第十一話 授業と揺れ
入学してからの一か月は、思っていたよりも地味だった。
貴族学校。
王国を支える者を育てる場所。
魔法学の塔。
剣術場。
広い図書棟。
整えられた庭。
そういうものを前にすると、初日から高度な魔法演習や剣術試合が始まりそうに見える。
だが、実際には違った。
最初に行われたのは、生活の説明だった。
起床時間。
食事の時間。
授業の受け方。
寮での決まり。
外出の許可。
図書棟の使い方。
教師への礼。
上級生との関わり方。
食堂で騒ぎすぎないこと。
廊下を走らないこと。
魔法を許可なく使わないこと。
どれも大切ではある。
テオは三日目の朝に言った。
「俺、もっとこう、初日から魔法が飛び交って、剣が鳴って、天才がばーんって出てくると思ってた」
ミレーユはパンをちぎりながら答えた。
「そんな学校、三日で死人が出るわよ」
「たしかに」
テオは納得した。
納得が早い。
早すぎて、考えているのか不安になる時がある。
レンは静かにスープを飲んだ。
アリアナも隣で食事をしている。
食事中に読むのはよくないと寮監に注意され、本を閉じたまま膝の上に置いていた。
閉じているが、指は表紙を撫でている。
読みたいのだろう。
「最初の一か月は、基礎確認が中心だって言ってた」
アリアナが小さく言った。
「座学も、魔法も、剣術も、まずは今の力を見るんじゃないかな」
「力を見るって、俺の力なんか見ても仕方ないぞ」
テオが胸を張った。
「大した力は無いからな」
「胸を張ることじゃないわね」
ミレーユが言う。
「でも、少なくても力を正確に把握するのは大切なこと」
アリアナが真面目に言った。
テオは少し感動したような顔になった。
「アリアナ、優しいな」
「いえ、事実として」
「優しさじゃなくて事実だった」
ミレーユが笑った。
レンは、そのやり取りを聞きながら、少しだけ口元を緩めた。
学校生活は、思っていたより騒がしい。
屋敷にはガレスの声も、セラの歌もあった。
決して静かだったわけではない。
だが、ここは違う。
人が多い。
同じ年の子供が多い。
それぞれが違う家から来て、違う常識を持ち、違う不安を抱えている。
その音が混じり合う。
レンは、それに少しずつ慣れていった。
座学は、思っていたよりも広かった。
歴史では、王国の成り立ちだけでなく、周辺国との関係や、過去の戦争も扱った。
地理では、川、山脈、街道、交易路、魔物の生息域を学んだ。
礼法では、身分ごとの挨拶や席次、手紙の書き方、舞踏会での基本姿勢まで教えられた。
魔法学の座学では、魔力の性質、属性干渉、魔法式の基礎、安全な発動手順を学ぶ。
レンは、座学では困らなかった。
筆記試験で八十六点を取っただけのことはある。
ただ、目立たないようにした。
分かる問題でも、すぐには答えない。
必要以上に発言しない。
教師に当てられれば答える。
それだけにした。
テオは、座学ではよく困っていた。
悪い意味で目立つ。
寝ているわけではない。
むしろ真剣に聞いている。
だが、理解が追いつく前に次へ進むと、顔に全部出る。
「テオ・バルカ。今の説明をまとめてみなさい」
歴史の教師に言われた時、テオは勢いよく立った。
「はい!」
声だけは良い。
「えっと……昔、王様が頑張って、貴族も頑張って、あと川が大事で、税も大事で……つまり、国は大変です!」
教室が少し静かになった。
歴史の教師は眉間を押さえた。
「大きく間違ってはいないが、まとめすぎです」
ミレーユが隣で肩を震わせていた。
アリアナは笑ってはいけないと思っているのか、口元を押さえて俯いている。
レンは、テオを見た。
要点を掴む前に、大きな塊で覚えている。
細部が抜ける。
