第二話 新しい誕生と新しい家族
赤ん坊の泣き声が、屋敷の奥に響いた。
アルデリア王国。
魔法と騎士と火薬兵器が並び立つ、近世の入り口にあるような国だった。
この世界では、魔法が強い。
属性という固定された枠はない。
火しか使えぬ者、水しか使えぬ者、という生まれつきの分類はない。
だが、得意不得意はある。
すでに燃えている火を動かすのは易しい。
何もない場所に火を生むのは難しい。
土を盛り上げて壁にするのはできても、魔力だけで障壁を作るのは難しい。
木の蔓を操作して人を縛ることはできても、影を物質化して拘束するのは極めて難しい。
飛行は高等技術。
空間転移はさらにその上。
空間そのものを歪める魔法など、国家が管理する領域だった。
時間の操作や生命そのものを作り出すこと、死者蘇生などは出来ない。
魔法は何でもできる万能な力というわけではない。
それでも、この世界では魔法を扱える者が上に立つ。
騎士でさえ、魔法剣が使えてこそ一流。
剣だけの者は時代遅れ。
前衛の補助。
魔力に恵まれなかった者の逃げ道。
そんな時代だった。
その中に、玄斎は生まれた。
アルデリア王国、地方都市ルミリア。
その北区に、王国騎士ガレス・アルクレイドの屋敷はあった。
アルクレイド家は、領地を持たない騎士爵家だった。
父ガレスは、もともと下級騎士の出である。
数年前、国境沿いの魔物討伐と盗賊鎮圧で武勲を立て、王から騎士爵を授かった。
領地はない。
だが貴族として扱われ、王国軍に属し、治安維持や軍務に携わる。
古い貴族たちから見れば成り上がり。
平民から見れば立派な貴族。
本人から見れば、ただ家族を食わせるために働く父親。
ガレスはそういう男だった。
「生まれたか!」
廊下で待っていたガレスは、扉が開くなり身を乗り出した。
産婆が苦笑する。
「元気な男の子ですよ」
「おお!」
ガレスは両手を上げた。
「男か!よくやった、ミリア!」
「あなたは何もしてないでしょう」
部屋の中から、疲れた声が返ってきた。
ベッドの上で、ミリアは汗を拭われながら苦笑していた。
その腕の中に、小さな赤子がいる。
赤子は、泣いていなかった。
目を開けていた。
生まれたばかりの赤子にしては、妙に静かな目だった。
焦点が合っているはずもない。
だが、どこか周囲を見ているように見えた。
ミリアは赤子の頬を撫でた。
「まあ……静かな子ね」
ガレスは覗き込み、満面の笑みを浮かべた。
「大物だな!」
その横から、小さな女の子が背伸びして覗いた。
四歳の長女、エリナだった。
栗色の髪をきれいに結び、子供ながらに背筋が伸びている。
母に似て、目がよく動く。
家の中の空気も、人の顔色も、年のわりによく見ていた。
「お母さま、赤ちゃんは元気ですか?」
「ええ。元気よ」
「お父さま、近いです。赤ちゃんがびっくりします」
「おお、そうか」
ガレスはすぐに一歩下がった。
父親を叱る四歳。
この家の秩序は、すでに姉によって守られていた。
その後ろで、二歳の兄リオルが、扉の影からぽやっと見ていた。
リオルは丸い目をした、穏やかな子だった。
泣きも騒ぎもせず、手にした絵本を抱えたまま、弟を見つめている。
「……あかちゃん」
「そうよ。あなたの弟よ」
ミリアが言うと、リオルは少し考えたあと、にこっと笑った。
「かわいい」
その言葉に、ミリアは嬉しそうに笑った。
ガレスは胸を張った。
「そうだろう!俺の子だからな!」
「お父さまは静かにしてください」
エリナが即座に言った。
「はい」
ガレスは素直に黙った。
赤子は、そのやり取りを見ていた。
もちろん、生まれたばかりの身体で、目も耳も十全ではない。
光はぼやけ、音は水の中のように鈍い。
手足は重く、首は動かない。
呼吸は浅く、身体の中心も定まらない。
