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達人転生 ~理を知る達人は転生チートなんか必要ない~  作者: まつすけ


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第十二話 噂と周囲の目

翌朝、レンの噂は少し形を変えていた。


「魔法測定五点の子が、マルクを倒したらしい」


「いや、倒してはいない。避けただけだ」


「でも、一発も当たらなかったんだろう」


「入学試験でも、魔法学の教師から逃げ切ったらしいぞ」


「逃げることだけ異常にうまいのか?」


「逃げ足の貴族か」


噂というものは、相変わらず雑だった。


事実を運ぶふりをして、途中で勝手に形を変える。


人の口は、どうしてああも余計な仕事をしたがるのか。


働き者なのは結構だが、働く方向を間違えている。


レンは食堂でパンをちぎりながら、それらを聞いていた。


特に腹は立たない。


魔力測定が五点なのは事実だ。


逃げたのも事実だ。


マルクの魔法が当たらなかったのも事実だ。


ただ、倒した覚えはない。


そこだけは少し違う。


「レン、気にしてないのか?」


テオが向かいから小声で聞いた。


小声のつもりなのだろう。


普通の声より少し小さいだけだった。


「何を?」


「噂だよ。逃げ足の貴族とか言われてるぞ」


「逃げるのは大切だと思う」


「そういう問題じゃない!」


テオはパンを握ったまま身を乗り出した。


「いや、大切だけど! 大切だけど、言い方があるだろ!」


ミレーユがスープを飲みながら言う。


「テオが怒るのね」


「怒るだろ。友達が変な言われ方してるんだぞ」


「昨日、自分が弱いって言われた時より怒ってない?」


テオは少し詰まった。


「……自分のことはまあ、だいたい合ってるし」


「そこを堂々と言えるのはすごいと思うわ」


「褒めてる?」


「半分くらい」


「残り半分は?」


「呆れてる」


「正直だな!」


アリアナが小さく笑った。


「でも、私も少し嫌だな。レンが逃げ足だけみたいに言われるのは」


その声は大きくない。


けれど、はっきりしていた。


レンはアリアナを見た。


「ありがとう」


「うん」


アリアナは少しだけ頬を緩めた。


入学したばかりの頃に比べると、彼女は四人でいる時だけ少し話すようになった。


教室や教師の前では、まだ声が小さい。


注目されると固まる。


けれど、テオとミレーユとレンの前では、比較的リラックスしているように見えた。


まだ多少の遠慮はある。


だが、距離は少し近くなっている。


テオはレンをじっと見た。


「なあ、昨日のあれ、ほんとに何だったんだ?」


「昨日のあれ?」


「マルクの魔法を避けたやつ」


「避けただけ」


「それは見た。俺の目は昨日ちゃんと働いてた」


ミレーユが頷く。


「珍しくね」


「珍しくは余計だろ!」


レンは少し考えた。


「視線と呼吸を見た」


テオが固まる。


「視線と呼吸」


「うん」


「それを見たら避けられるのか?」


「少し」


「少しで一発も当たらないなら、世の中の人間はもう少し怪我が少ないと思う」


「正論ね」


ミレーユが言った。


レンは頷く。


「たしかに」


「納得するんだ」


テオが疲れた顔をする。


アリアナは、静かにレンを見ていた。


「視線と呼吸って、どういうこと?」


「魔法を使う前に、身体が少し動く」


レンは手元の杯を持ち上げた。


「狙うものを見る。撃つ前に肩が上がる。足に力が入る。呼吸が止まる。魔力が動く前に、身体が先に行き先を教えることがある」


テオは自分の肩を触った。


「俺も?」


「うん」


「まじか」


「テオは、魔法を撃つ前に肩がすごく上がる」


「すごく」


「うん。かなり」


「そこは少しぼかしてくれてもいいんだけど」


ミレーユが笑う。


「だからテオの風弾、よく上に逃げるのね」


「俺の魔法、俺の肩に裏切られてたのか」


「裏切りというより、主張が強い」


「主張が強い肩」


テオは自分の肩を睨んだ。


アリアナは自分の手を見ていた。


「私も、そう?」


レンは少し迷った。


言い方を間違えると、アリアナは必要以上に気にする。


彼女は自分の失敗を、他人より重く受け取りすぎるところがある。


「アリアナは、魔法を使う前に息が止まる」


アリアナの指が少し動いた。


「やっぱり……先生にも言われた」


「それだけじゃない」


レンは続けた。


「怖くなると、肩と首と指が固まる。魔力がそこを通りにくくなる。通らないから焦る。焦るから、さらに固まる」


アリアナは視線を落とした。


「うん。たぶん、そう」


「でも、反応は遅くない」


「え?」


アリアナが顔を上げる。


レンは言った。


「危ないと思った時、気づくのは早い。身体も動こうとしている。ただ、怖さで固まる場所が、少し邪魔をしている」


アリアナは何も言わなかった。


けれど、その目は逸れていなかった。


ミレーユがレンを見る。


「あなた、ずいぶん人のこと見てるのね」


「見えるから」


「言い方が怖いわよ」


「怖い?」


「うん。ちょっとだけ」


テオが真剣な顔で頷いた。


「俺も、今すごく自分の肩を見られてる気がして怖い」


「肩は見てない」


「今は、だろ」


レンは少し考えた。


「今は」


「ほら!」


三人が笑った。


アリアナも笑った。


その笑いは小さかったが、朝の食堂の騒がしさの中で、きちんと聞こえた。






一方、職員室では別の話が行われていた。


実技教師リディア・ノルンは、記録板を手に校長室へ入った。


校長室は広くない。


だが、不思議と狭くも感じない。


部屋の中央には机があり、その奥に校長アーヴァイン・レクシードが座っていた。


白い髪を後ろへ流し、深い青のローブを着た老人。


穏やかな目をしている。


だが、その周囲だけ、空間の奥行きが少し違う。


慣れていない者なら、距離感を誤るだろう。


リディアは一礼した。


「昨日の一年生実技について、報告です」


「お願いします」


アーヴァインは記録板を受け取った。


その視線が、ある箇所で止まる。


レン・アルクレイド。


魔法出力、極めて低。


魔法攻撃能力、低。


回避能力、要観察。


対人判断、異常。


アーヴァインはゆっくり目を細めた。


「異常、ですか」


「はい」


リディアは迷わず答えた。


「魔法出力は低いです。これは測定通りです。攻撃能力も現段階では低い。風弾一つ見ても、速度、威力ともに不足しています」


「ええ」


「ですが、防御側に回った時の判断が、明らかに一年生の範囲を超えています」


「避けた、と聞いています」


「避けたというより、当たる場所にいませんでした」


アーヴァインは静かに聞いている。


リディアは続けた。


「最初は大きく避けていました。下手に見えます。余裕がないようにも見えます。しかし、危険な位置には落ちません。場外にも出ない。転びかけても、次の動作へ繋がる場所に手をつく」