ただ、物事を完全に外しているわけではない。
大事なところへは触れている。
雑すぎるだけで。
ミレーユは座学も実技も、全体的にそつがなかった。
筆記八十点、魔力測定六十点、実技七十点。
その点数通り、特別な天才ではないが、何をやらせても形にする。
教師の説明を聞き、必要なところをすぐ拾う。
分からないところはすぐ質問する。
人前で間違えることも、あまり怖がらない。
「間違えたら直せばいいじゃない」
ミレーユは平然と言う。
簡単なようで、それができない者は多い。
アリアナは、座学では群を抜いていた。
特に魔法学の理論と歴史は強い。
教師の質問に、静かに、正確に答える。
声は小さい。
だが、内容に無駄がない。
魔法式の穴や、古い記録の年代のずれにも気づく。
教師が感心することも多かった。
ただ、注目されると途端に固まる。
「アリアナ・フォルスター。今の式を黒板で展開してみなさい」
そう言われると、立ち上がるまでに少し時間がかかる。
黒板の前へ出る。
手に持ったチョークが小さく震える。
答えは分かっている。
分かっているのに、体が固まる。
視線を浴びると、呼吸が浅くなる。
書き始めれば、文字は正確だった。
だが、最初の一筆までが長い。
レンは、その呼吸を見ていた。
アリアナは頭が悪いのではない。
むしろ良すぎる。
分かっているからこそ、失敗した時の形まで先に見えてしまう。
怖がる前に動ける者もいれば、怖さを知りすぎて動けなくなる者もいる。
アリアナは後者だった。
だが、レンには別のものも見えていた。
彼女が驚いた時、反応は遅くない。
むしろ速い。
テオの大きな声に肩を跳ねさせた時も、まず距離を測った。
廊下で上級生が近くを走った時も、半歩引きながら、持っていた本の角度を変えた。
本で身体を守ろうとしたのだ。
無意識に。
怖がり。
臆病。
だが、臆病とは、危険を早く知る感覚でもある。
問題は、その感覚を身体が扱えていないことだった。
実技も、最初の一か月は基礎ばかりだった。
剣術では、ひたすら立つ。
足を置く。
歩く。
止まる。
木剣を握る。
振る。
受ける。
それだけで何日も使った。
貴族学校の生徒には、すでに家で剣を習ってきた者も多い。
だが、教師は全員に同じ基礎をさせた。
「ここでは、家で習った自慢をする必要はない」
剣術教師のダリウスが言った。
背の高い、灰色の髪をした男だった。
声は低く、無駄がない。
「立てぬ者に、斬る資格はない。踏めぬ者に、進む資格はない。自分の足を知らぬ者が、他人の命を預かれると思うな」
その言葉に、何人かの生徒が背筋を伸ばした。
レンも静かに立った。
足裏。
膝。
腰。
背。
肩。
手。
木剣。
すべてを一本にする。
それは難しいことではない。
難しいのは、うまくやりすぎないことだった。
レンは、少し重心を浅くした。
少し肩に力を入れる。
少しだけ、手で振っているようにする。
自然な範囲で。
下手ではない。
だが、異常ではない。
そう見える位置を探す。
面倒だった。
勝つより難しい。
テオは剣術でよく崩れた。
足が先に逃げる。
木剣を振ると、身体が後ろに残る。
受ける時は目をつぶる。
「テオ・バルカ。目を閉じるな」
ダリウスに言われ、テオは大きく返事をした。
「はい!」
次の打ち込みで、また目を閉じた。
「閉じるなと言った」
「閉じないつもりだったんです!」
「つもりでは剣は止まらん」
「ですよね!」
テオは素直だった。
素直すぎて、怒られ続けても腐らない。
それは、それで得難い性質だった。
ミレーユは剣術でも普通に上手かった。
特別鋭いわけではない。
だが、教師の言葉をすぐ身体に反映する。