だが、意識ははっきりしていた。
榊原玄斎は、赤子になっていた。
いや、今の名はまだない。
前世の終わり。
白い空間。
気まぐれな男の子の神。
妻と同じ世界。
五年遅れて転生するという話。
それらはすべて、夢ではなかった。
玄斎は、赤子の小さな胸で息をした。
思うように吸えない。
思うように吐けない。
腹に力を入れようとしても、力が入らない。
指を開こうとしても、まともに動かない。
視線を向けようにも、首が動かない。
不自由だった。
ひどく不自由だった。
だが、不快ではなかった。
人は、ここから始まるのか。
そう思うと、少しおかしかった。
百十五年を生き、武を極めたと思った。
だが今、彼は首も座らぬ身で、ただ母の腕に抱かれている。
玄斎は、できるだけ深く息をしようとした。
肺は小さい。
横隔膜も弱い。
背骨も頼りない。
腹圧などというものは、まだほとんどない。
それでも、呼吸の理は変わらない。
入る。
満ちる。
沈む。
抜ける。
赤子の身体で、できることから始めるしかない。
ミリアが赤子を見つめて、微笑んだ。
「この子の名前、決めていたでしょう?」
ガレスが頷いた。
「レンだ」
その声は、明るく真っ直ぐだった。
「レン・アルクレイド。いい名だろう?」
ミリアは赤子の額に唇を寄せた。
「レン。ようこそ、私たちの家へ」
その温かさに、玄斎、いやレンは、ほんのわずかに目を細めた。
前世で、畏れられることには慣れていた。
敬われることにも、慣れていた。
だが、ただ無条件に迎えられることには、あまり慣れていなかった。
レンは小さく息を吐いた。
この家は、よい。
そう思った。
レンが一歳になる少し前、月のない晩だった。
父ガレスは急な呼び出しで屋敷を空けていた。
母ミリアは、エリナとリオルを寝かしつけたあと、別室で針仕事をしていた。
レンは子供部屋の揺り籠の中にいた。
普通なら眠っているはずだった。
だが、レンは目を開けていた。
気配があった。
窓の外。
屋敷の壁際。
抑えた足音。
布が擦れる音。
そして、わずかな金属臭。
窓の留め具が、外から細い金具で探られる。
器用だが、雑だった。
やがて、かすかな音を立てて窓が開いた。
冷たい夜気が部屋に入る。
痩せた男が一人、窓枠を越えて入ってきた。
革の上着に、短剣。
腰には小袋。
顔は布で覆っている。
男は部屋を見回し、揺り籠の中のレンに気づいた。
「……赤ん坊か」
男は少し安心したらしい。
警戒を緩め、部屋の棚へ向かった。
その瞬間、レンは揺り籠の縁に手をかけた。
音を立てず、身体を起こす。
足を縁にかけ、重心を落とす。
一歳の身体で無理をしない。
無音のまま降りる。
床に足が触れた。
冷たい。
レンは1歳にはそぐわない安定した歩行で、男の背後へ近付いた。
歩幅は小さい。
速度もない。
だが、音もない。
男は気づかない。
棚を漁ろうとした男の右足が、わずかに引かれた。
体重は左へ乗る。
腰が開く。
短剣の柄に意識がない。
レンは男の足元に触れた。
ただ、小さな手で足首の布に触れただけだった。
男の身体から、支えが消えた。
「うわっ」
男は派手に転んだ。
転んだ拍子に声を出し、慌てて立ち上がろうとする。
だが、すでに遅い。
レンは男の手首に触れていた。
握らない。
押さえない。
ただ、手首の骨と筋の逃げ道に指を置く。
男の右手から力が抜け、短剣が床に落ちた。
「なっ……」
男は左手を伸ばそうとする。
レンは半歩ずれた。
一歳児の半歩である。
大人から見れば、ほとんど動いていない。
だが、男の左手は空を切った。
次にレンは、男の膝裏に足を当てた。
蹴ったのではない。
置いた。
男の重心が落ちる先に、置いただけ。
男は勝手に崩れた。
床に膝をつき、体勢を立て直す前に、レンの小さな手が男の喉元、鎖骨の間に触れた。