「入学試験の時と同じですね」


リディアの眉が少し動いた。


「校長は、入学試験の時点でお気づきでしたか」


アーヴァインはすぐには答えなかった。


机の上の記録板を見たまま、穏やかに言う。


「確信はありませんでした。ただ、点数では測れない生徒だとは思いました」


「今回で、確信に近づきましたか」


「少しだけ」


少しだけ。


その言い方は穏やかだったが、リディアには分かった。


この老人は、すでにかなり見えている。


ただ、断定を急がないだけだ。


「マルク・レイダンとの二度目の対抗訓練では、明らかに動きが変わりました」


リディアは言った。


「最初は隠していた?」


「そう見えました」


「そして二度目は?」


「隠し損ねた、という印象です」


アーヴァインの口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。


「なぜ、隠し損ねたのでしょう」


「友人を侮辱されたからだと思います」


「なるほど」


アーヴァインは頷いた。


「よいことです」


リディアは少し驚いた。


「よいこと、ですか」


「ええ。完全に隠せる子供より、ずっとよい」


「危険ではありませんか」


「もちろん、危険もあります。ですが、心が動くということは、彼がここで生きているということです」


アーヴァインは窓の外を見た。


訓練場が見える。


遠くで一年生たちが移動していた。


その中に、茶色い髪の騒がしい少年と、栗色の髪の少女、黒髪の静かな少女、そしてレンがいる。


四人は並んで歩いていた。


テオが何かを大きく言い、ミレーユが即座に何かを返す。


アリアナが少し笑う。


レンはそれを聞いている。


「彼は、入学初日から一人でいるには少し静かすぎました」


アーヴァインは言った。


「友人ができたのなら、それはよいことです」


「その友人のために、力を見せても?」


「見せすぎれば困ります」


アーヴァインは苦笑した。


「ですが、何も揺れないよりはいい」


リディアは記録板へ視線を落とした。


「今後、どう扱いますか」


「特別扱いはしません」


「観察ですか」


「ええ。特別視ではなく、観察です」


その時、校長室の扉が軽く叩かれた。


入ってきたのは、グレアン・ヴォルフだった。


黒いローブ。


鋭い目。


魔法学の教育責任者の一人。


彼はリディアの記録板を見て、すぐに表情を硬くした。


「レン・アルクレイドの件ですか」


アーヴァインは頷いた。


「ええ。昨日の実技報告です」


グレアンは不快そうに言った。


「魔法出力が低く、攻撃能力も低い。それがすべてでしょう」


リディアの眉がわずかに動く。


「それだけではありません」


「回避能力ですか?」


グレアンは冷たく言った。


「逃げることが上手いだけでは、貴族学校の評価にはなりません」


「逃げることも、戦場では重要です」


リディアが返す。


「戦場で必要なのは、勝つ力です」


「生き残る力も必要です」


「魔法を扱えぬ者が生き残っても、周囲が守らなければならないだけです」


空気が少し冷えた。


アーヴァインが静かに言った。


「グレアン先生」


「はい」


「彼を認めなさいとは言いません」


グレアンは口を閉じる。


「ですが、見ないと決めるのは早い」


「私は見ています。だからこそ、彼の魔法適性は低いと申し上げています」


「魔法適性は低いでしょう」


アーヴァインは穏やかに言った。


「そこは疑っていません」


グレアンの表情がわずかに緩む。


だが、次の言葉でまた硬くなった。


「ただ、人を見る力は低くない」


「人を見る力?」


「ええ」


アーヴァインは記録板を机に置いた。


「魔法を撃つ者も、人です。魔法式だけで戦うわけではありません。呼吸し、構え、狙い、迷い、焦る。彼はそこを見ているのかもしれません」


グレアンは鼻で笑った。


「魔法戦を、剣術か何かと同列に語るべきではありません」


「同列ではありません」


アーヴァインは言った。


「ですが、完全に別でもありません」


グレアンは黙った。


納得していない顔だった。


いや、納得したくない顔だった。


