嬉しそうに笑った。
セリウスは静かに記録した。
「通常属性への反応は低め。魔力量は中程度。制御は年齢相応」
ここまでは、珍しくない。
少し魔力を持つ子供。
だが、属性魔法には向かない。
普通の検査なら、そう判断される。
だが、セラの本質はそこではなかった。
セリウスは鈴を手に取った。
ちりん。
澄んだ音が部屋に広がる。
セラの顔が明るくなった。
「すず!」
「はい。今度は、この音を真似して歌ってみてください」
「うん!」
セラは目を閉じた。
そして、鈴の音を真似る。
「ちりーん」
その瞬間、水晶が光った。
先ほどよりも、ずっと澄んだ光だった。
水面に小さな波紋が広がる。
火は消えずに細く伸びる。
羽根が、風もないのに揺れた。
そして鈴が、もう一度鳴った。
ちりん。
セラは目を開けた。
「すず、うたった!」
セリウスは息を呑んでいた。
分かっていた。
予想もしていた。
それでも、実際に見ると違う。
セラの魔力は、音に沿う。
音が、魔力の道になる。
魔法式を組んでいるわけではない。
属性に命じているわけでもない。
歌が先にあり、その歌の形に魔力が自然と流れていく。
「もう一度、お願いします」
セリウスの声は少し硬かった。
「いいよ!」
セラは今度は短い歌を作った。
「すずとー、なかよしー」
鈴が鳴る。
水晶が淡く光る。
その時だった。
レンは、ミリアの方を見た。
ミリアが、小さく息をついた。
苦しそうではない。
むしろ逆だった。
ほんの少し、楽になったように見えた。
同時に、水晶の光がわずかに揺れた。
セラの魔力だけではない。
別の乱れに触れた。
そんな揺れ方だった。
セリウスも気づいた。
彼は水晶を見て、それからミリアを見た。
「奥様」
「はい?」
ミリアは微笑んでいた。
「どうかなさいましたか」
セリウスはすぐには答えなかった。
水晶をもう一度見る。
鈴を見る。
そして、ミリアを見る。
「失礼ですが、最近、疲れやすさはありませんか」
部屋の空気が少し変わった。
ガレスが眉を寄せる。
「セリウス殿?」
ミリアは少し困ったように笑った。
「少しだけです。セラの祝いの準備もありましたし、あなたの怪我のこともありましたから」
「息が浅くなることは」
「……時々」
「眠っても疲れが抜けにくい日は」
ミリアは答えなかった。
それが答えだった。
ガレスの表情が変わる。
「ミリア?」
「大したことではありません」
ミリアはすぐに言った。
「本当に、少し疲れやすいだけです」
レンは黙っていた。
ミリアのその言い方は、優しい嘘に近かった。
人を安心させるための言葉。
自分の不調を小さく見せる言葉。
セリウスは表情を引き締めた。
「奥様。念のため、簡単に魔力の流れを見せていただけませんか」
「私を?」
「はい」
「今日はセラの検査でしょう?」
「もちろんです」
セリウスは丁寧に頭を下げた。
「ですが、今の水晶反応に少し気になる点がありました。セラ様の音が、奥様の魔力にも触れています」
ミリアは少しだけ目を伏せた。
セラはよく分かっていない顔で、母を見上げた。
「かあさま?」
ミリアはすぐに微笑んだ。
「大丈夫よ」
その声はいつも通りだった。
だが、ガレスの顔はもう笑っていなかった。
「ミリア。見てもらおう」
「でも」
「頼む」
その声は静かだった。
ガレスは普段、大らかで少し抜けている。
だが、家族のことになると、妙にまっすぐになる。
ミリアは少しだけ困ったように笑い、それから頷いた。
「分かりました」
セリウスは水晶を新しく取り替えた。
ミリアが手を乗せる。
水晶は、淡く光った。
一見、強い異常はない。
だが、光の揺れ方が不自然だった。
一定ではない。
細かく震え、ところどころで沈む。