呼吸が止まる。
男の目が見開かれた。
痛みはない。
だが、身体が動かない。
声も出ない。
息が吸えない。
ほんの一瞬だけ。
レンは男の首筋の一点を軽く押した。
男は、力なく横に倒れた。
気絶。
殺してはいない。
骨も折っていない。
だが、当分は立てない。
数秒後、物音に気づいたミリアが部屋へ駆け込んできた。
「レン!」
その後ろから使用人も来る。
部屋には、床に倒れた盗賊。
開いた窓。
落ちた短剣。
そして、その近くに座っているレン。
レンは、ぱちぱちと瞬きをした。
ミリアは一瞬固まった。
「……え?」
盗賊は後に意識を取り戻し、叫んだ。
「あの赤ん坊!なんだそいつは! そいつが俺を!」
ガレスは、レンを見た。
レンは小さくあくびをした。
ガレスは盗賊に視線を戻した。
「……寝ぼけて転んだんだな」
「違う!」
エリナが寝巻き姿で部屋に入ってきて、腕を組んだ。
「赤ちゃんに負けたと言うのは、さすがに見苦しいです」
「本当なんだ!」
リオルも眠そうにやってきた。
「レン、すごい?」
ミリアが笑った。
「レンは無事だっただけよ」
盗賊の訴えは、最後まで信じられなかった。
当然である。
一歳の赤ん坊が、窓から入った盗賊を無傷で制圧したなど、誰が信じるのか。
その夜、レンは母の腕の中で眠るふりをした。
父ガレスは何度も言った。
「無事でよかったなあ、レン!」
母ミリアは頬に口づけた。
「怖かったでしょう。もう大丈夫よ」
姉エリナは厳しい顔で言った。
「お父さま。レンを危ない目に遭わせないよう、家の警備を見直してください」
兄リオルは小声で言った。
「レン、けがなくてよかった」
レンは、静かに目を閉じた。
温かい家だった。
前世で世界最大の門派の始祖だった男は、今世では一歳の赤子として、家族に守られていた。
いや。
本当は、少しだけ守った。
だが、それはまだ誰にも知られなくていい。
少なくとも、今は。
レンが三歳になった冬、妹が生まれた。
名はセラ。
赤ん坊はよく泣いていた。
元気な声だった。
ミリアがレンを見る。
「レン。妹よ」
レンはベッドのそばへ歩いた。
まだ三歳の子供の歩き方で。
少しだけゆっくりと。
赤ん坊の顔を覗き込む。
小さい。
赤い。
手も足も、今にも壊れそうなほど細い。
だが、力強く泣いている。
ガレスが言った。
「名前は、セラだ」
ミリアが頷く。
「セラ・アルクレイド」
エリナが微笑んだ。
「かわいい」
リオルも言う。
「ちいさい」
レンは妹を見たまま、静かに息をした。
守るものが、また増えた。
それは重荷ではなかった。
ありがたいことだった。
セラが生まれてから、アルクレイド家はますます賑やかになった。
泣き声が増え、笑い声が増え、エリナが父を叱る回数も増えた。
「お父さま、セラを高く持ち上げすぎです」
「いや、喜んでいるぞ」
「赤ちゃんは怖くても笑うことがあります」
「そうなのか?」
「たぶん」
「たぶんなのか」
ミリアはそれを見て笑い、リオルは絵本を抱えたまま、セラの顔をじっと眺めていた。
「セラは、よく泣くね」
「元気な証拠よ」
ミリアがそう言うと、リオルは真面目に頷いた。
「じゃあ、元気」
レンはその横で、セラの小さな手を見ていた。
力強く握り、すぐに開き、また握る。
赤子の動きに意味はない。
だが、そこにも命の理がある。
呼吸。
鼓動。
泣き声。
眠る時の重み。
前世では、多くの弟子の身体を見た。
傷ついた者も、老いた者も、これから伸びる者も見た。
だが、赤子が日ごとに身体を得ていく様を見るのは、不思議と新鮮だった。
この家には、毎日何かが増えていく。
それが、レンにはありがたかった。
やがて、姉エリナが五歳になった。
この国の騎士の家の子供は、五歳になると、魔法適性を測る。