足を直せと言われれば直す。
肩を下げろと言われれば下げる。
できないことを怖がらず、すぐ試す。
伸びる者の動きだった。
アリアナは、剣を持つとひどく固くなった。
木剣を握る指が白くなる。
相手が近づくと、呼吸が止まる。
怖がって下がる。
そして、近づかれすぎると、突然強く振る。
「危ない!」
相手役の生徒が慌てて下がる。
アリアナは顔を青くした。
「す、すみません!」
ダリウスが近づく。
「今のは、なぜ振った」
「分かりません……怖くて」
「怖いと、剣を振るのか」
アリアナは俯いた。
「すみません」
「謝る前に、知れ。怖い時、自分の身体が何をするかを知れ。知らぬまま振れば、相手を傷つける」
「はい……」
アリアナの肩は小さく震えていた。
レンはそれを見ていた。
今の一振り。
荒かった。
危なかった。
だが、遅くはなかった。
むしろ、出だしは速かった。
怖さで身体が縮む。
その縮んだ力が、近づかれた瞬間に一気に解ける。
本人は制御できていない。
だから危ない。
だが、制御できれば。
レンはそこで考えるのを止めた。
今言うことではない。
本人が怯えている時に才能を指摘しても、重荷になるだけだ。
魔法実技も、最初は基礎ばかりだった。
魔力を感じる。
掌へ集める。
指先へ流す。
水晶に反応を出す。
小さな光を灯す。
弱い風を起こす。
火種を安定させる。
どれも低位の訓練だった。
レンは、ここで正真正銘、苦労した。
隠す必要がないほど、苦手だった。
掌へ魔力を集める。
集まりはする。
だが少ない。
流れも細い。
火種はすぐ消える。
風は弱い。
水は形が崩れる。
土は動きが鈍い。
教師が言った。
「レン・アルクレイド。もう一度、風を起こしなさい」
「はい」
レンは掌に魔力を集める。
小さな風が生まれた。
机の上の紙はらりと落ちた。
それだけだった。
近くの生徒が小さく笑った。
テオはそれを聞いて、むっとした顔をした。
だが、レンは気にしなかった。
事実、弱い。
弱いものを弱いと言われても、怒る理由はない。
ミレーユは普通にできた。
小さな火を灯し、水球を作り、風を的へ当てる。
失敗もあるが、すぐ修正する。
「魔力を出す時、肩に力が入るのよね」
そう言いながら、次には少し直している。
テオは魔法でも苦労した。
魔力はレンよりある。
だが、出し方が雑だった。
風を起こそうとして、自分の前髪だけが跳ねる。
火を灯そうとして、指先に熱だけが残る。
土を動かそうとして、靴の下の砂だけが震える。
「俺の魔法、全部ちょっと惜しい!」
テオは叫んだ。
「惜しいなら、まだ良いです」
レンが言う。
「そうか?」
「はい。何も起きないより、起きたものを直す方がやりやすいです」
テオは少し嬉しそうにした。
「じゃあ、俺、惜しい男ってことでいい?」
ミレーユが言った。
「言い方が嫌ね」
「今のなしで」
「遅いわ」
アリアナは、魔法実技ではさらに不安定だった。
魔力量は多くない。
だが、理論は分かっている。
式も正確。
なのに発動で失敗する。
指先まで魔力が来たところで、視線を浴びると止まる。
止まった魔力が乱れる。
乱れた魔力に驚き、さらに崩れる。
小さな光を灯すだけの練習で、光が強く弾けてしまったこともあった。
アリアナはすぐに頭を下げた。
「すみません!」
教師は安全を確認して言った。
「落ち着きなさい。失敗そのものは問題ではありません。ただ、発動前に呼吸や魔力の流れが止まっています」
「はい……」
レンは、その言葉を聞いていた。
発動前に呼吸が止まる。
正しい。
だが、それだけではない。
アリアナは魔力を出す直前、身体の外側を固めている。
肩。
首。
指。
膝。