呼吸に合わせるように揺れ、しかし、その呼吸とも少しずれている。
セリウスの顔から、ゆっくりと色が消えた。
レンはそれを見た。
医師や術者が、言葉を選び始める時の顔。
前世で、何度も見た顔だった。
老いた弟子の病床で。
友の床のそばで。
妻を見送る前の部屋で。
人は、治せないものを見つけた時、少しだけ目が深くなる。
セリウスも、今その顔をしていた。
ガレスが低く聞いた。
「何だ」
セリウスはすぐには答えなかった。
水晶の光を確認し、ミリアの脈に触れ、呼吸を見た。
それから、魔力測定石を使う。
結果は同じだった。
魔力がないわけではない。
むしろ、量だけ見れば極端に少ないわけではない。
だが、流れの律が乱れている。
体と心を支えるはずの魔力が、ほんの少しずつ噛み合わなくなっている。
「セリウス殿」
ガレスの声が重くなる。
「答えてくれ」
セリウスは静かに水晶から手を離した。
「内魔律不全、という病があります」
ミリアの指が、わずかに動いた。
ガレスは聞いたことがないという顔をした。
「内魔律……?」
「体内の魔力は、本来、呼吸、心拍、神経、精神の安定と調和しながら巡っています」
セリウスは言葉を選びながら続けた。
「この病では、その律が少しずつ乱れます。魔力が不足するのではありません。外から毒を受けたわけでも、呪いでもありません」
「では、何だ」
「自分の魔力の巡りが、自分の心身を支える流れから、少しずつずれていく病です」
部屋が静まり返った。
セラだけが、意味を理解できずにミリアの手を握っている。
「かあさま、いたい?」
ミリアはすぐに首を振った。
「痛くはないわ」
それは嘘ではなかった。
痛みの病ではない。
だからこそ、分かりにくい。
セリウスは続ける。
「初期は、疲れやすさ、息の浅さ、眠っても疲れが抜けにくい、指先の冷え、声の掠れなどが出ます。進行は緩やかです。今日明日どうなるという病ではありません」
ガレスは少しだけ息を吐いた。
だが、安心はできなかった。
セリウスの声が、まだ重かったからだ。
「治るのか」
ガレスが聞いた。
その問いは、部屋の全員が聞きたかったことだった。
セリウスは、静かに答えた。
「今の医学と魔法学では、根本治療はできません」
ガレスの顔が固まった。
セリウスは、そこで一度だけ言葉を切った。
「進行は緩やかです。今日明日どうにかなる病ではありません。ですが、止められなければ、いずれ命に関わります」
ミリアは目を伏せた。
レンは、胸の奥を静かに掴まれたような感覚を覚えた。
「症状を軽くすることはできます」
セリウスは言った。
「体力を支える薬。呼吸を楽にする処置。治癒魔法による一時的な安定。生活の調整。それらは有効です」
「だが、治せない……」
ガレスの声は低かった。
「……はい」
セリウスは頷いた。
「原因も、症状も、ある程度分かっています。ですが、乱れているのは奥様自身の魔力の律です。外から魔力を補っても、一時的に整うだけで、根本のずれは戻りません」
「なぜだ」
ガレスが言った。
「なぜ、そんな」
その先は言葉にならなかった。
ガレスの拳が握られる。
彼は戦場なら剣を抜ける。
魔物なら斬れる。
敵なら倒せる。
だが、これは斬れない。
病は剣の届く場所にいない。
ガレスはそれを知って、初めて本当に動揺していた。
ミリアは、そっとガレスの手に触れた。
「あなた」
「ミリア」
「大丈夫です」
「大丈夫ではない」
ガレスは即座に言った。
ミリアは少しだけ笑った。
「そうね。大丈夫ではないのかもしれません」
その声は穏やかだった。
穏やかすぎて、逆に胸が痛む。
「でも、私はここにいます。今も、こうして話せます。セラの歌も聞けます」
セラは母の手を握ったまま、じっと見上げていた。