魔法社会で生きる以上、魔力量や制御力は早めに把握しておく必要があるからだ。
そしてそれぞれの才を伸ばすための学びを始める。
エリナは、父ガレスと、その師である剣神オルド・グランツから魔法剣を学び始めた。
オルドは世界一の剣豪と呼ばれる男だった。
ただし、この世界では剣だけでその名を得たわけではない。
魔法剣。
剣に魔力を通し、刃を強化し、障壁を断ち、炎や雷を斬撃に乗せる。
魔法優位の時代において、剣士が剣士として頂点に立つには、魔法剣が必要だった。
エリナは、その才を見せた。
最初から姿勢がよかった。
木剣を握っても、妙に背筋が崩れない。
父の説明を聞く時は、幼いながらに目をそらさず、分からないところは分からないと言った。
「お父さま、今の説明では分かりません」
「そうか?」
「はい。足から剣に力が行く、というところまでは分かります。でも魔力がどこから入るのか分かりません」
ガレスは腕を組んだ。
「こう、ぐっと」
「ぐっとでは分かりません」
「むう」
その様子を見て、オルドは低く笑った。
「ガレス、お前は説明が感覚的すぎる」
「先生まで」
オルドはエリナの前に立ち、木剣を取った。
「魔力は剣に押し込むものではない。刃筋に沿わせるものだ」
「沿わせる」
「そうだ。力で満たせば剣は重くなる。流せば、剣は通る」
エリナはじっと聞いていた。
そして、小さく頷いた。
「やってみます」
彼女は木剣を構えた。
まだ五歳の身体である。
腕も細く、握りも幼い。
それでも、魔力を通そうとした瞬間、木剣の先に淡い光が走った。
ほんの一瞬。
だが、たしかに通った。
ガレスが目を丸くした。
「おお!」
ミリアが手を叩く。
「すごいわ、エリナ」
エリナは少しだけ頬を赤くした。
だが、すぐに木剣を下ろしてオルドを見た。
「今のは、正しくできていましたか」
オルドは頷いた。
「初めてにしては、十分すぎる」
「では、次はもっと長く通せるようにします」
ガレスは感動したように呟いた。
「真面目だなあ」
ミリアは微笑んだ。
「あなたに似なくてよかったわね」
「ミリア?」
エリナは、以後も着実に伸びた。
間違いを嫌がらない。
指摘を受けると、次には直そうとする。
剣にも魔法にも、そのまっすぐさが出ていた。
オルドは一度だけ、ガレスに言った。
「この子は伸びる」
その日、ガレスは一日中上機嫌だった。
翌朝、木剣を玄関に置きっぱなしにして、エリナに叱られた。
「お父さま、道具を大事にしない人に剣を教わりたくありません」
「すまん」
父は、娘に弱かった。
それから二年後、リオルも五歳になった。
リオルは剣より、本が好きな子だった。
庭でエリナが木剣を振っている横で、リオルは木陰に座り、絵本や地図を眺めていることが多かった。
虫を見つけても、捕まえるより観察した。
雨が降れば、水たまりの広がり方を不思議そうに見ていた。
「リオルは、何を見ているの?」
ミリアが聞くと、リオルは地面を指差した。
「水が、低い方に行く」
「そうね」
「でも、石があると曲がる」
「そうね」
「魔法も、そうなのかな」
ミリアは少し驚いたあと、微笑んだ。
「それは先生に聞いてみましょう」
リオルには、上級魔法師セリウス・ヴァーンが家庭教師としてついた。
セリウスは細身の男で、落ち着いた声をしていた。
宮廷魔法師にはならず、研究と教育を選んだ変わり者でもある。
最初の授業で、セリウスは水晶球を机に置いた。
「まずは、魔力の流れを見ましょう。手を置いてください」
リオルは素直に手を置いた。
水晶球が光った。
強い光だった。
だが、それ以上に、光が乱れなかった。
セリウスの目がわずかに開く。
「……もう一度、少しだけ力を弱められますか」
「弱める?」