怖さから身を守るために固める。
その固さが、魔力の流れを詰まらせる。
そして、詰まった魔力が一気に弾ける。
剣の時と同じだった。
怖がり方が、魔法にも剣にも出ている。
それを責めても意味はない。
怖がるなと言われて怖がらなくなるなら、人は苦労しない。
人間はそう簡単にできていない。
一か月の間に、四人は自然と一緒にいることが増えた。
朝食。
授業の移動。
図書棟。
食堂。
寮の談話室。
最初は同室だからテオと一緒にいただけだった。
そこへミレーユが入ってきた。
アリアナも、ミレーユに引っ張られるように近くへ来た。
いつの間にか、四人でいることが普通になっていた。
テオはよく喋る。
ミレーユはよく突っ込む。
アリアナは静かに聞いて、時々とても正しいことを言う。
レンはそれを聞いている。
聞いているだけのつもりだったが、いつの間にか話を振られるようになった。
「レンはどう思う?」
ミレーユは遠慮なく聞く。
「どう、とは」
「今のテオの言い訳」
「言い訳としては弱いと思います」
「ほら!」
「裏切り!」
テオが叫ぶ。
アリアナが小さく笑う。
そういう時間が増えた。
ある日の夕方、寮の談話室で、テオが急に言った。
「なあ、レン」
「はい」
「いい加減、敬語やめない?」
レンは顔を上げた。
「敬語、ですか」
「そう。俺たち、もう一か月くらい一緒にいるだろ。飯も食ってるし、授業も一緒だし、俺の失敗もだいたい見られてる」
「たしかに」
「だから、そろそろ普通に話してくれ。なんか俺だけずっと店の客みたいな気持ちになる」
ミレーユが頷いた。
「分かるわ。レン、丁寧すぎるのよ」
アリアナも小さく言った。
「私も……もう少し普通に話してくれると、嬉しい」
レンは三人を見る。
敬語を使うのは、癖だった。
前世でも、相手に合わせて話した。
目上には丁寧に。
弟子には穏やかに。
敵には静かに。
家族には、家族の言葉で。
今世では、子供としての距離を測りかねていたところもある。
十歳の身体。
古い記憶。
新しい友人。
どの言葉で話すべきか、少し迷っていた。
「分かりま……分かった」
テオの顔が明るくなる。
「おお!」
ミレーユも笑う。
「できるじゃない」
アリアナも、少し嬉しそうに頷いた。
レンは続けた。
「では、これからは気をつける」
「うん。まあ、まだちょっと硬いけど」
テオが言う。
「最初はそれでいいわよ」
ミレーユが言う。
アリアナが小さく言った。
「少しずつで」
レンは頷いた。
「うん」
たった一言だった。
だが、三人はなぜか満足そうだった。
テオはその日から、やたらとレンに話しかけた。
「レン、パン取って」
「うん」
「おお、友達っぽい!」
「それだけで?」
「それだけで!」
ミレーユは呆れていた。
アリアナは笑っていた。
レンは、自分でも少し不思議だった。
言葉を変えただけで、距離が変わる。
それは前世でも知っていたはずだ。
だが、知っていることと、感じることは違う。
この身体で、この年齢で、この友人たちと話すと、同じことでも少し違って感じた。
悪くなかった。
一か月が過ぎ、本格的な実技授業が始まった。
その日は、魔法対抗訓練だった。
実戦形式ではない。
危険な魔法は禁止。
使える魔法も制限されている。
訓練場を区切り、二人一組で向き合う。
一方が低位魔法で攻め、もう一方が回避、防御、位置取りで対応する。
一定時間後に交代。
攻撃側は的を取る。
防御側は場外へ出ず、倒れず、なるべく攻撃を受けない。
魔法戦の基礎である。
教師はグレアンではなかった。
若い魔法実技の教師、リディア・ノルンだった。
きびきびした女性教師で、生徒を見る目が細かい。