「かあさま、びょうき?」
ミリアは一瞬だけ言葉に詰まった。
だが、誤魔化さなかった。
「少しね」
「なおる?」
その問いは、あまりにも真っ直ぐだった。
ミリアはすぐに答えられない。
ガレスも。
セリウスも。
レンも。
セラは五歳だ。
治らない、という言葉の重さをまだ知らない。
だが、だからこそ、その問いは残酷なほどまっすぐだった。
レンは、静かにセラのそばへ行った。
「セラ」
「レン」
「母さまが少し楽になるように、みんなで考えよう」
「なおす?」
レンは、そこで一瞬だけ止まった。
治す。
簡単な言葉だ。
だが今、軽く言ってよい言葉ではない。
前世で何度も見てきた。
治ると言って治らなかった者。
大丈夫だと言って去っていった者。
希望は大切だ。
だが、嘘の希望は時に人を傷つける。
レンは小さく息をした。
「今すぐ治す方法は、まだ分からないんだ」
セラの眉が下がる。
「でも」
レンは続けた。
「母さまが苦しくないようにすることはできる。少しずつ、よくする方法も探そう」
「セラも?」
「はい」
レンはセラの手元の鈴を見た。
「セラの歌は、母さまの呼吸を少し楽にしてるようだからね」
セリウスが顔を上げた。
ミリアも驚いたようにレンを見る。
レンは続けた。
「今日の検査で分かりました。セラの音は、母さまの魔力に届いています」
セリウスはしばらく黙り、それからゆっくり頷いた。
「……おそらく、その通りです」
ガレスがセリウスを見る。
「本当か」
「はい」
セリウスの声には、まだ確信と呼ぶには早い慎重さがあった。
だが、希望の芽はあった。
「セラ様の音は、奥様の乱れた魔力の律に一瞬触れました。治療とは言えません。効果もごくわずかです。ですが、反応はありました」
「なら」
ガレスが身を乗り出す。
「なら、それで治せるのか」
セリウスは首を横に振った。
「今はまだ、分かりません」
ガレスの顔に焦りが浮かぶ。
「だが、可能性はあるのだろう」
「あります」
セリウスははっきり言った。
「少なくとも、私は初めて見ました。外から魔力を押し込むのではなく、音で律を整える。もし理論化できれば、内魔律不全への新しい手がかりになるかもしれません」
ミリアは眠るように目を伏せた。
「セラの歌が」
「はい」
セラは自分の胸に手を当てた。
「セラ、うたう」
すぐに歌おうとする。
レンがそっと止めた。
「今日は少しだけにしよう」
「どうして?」
「セラも疲れちゃうよ」
「つかれない」
「さっき、あくびをしてた」
「してない」
「してた」
「ちょっとだけ」
「少し休んで、また歌えばいいんだよ」
セラは不満そうにした。
だが、ミリアが微笑んで言った。
「セラが元気でいてくれることも、母さまは嬉しいわ」
セラは少し考えた。
「じゃあ、ちょっとだけ」
「ええ」
セラは鈴を持った。
ちりん。
小さな音が鳴る。
そして、歌った。
「かあさま、いき、すーすー」
歌詞としては、あまりに幼い。
けれど、セラは真剣だった。
その声は小さく、少し震えていた。
歌に魔力が沿う。
細く、淡く。
ミリアの呼吸が、ほんの少し深くなる。
本当に少しだけ。
病を治すほどではない。
魔力の乱れを正すほどでもない。
けれど、確かに楽になった。
ミリアが目を閉じる。
「ありがとう、セラ」
セラは母の膝に顔を寄せた。
「かあさま、なおる?」
ミリアは、セラの髪を撫でた。
「みんなで、ゆっくり考えましょう」
その答えは、優しかった。
だが、約束ではなかった。
レンはそれを聞いていた。
前世で、病を見たことは何度もある。
老いも、死も、別れも知っている。
だが、知っていることと、慣れることは違う。
母が弱っていくかもしれない。