「はい。光を小さくするつもりで」
リオルは考え込んだ。
そして、手の力を抜いた。
水晶球の光が、すっと細くなった。
セリウスは黙った。
ガレスが身を乗り出す。
「どうです?」
「非常に良いです」
セリウスはゆっくりと言った。
「魔力量もありますが、それ以上に制御が丁寧です」
リオルは水晶球を見つめている。
「これ、面白い」
「何がですか?」
「強くすると、光が広がる。でも、細くすると中がよく見える」
セリウスは、さらに黙った。
五歳の子供が言うには、少し妙な感想だった。
普通は、強く光らせることを喜ぶ。
リオルは、弱めた時の内側を見ようとしていた。
「リオル様は、魔法がお好きですか」
セリウスが聞く。
リオルはにこっと笑った。
「うん。どうしてそうなるのか、知りたい」
その日から、リオルは魔法理論にのめり込んだ。
火を出すより、なぜ火が出るのかを知りたがった。
水を動かすより、水がどこまで自分の魔力に従うのかを見たがった。
土を盛る課題では、ただ高く盛るのではなく、少ない魔力で崩れにくい形を作ろうとした。
セリウスは、何度も驚かされた。
「リオル様、その考えはどこで?」
「本に書いてありました」
「どの本ですか」
「先生の鞄から見えていた本です」
「……あれは十歳以上向けの基礎理論書です」
「難しかったけど、図は分かりました」
セリウスは深く息を吐いた。
「なるほど」
リオルはほんわかと笑う。
「もっと読んでもいい?」
「……私が選びます」
「うん」
こうして、エリナは魔法剣の才を、リオルは魔法理論の才を、それぞれ見せ始めた。
二人とも神童と呼んで差し支えないほど優秀だった。
父ガレスは、子供たちの成長を見るたびに喜んだ。
「エリナは剣がすごい! リオルは魔法がすごい! レンは落ち着きがすごい!セラは泣き声がすごい!」
「最後だけ雑です」
エリナが即座に言った。
リオルは真面目に頷いた。
「でも、セラの声はなんか・・・すごい」
ミリアは笑い、セラは元気に泣いた。
レンは、その家族を少し離れたところから見ていた。
エリナの剣。
リオルの魔法。
セラの声にも何か特別な響きを感じる。
この家は、少しばかり恵まれすぎている。
そう思うことがあった。
神の言葉が、ふと頭をよぎる。
余ったぶんは適当にしとく。
あの気まぐれな神なら、本当に何かをしたかもしれない。
だが、それを確かめる術はない。
それに、たとえそうだったとしても。
姉が努力していること。
兄が学び続けていること。
妹が命いっぱい泣いていること。
その価値は変わらない。
レンは、庭で木剣を振るエリナと、その横で本を読むリオルを見た。
ありがたいことだ。
そう思った。
レンが五歳になった春、魔法適性検査が行われた。
エリナには魔法剣の才。
リオルは魔法そのものに高い適性。
だから、家族はレンの検査も楽しみにしていた。
検査を担当したのは、リオルの家庭教師でもある上級魔法師セリウス・ヴァーンだった。
セリウスは小さな水晶球を机に置く。
「では、レン様。こちらに手を」
レンは頷き、水晶球に手を置いた。
セリウスが柔らかく言う。
「無理に力を入れる必要はありません。息を整え、胸の奥から手のひらへ流すように」
レンは言われた通りにした。
魔力。
この世界の人々がそう呼ぶ流れは、たしかにある。
気とは違う。
血とも違う。
呼吸とも違う。
だが、完全な別物でもない。
身体の内側を通る、世界と己をつなぐ細い糸のようなもの。
レンはそれを感じ取ることはできた。
ただし、少ない。
井戸ではなく、露のようだった。
水晶球が淡く光った。
ほんの少しだけ。
部屋が静かになった。
セリウスは表情を変えないよう努めた。
だが、わずかに眉が動いた。
もう一度、確認する。
水晶球の光は、やはり弱い。