「今日からは、ただ発動するだけではなく、相手を見ます」
リディアは言った。
「魔法は、的に当てるためだけのものではありません。相手が動く。相手が怖がる。相手が考える。その中で、自分の魔法をどう使うかを学びます」
生徒たちが緊張する。
テオも緊張していた。
「俺、相手が動かなくても当たらないんだけど」
「それはこれから上手くなればいいわ」
ミレーユが言う。
「優しい」
「今だけね」
「今だけだった」
レンは訓練場を見る。
広い。
床は土と砂を混ぜ、転んでも大怪我をしにくいようにされている。
壁際には教師が数人立ち、安全確認をしている。
リディアが組み合わせを発表していく。
最初の数組が前へ出た。
生徒たちはぎこちなく魔法を撃ち、避け、転び、笑われ、怒られた。
ミレーユは上手かった。
攻撃側では風弾を小さくまとめ、相手の足元へ落とす。
防御側では、動きすぎず、必要な分だけ避ける。
リディアも頷いた。
「ミレーユ・カナン。良い判断です。威力より位置を見ていますね」
「ありがとうございます」
ミレーユは素直に礼をした。
テオはひどかった。
攻撃側では、風弾が相手ではなく横へ流れた。
防御側では、相手が構えただけで大きく避け、場外へ出そうになった。
リディアに止められる。
「テオ・バルカ。逃げること自体は悪くありません。ただし、逃げる先を見なさい」
「はい!」
「大きく動くほど、次に動けなくなります」
「はい!」
「返事は良いですね」
「そこだけは自信があります!」
「そこだけで終わらないように」
「はい!」
ミレーユが小声で言った。
「返事だけなら首席ね」
テオは聞こえていたらしく、小声で返す。
「首席の響きだけもう一回もらっていい?」
「だめ」
アリアナは、攻撃側では魔法が遅れた。
式は正しい。
狙いも悪くない。
だが、撃つ直前に呼吸が止まる。
相手が動く。
焦る。
魔力が乱れる。
小さな風弾が弾けるように消えた。
防御側では、さらに難しかった。
相手の風弾が近づいた瞬間、身体が固まる。
避けるのが遅れる。
肩に当たり、よろけた。
「すみません!」
アリアナはすぐ謝った。
リディアは首を振る。
「謝る必要はありません。今のは訓練です」
「はい……」
「ただ、あなたは考えすぎています。見て、判断して、動く。その前に、失敗した場合を考えて止まっているように見えます」
アリアナは顔を伏せた。
「はい」
レンは、その様子を見ていた。
リディアの指摘は正しい。
だが、少し遠い。
アリアナは、考えすぎているだけではない。
怖さを身体のどこに置けばいいか分かっていない。
恐れが胸に上がる。
肩が固まる。
指が止まる。
魔力が詰まる。
剣でも、魔法でも同じ。
怖がる心そのものは悪くない。
問題は、その置き場所だった。
レンの番が来た。
相手は、ユリウスの取り巻きの一人だった。
名はマルク・レイダン。
子爵家の子で、ユリウスのそばにいることが多い。
先日の食堂で、果実水をこぼそうとした少年ではない。
もう一人の方だった。
マルクはレンを見て、口元を歪めた。
「魔力測定五点の相手か。これは楽でいい」
テオが眉をひそめる。
ミレーユも視線を鋭くした。
アリアナは不安そうにレンを見る。
レンは特に反応しなかった。
事実として、魔力測定は五点だった。
それを言われても、怒る理由はない。
最初はレンが攻撃側だった。
リディアが合図する。
「始め」
レンは掌へ魔力を集めた。
小さな風弾を作る。
弱い。
遅い。
まっすぐ飛ぶが、威力はない。
マルクは軽く避けた。
「本当に弱いな」
周囲から小さな笑いが漏れる。
レンは二発目を作る。
これも弱い。
マルクは大げさに横へ避ける。
「それで当てるつもりか?」