その事実は、レンの胸の奥を静かに掴んだ。
剣では斬れない。
技では倒せない。
理で流せないものもある。
それでも、何もできないわけではない。
呼吸を整えることはできる。
身体に余計な力が入らぬよう導くことはできる。
苦しさを少し逃がすことはできる。
セラの音が母に届くなら、その音が届きやすいよう、母の姿勢や呼吸を整えることもできるかもしれない。
リオルなら、いずれ理論を探すだろう。
エリナなら、必要なものが手に入るよう力を得ようとするだろう。
今はまだ、誰も知らない。
だが、この日が始まりになる。
レンには、そんな気がした。
その日の夜。
ミリアは早めに休むことになった。
ガレスは、ミリアの部屋の前でしばらく立っていた。
扉の向こうでは、セラが小さな声で歌っている。
ミリアに頼まれたのだ。
眠る前に、少しだけ。
「ちりん、ちりん、やさしいね」
セラの声が、扉越しに聞こえる。
ガレスは拳を握っていた。
オルドが隣に立つ。
「ガレス」
「先生」
「剣ではどうにもならんことはある」
ガレスは黙った。
「だが、剣を持つ者にできることもある」
「何でしょうか」
「守れ」
オルドは短く言った。
「病を斬れぬなら、病以外のものから守れ。余計な者を近づけるな。奥方が休める場所を守れ。子供らが進める場所を守れ」
ガレスはゆっくり息を吐いた。
「はい」
「お前が崩れるな」
「……難しいです」
「父親とはそういうものだろう」
オルドは少しだけ笑った。
「わしには子はおらんがな」
「説得力があるのかないのか分かりませんね」
「あると思って聞け」
ガレスは苦笑した。
だが、その目にはまだ重いものが残っていた。
レンは廊下の少し離れた場所に立っていた。
父の背を見る。
いつも大きく見える背が、その夜は少しだけ重そうだった。
レンは近づいた。
「父さま」
ガレスが振り返る。
「レン」
「母さまの呼吸を楽にする方法を、私にも考えさせてください」
ガレスは、少しだけ驚いた顔をした。
「お前が?」
「はい」
「無理はするなよ」
「しません」
「本当か」
「できる範囲でします」
「それは無理をする者の言い方だな」
レンは少し黙った。
確かにそうかもしれない。
ガレスは膝を曲げ、レンの目線に近づいた。
「レン。助けたいのは分かる。俺も同じだ」
「はい」
「だが、お前一人で背負うな」
その言葉に、レンは目を伏せた。
前世では、多くを背負った。
師として。
始祖として。
老いた達人として。
背負うことに慣れていた。
だが今は違う。
レンは八歳だ。
家族がいる。
父がいる。
母がいる。
姉がいる。
兄がいる。
妹がいる。
オルドもいる。
セリウスもいる。
一人で背負う必要はない。
そう分かっているのに、心はすぐ前世の癖へ戻ろうとする。
「はい」
レンは小さく頷いた。
「一人では背負いません」
ガレスは少し笑った。
「ならいい」
それから、レンの頭に手を置いた。
「頼りにしている」
その手は大きかった。
不器用で、温かかった。
レンは静かに頷いた。
「はい」
部屋の中から、セラの歌が続いている。
小さな音。
まだ幼い音。
だが、その音は確かに母の呼吸へ届いていた。
病の名がついた日。
家族の時間に、静かな影が落ちた。
けれど、影の中に小さな光もあった。
セラの歌。
それはまだ、治療とは呼べない。
奇跡とも呼べない。
ただ、母の息をほんの少し楽にするだけの、幼い歌だった。
だがレンは、その音を覚えた。
いつか、その音が道になる。
そう信じるには、まだ早い。
それでも、レンは思った。
道は、最初から太くあるものではない。
小さな一歩が、踏まれ続けて道になる。
ならば、この音も。
いつか、誰かを救う道になるかもしれない。