制御は悪くない。
むしろ、妙に安定している。
だが、出力がない。
セリウスはゆっくりと手を離した。
「……魔力の流れはあります」
ガレスが身を乗り出す。
「おお」
「生活用の魔道具を扱う程度なら、問題はないでしょう。灯火具、加熱具、簡易な開閉具、そういったものは訓練すれば扱えます」
ミリアはほっとしたように笑った。
「まあ、それなら十分ね」
だが、セリウスの声は続いた。
「ただし」
その一言で、ガレスもエリナもリオルも黙った。
「戦闘魔法、障壁魔法、魔法剣への実用適性は、極めて低いと言わざるを得ません」
部屋の空気が、少しだけ重くなった。
この世界で、それは重い判定だった。
魔法は社会の中心にある。
剣を学ぶ者であっても、魔法剣が使える者との評価は埋めようもないほど大きく離れる。
騎士家の子でありながら魔法適性が低いということは、将来の選択肢が狭まるということだった。
セリウスは申し訳なさそうに言った。
「努力で多少の改善は見込めます。しかし、上位の魔法使いや魔法剣士を目指すのは、現実的ではありません」
エリナはレンを見た。
「レン……」
リオルも心配そうだった。
ミリアは黙ってレンの肩に手を置いた。
ガレスは腕を組み、難しい顔をした。
そして、次の瞬間には笑った。
「そうか!」
全員が父を見た。
ガレスは明るく言った。
「なら剣だな!」
セリウスが目を瞬いた。
「……剣、ですか」
「うむ。魔法が苦手なら、剣を学べばいい。生活魔道具が使えるなら日常では困らん。飯も温められる。灯りもつけられる。十分だ!」
ミリアも微笑んだ。
「そうね。コンロが使えるなら、お茶も淹れられるわ」
セリウスは少し困った顔をした。
魔法適性の検査結果をここまで家庭的に処理されることは、そう多くない。
だが、アルクレイド家ではこれが普通だった。
エリナはまだ心配そうに聞いた。
「レン、大丈夫?」
レンは姉を見上げた。
「はい」
「本当に?」
「手足は動きます」
エリナは首をかしげた。
「……そういう話?」
「はい」
たぶん違う。
だが、レンにとってはそういう話だった。
その夜。
レンは自室の窓辺に立っていた。
五歳の身体はまだ小さい。
窓の向こうには、春の夜空が広がっている。
遠くに街の灯りが揺れ、庭の木々は静かに影を落としていた。
その時、胸の奥で、かすかな感覚があった。
音ではない。
匂いでもない。
気配と呼ぶにも遠すぎる。
けれど、確かに何かが揺れた。
レンは窓の外を見たまま、息を止めた。
どこかで。
この世界のどこかで。
きっと彼女が生まれた。
名も知らない。
顔も知らない。
場所も分からない。
だが、魂の奥で、細い糸が震えたような気がした。
神は言っていた。
妻は、人界の時間で五年ほど遅れて転生すると。
レンは、そっと胸に手を当てた。
会える。
やはり、そう思った。
今すぐ探すことはできない。
五歳の子供が世界を旅するなど、無茶にもほどがある。
今の自分には、家族がいる。
学ぶべきことがある。
守るべき日々がある。
探すのは、もっと後だ。
成人し、自分の足で歩けるようになってから。
この世界では十八歳で貴族学校を卒業する。
その頃には、きっと旅にも出られる。
それまでは、覚えておこう。
どこかにいる。
前世の妻だった魂が、この世界のどこかで、新しい人生を始めた。
記憶はない。
名も顔も違う。
自分を知らない。
それでも、彼女は生きている。
レンは静かに目を閉じた。
「また、どこかで」
小さな声は、夜に溶けた。
その日の夕方、レンは庭に立った。
父ガレスが木剣を二本持っている。
「レン」
「はい」
「今日から剣を教える」
「よろしくお願いします」
レンは丁寧に頭を下げた。
ガレスは少し照れた。
「まあ、そんな堅くならんでいい」