「はい」
「無理だろう」
「難しいです」
レンは素直に答えた。
また少し笑いが起きる。
テオが拳を握った。
ミレーユが小さく言う。
「落ち着きなさい」
「落ち着いてる」
「落ち着いてない顔よ」
レンは三発目を放った。
やはり遅い。
マルクは避ける。
攻撃側としてのレンは、まるで目立たなかった。
魔法は弱い。
制御は丁寧だが、威力も速度もない。
本格的な実技が始まれば、欠点ははっきり見える。
リディアは記録板に何かを書いていた。
次に、防御側となった。
マルクは楽しそうだった。
「では、避けてみろ」
リディアが言う。
「威力は抑えなさい。狙いは胴体、腕、足元まで。顔は禁止です」
「はい」
マルクは良い返事をした。
返事だけは。
風弾が来る。
レンは大きく避けた。
少し大きすぎる。
訓練場の端までは行かないが、余裕のない動きに見える。
二発目。
レンは足を滑らせたようにして、ぎりぎりで避ける。
三発目。
腕にかすった。
いや、かすったように見えた。
服の袖が揺れただけだった。
マルクは笑う。
「逃げるのはうまいな」
レンは答えない。
逃げるのは、たしかに大事だ。
マルクの風弾は、そこまで悪くない。
狙いも雑ではない。
だが、所詮"そこまで悪くない"程度、読むことはレンにとって造作もない。
レンは避けた。
大きく。
不格好に。
時には、偶然のように。
場外には出ない。
倒れない。
当たったように見えて、まともには受けない。
リディアの目が少し細くなった。
入学試験の噂は、教師の間にも回っている。
土だらけで逃げ切った少年。
今日も同じだ。
下手に見える。
だが、なぜか崩れない。
マルクは苛立ち始めた。
「ちょこまかと」
風弾が少し強くなる。
リディアが即座に言った。
「マルク・レイダン。威力を抑えなさい」
「はい」
マルクは返事をしたが、顔には不満が残っていた。
時間が終わる。
判定はマルクの優勢だった。
レンの攻撃は一発も有効に当たらず、マルクの攻撃は何度か近くをかすめた。
記録上は、レンの負けに近い。
だが、レンに怪我はなかった。
息もほとんど乱れていない。
マルクは勝ったはずなのに、どこかすっきりしない顔をしていた。
「何だよ、それ」
彼は呟いた。
「負けたみたいな顔をして」
レンは首を傾げる。
「私は、負けたと思います」
「そういう話じゃない」
マルクは舌打ちした。
レンは気にしなかった。
自分を侮られる分には、問題ない。
むしろ、ちょうどよい。
魔法が弱い。
実技が低い。
逃げるだけ。
そう見えるなら、都合がいい。
その時、少し離れた場所で声がした。
「やはり、魔法適性のない者はこんなものか」
ユリウスだった。
彼は取り巻きの一人とともに、訓練場の端からこちらを見ていた。
今日の組ではないが、同じ授業内で待機していたのだ。
マルクはユリウスの言葉に気をよくしたように笑う。
「ええ。逃げるだけで精一杯でした」
ユリウスはレンを見る。
「それで合格したのだから、貴族学校もずいぶん寛大になったものだ」
レンは黙っていた。
ユリウスは続ける。
「君の周りも大変だろう。逃げるしか能のない者を気にかけなければならないのだから」
テオの肩が動いた。
ミレーユの眉がはっきり寄る。
アリアナは息を止めた。
ユリウスは、彼らを見た。
「特に、そこのバルカ。自分のことだけでも精一杯だろうに、よくそんな者のそばにいられるね」
テオの顔が赤くなる。
恥ではない。
怒りだった。
だが、言葉が出ない。
ユリウスは笑う。
「まあ、似た者同士ということか。逃げる者と、弱い者。ちょうどいい」
レンの胸に、熱が上がった。
自分を言われるのはいい。
魔力五点でも、逃げるだけでも、別に構わない。
事実の一部だからだ。
だが、テオをそう呼ぶのは違った。
弱い。
それも事実かもしれない。
だが、弱いだけではない。
テオは怖くても前に出た。
半歩でも、前へ出た。
それを見ずに、ただ弱いと笑う。
レンは息を吸った。
胸の熱を、呼吸へ戻す。
呼吸を、腹へ沈める。
腹を、足元へ落とす。
落とす。
落とす。
少しだけ、遅れた。
「ユリウス様」
レンは静かに言った。
「何かな」
「テオは弱いだけではありません」
テオが目を見開く。
ミレーユがレンを見る。
アリアナも顔を上げた。
ユリウスは薄く笑った。
「では、何だと言うんだい」
「怖くても、前に出られます」
一瞬、場が静かになった。
テオは固まっていた。
ユリウスは、少し遅れて笑った。
「それは褒めているのか? ずいぶん低い評価だね」
取り巻きも笑う。
マルクも笑った。
テオは俯きかける。
レンはそれを見た。
胸の熱が、また少し上がる。
今度は、足元へ落としきれなかった。
未熟だ。
そう思った。
それでも、悪い気分ではなかった。
リディアが声を出そうとした時、マルクが言った。
「なら、もう一度やるか?」
レンはマルクを見る。
「もう一度、ですか」
「今度は君が得意な逃げるだけでいい。僕が攻める。さっきより少し真面目にね」
リディアが即座に言った。
「勝手な再戦は認めません」
ユリウスが口を開く。
「先生。彼は友人の強さを語りました。なら、その友人の前で、少しは見せてもらってもよいのではありませんか」
「授業は見世物ではありません」
「もちろんです。ただの確認です。危険な魔法は使わせません。規定内で構いません」
リディアは不快そうに眉を寄せた。
だが、周囲の生徒たちはすでに注目している。
止めれば止めたで、別の噂になる。
レンはリディアを見る。
「先生」
「何ですか」
「受けます」
リディアはレンを見た。
「必要ありません」
「はい。必要はありません」
「なら」
「ですが、受けさせてください」
リディアはしばらくレンを見る。
その目は、軽くはなかった。
「理由は」
レンは少し考えた。
「友人を、弱いだけだと言われました」
テオが小さく息を呑む。
リディアは、ほんの少しだけ表情を変えた。
「……分かりました」
「先生」
ミレーユが声を出しかける。
リディアは手を上げた。
「ただし、条件をつけます。低位魔法のみ。威力は先ほどと同じ。時間は一分。場外へ出たら終了。倒れたら終了。危険と判断すれば、私が止めます」
ユリウスは満足そうに頷いた。
マルクも笑った。
「一分で十分です」
テオがレンの袖を掴んだ。
「レン、いいって。俺のことなんか」
「テオ」
レンは、敬語を使わなかった。
「君は、友達だ」
テオは黙った。
ミレーユも、何も言わなかった。
アリアナは、不安そうに両手を握っている。
レンは訓練場の中央へ戻った。
マルクと向き合う。
胸の熱はまだ少し残っている。
怒りではない。
怒りに近いもの。
友人を笑われた不快。
それを完全に沈めきれていない。
未熟だ。
リディアが手を上げる。
「始め」
マルクはすぐに風弾を放った。
先ほどより少し速い。
規定内ではある。
だが、明らかに当てる気が強い。
レンは動いた。
今度は、大きく避けなかった。
一歩。
風弾が横を抜ける。
二発目。
半歩。
三発目。
肩を落とすだけ。
訓練場が静かになった。
マルクの顔から笑みが消える。
レンは、しまったと思った。
少し見せすぎている。
だが、止まらなかった。
マルクが土の拘束を使う。
足元に輪が立ち上がる。
レンは、その輪が閉じる前に、足を抜いた。
逃げたのではない。
抜いた。