「はい」
「まずは握り方だ」
ガレスは木剣を差し出した。
レンはそれを受け取る。
軽い。
五歳の身体には、それなりに重みがある。
だが、扱えないほどではない。
レンは、握らなかった。
添える。
指を固めず、手の内を空ける。
肩を下げ、肘を緩め、足裏に重みを落とす。
ほんの一瞬だった。
ガレスの表情が、少し変わった。
「……レン」
「はい」
「誰かに教わったか?」
「いいえ」
嘘ではない。
この世界では、誰にも教わっていない。
ガレスはしばらくレンを見た。
だが、すぐに笑った。
「そうか!やっぱり筋がいいな!天才だ!」
「大げさなことです」
そういいながらレンは少しだけ木剣の握りを幼くした。
やりすぎたか。
数日後、剣神オルド・グランツが屋敷を訪れた。
彼は、ガレスの師であり、エリナの師でもある。
世界で最も名の知れた剣士。
ただしこの世界においては、剣だけでそう呼ばれることはない。
オルドは魔法剣の達人だった。
剣に魔力を通し、刃を強化し、障壁を断ち、炎や雷を斬撃に乗せる。
魔法優位の時代において、剣士が剣士として頂点に立つには、魔法剣が必要だった。
だからこそ彼は剣神と呼ばれている。
オルドが庭に入ると、空気が少し締まった。
白髪混じりの髪を後ろで束ね、質素な服を着ている。
腰には古い剣。
立ち姿に無駄がない。
オルドの視線が、ふとレンへ向いた。
レンは庭の端で木剣を持っていた。
「その子も始めたのか」
オルドが言った。
ガレスは嬉しそうに頷いた。
「はい!魔法は苦手なようですが、剣は筋がいいんです!」
「ほう」
オルドの目が、少し細くなる。
「振らせてみろ」
レンは木剣を持って前へ出た。
オルドの視線を感じる。
鋭い。
父とは違う。
エリナとも違う。
この男は、形ではなく隙間を見る。
少し、やりにくい。
レンは年相応に構えた。
足は少し広め。
手はほんの少し力ませる。
肩も少しだけ上げる。
五歳の子供らしく。
「打ってみろ」
レンは木剣を振った。
ゆっくり。
少し不器用に。
ただし、危なくない程度に整えて。
ぱしん、と軽い音がした。
ガレスは嬉しそうに頷いた。
「どうです、先生!」
オルドは答えない。
レンを見る。
その目が、木剣ではなく、足元に向いていた。
まずい。
オルドは静かに言った。
「もう一度」
「はい」
レンはもう一度振る。
今度は少し崩した。
子供らしく。
腕で振るように。
腰の連動をわずかに遅らせる。
ぱしん。
オルドはまだ見ている。
三度。
四度。
そのたびにレンは微調整した。
下手すぎても不自然。
上手すぎても不自然。
五歳の子供として、筋が良い範囲に収める。
だが、オルドの目は離れない。
やがて、彼は言った。
「止まれ」
レンは木剣を下ろした。
「はい」
オルドはゆっくり近づいてきた。
「お前」
ガレスが首をかしげる。
「どうしました、先生」
オルドはレンを見下ろした。
「崩れぬな」
レンは瞬きをした。
「……はい?」
「五歳の子が剣を振れば、重心が流れる。足が浮く。呼吸が乱れる。お前は崩れているふりをしているが、崩れていない」
庭が静かになった。
ガレスが笑った。
「それは筋がいいということでは?」
オルドはガレスを見ずに言った。
「違う」
ガレスの笑顔が止まる。
オルドはレンの木剣を指差した。
「握りも幼い。振りも幼い。だが、足裏だけが老いている」
ガレスが困った顔をした。
「足裏が、老いている?」
ミリアが小さく言った。
「先生、それは褒め言葉でしょうか」
「褒めている」
たぶん褒めている。
だが言い方が悪い。
レンは静かにオルドを見た。
ここまで見るか。
さすが、剣神。
オルドは、その日からレンを時折見るようになった。
そして、レンもまた、この世界の剣を学び始めた。