次の風弾が来る。
レンはマルクの視線を見る。
狙いは胴。
だが、魔力の流れは肩の高さ。
視線と魔力がずれている。
焦りだ。
レンはあえて前へ出た。
風弾の根元に入る。
威力が乗る前の場所。
そのまま、マルクの横を通る。
触れない。
攻撃は禁止されていないが、する必要はない。
ただ、横を抜けた。
マルクは振り返る。
遅い。
いや、普通なら遅くない。
だが、レンには遅く見えた。
胸の熱が、足を進める。
レンはそこで、ようやく止まった。
これ以上は、いけない。
一分の鐘が鳴る。
勝負は終わった。
マルクの魔法は、一度も当たらなかった。
レンは場外にも出ていない。
倒れてもいない。
息も乱れていない。
ただ立っている。
先ほどまで、逃げるだけに見えていた少年が。
今は、明らかに違って見えた。
訓練場は静まり返っていた。
リディアが口を開く。
「そこまで」
その声で、ようやく空気が動いた。
マルクは顔を赤くした。
「今のは……」
言葉が出ない。
ユリウスも、表情を消していた。
取り巻きの少年は、何か言おうとして、やめた。
テオは呆然としていた。
ミレーユは目を見開いてレンを見ている。
アリアナは、両手を握ったまま固まっていた。
レンは静かに息を吐いた。
やりすぎた。
完全にではない。
全力など、もちろん出していない。
だが、最初に見せるつもりだった姿よりは、明らかに見せすぎた。
負けてもよかった。
いや、負ける予定だった。
友人を馬鹿にされるまでは。
レンは、自分の胸に残る熱を感じた。
未熟だ。
前世なら、もっと静かに流せただろう。
父を傷つけられた時ほどではない。
だが、友を笑われたくらいで、少し心が前へ出た。
まだまだだ。
そう思った。
だが。
悪い気分ではなかった。
テオが、恐る恐る近づいてきた。
「レン」
「うん」
「お前、やっぱり変だろ」
ミレーユも近づく。
「今のは、さすがに普通じゃないわね」
アリアナも小さく頷いた。
「……少し、ではないと思う」
三人の意見が、また一致した。
レンは少し考えた。
「気をつける」
テオが叫んだ。
「それ、前も言ったけど直ってない!」
「すぐには難しい」
ミレーユがため息をついた。
「でも、まあ」
彼女はちらりとユリウスたちの方を見る。
「悪くはなかったわ」
テオは顔を赤くして、頭をかいた。
「俺のことで怒ってくれたのか?」
レンは少し考えた。
「怒った、というほどじゃない」
「じゃあ何だよ」
「少し......腹が立った」
「それは怒ったって言うんだよ!」
テオはそう言ってから、急に顔をそらした。
「……ありがとな」
いつもの大きな声ではない、小さな声だった。
レンは頷いた。
「うん」
その一言に、テオは少しだけ笑った。
訓練場の端で、リディアは記録板に何かを書いていた。
そこには、こう記された。
レン・アルクレイド。
魔法出力、極めて低。
魔法攻撃能力、低。
回避能力、要観察。
そして、少し間を置いて、彼女はもう一つ書き足した。
対人判断、異常。
リディアはその文字を見て、ため息をついた。
「今年の一年生は、面倒そうね」
彼女の小さな呟きは、訓練場のざわめきに紛れて消えた。
その日、レン・アルクレイドは、魔法実技で高い評価を得たわけではなかった。
魔法は弱い。
攻撃は不得手。
記録上は、欠点だらけだった。
けれど、一部の生徒と教師は見た。
逃げるだけに見えた少年が、一瞬だけ、逃げる必要すらない場所に立ったことを。
そしてレン自身は、誰よりもはっきり分かっていた。
自分はまだ未熟だ。
友を笑われただけで、心が揺れる。
前世のようには沈めきれない。
それでも。
その揺れを、嫌いにはなれなかった。