魔法こそが力。


魔法こそが王国を支える。


その考えの中に、魔法ではない何かで魔法に対応する少年は、入り込む場所がない。


だから、見えない。


見たくない。


アーヴァインはそれ以上、追わなかった。


「今後も通常通り授業を受けさせます。リディア先生、実技の記録は続けてください」


「承知しました」


「グレアン先生も、魔法学の座学では通常通りに」


「もちろんです」


グレアンはそう答えた。


ただ、その声には硬さが残っていた。


校長室を出る時、彼は小さく呟いた。


「魔法を持たぬ者を、特別に扱うべきではない」


その声は誰かに向けたものではなかった。


自分自身に言い聞かせているようでもあった。






ユリウス・ヴァレンティアもまた、納得していなかった。


昼休み。


彼は中庭の一角で、取り巻きの二人とともに立っていた。


マルク・レイダンは少し離れた場所にいる。


昨日から、口数が減っていた。


無理もない。


勝負を挑み、魔法を一発も当てられなかった。


しかも相手は、魔力測定五点の少年だ。


ユリウスにとっても、面白い話ではなかった。


「マルク」


呼ばれて、マルクが顔を上げる。


「昨日のことを、どう考えている」


「……油断しました」


「それだけか?」


マルクは唇を噛んだ。


「次なら当てられます」


ユリウスはしばらくマルクを見た。


「それは答えになっていない」


「ですが」


「あの男が何をしたのかを聞いている」


マルクは黙った。


答えられないのだろう。


ユリウスは視線を訓練場の方へ向けた。


「偶然で片づけるには、少し綺麗すぎる」


取り巻きの一人が言った。


「でも、魔法は弱いんですよね」


「弱い」


ユリウスは即答した。


「そこは間違いない。火も風も、水も土も、まともな威力はない。攻撃役としては下の下だ」


「なら、脅威ではないのでは」


「分からないから不快なんだ」


ユリウスの声が低くなる。


「弱いなら弱いでいい。強いなら強いでいい。だが、弱いはずなのに掴めないというのは、気に食わない」


取り巻きたちは黙った。


ユリウスは続けた。


「しばらく見ておけ」


「レン・アルクレイドを、ですか」


「そうだ。誰といるか、何をしているか、授業で何ができて何ができないか。特に、あの三人といる時の様子を見ろ」


「三人?」


「バルカ、カナン、フォルスター」


ユリウスは名を挙げた。


「本人より、周囲を見た方が分かることもある」


マルクが悔しそうに言う。


「ユリウス様は、あいつを警戒しているのですか」


「警戒ではない」


ユリウスは即座に答えた。


「確認だ」


それは、ほとんど同じ意味だった。


ただ、彼の誇りがその言葉を選ばせなかっただけである。






その日の午後も、魔法実技があった。


内容は低位魔法の再確認。


小さな光を灯し、一定時間保つ。


次に、光の大きさを変える。


最後に、合図で消す。


単純な訓練に見える。


だが、魔力の制御を見るにはよい。


リディアは生徒たちを見回した。


「威力は必要ありません。大きくするより、安定させることを考えなさい」


生徒たちは掌に光を灯す。


ミレーユの光は安定していた。


少し揺れるが、すぐに戻る。


「ミレーユ・カナン。良い制御です。大きくしすぎない判断も良い」


「ありがとうございます」


テオの光は落ち着きがなかった。


明るくなったり、暗くなったりする。


本人の顔もそれに合わせて明るくなったり暗くなったりしていた。


「テオ・バルカ。呼吸を止めない」


「はい!」


光が一瞬消えた。


「返事で魔力を飛ばさない」


「はい……あ、小さく返事します」


「そうしなさい」


レンの光は、小さかった。


本当に小さい。


指先に、豆粒ほどの光が灯る。


だが、消えない。


弱いまま、細く、静かに残っている。


リディアはそれを見た。


「レン・アルクレイド。出力は低いですが、安定はしています」


「はい」


「もう少し大きくできますか」


「やってみます」


レンは光を少し大きくしようとした。


光は大きくなった。


一瞬だけ。


すぐに揺れて、小さく戻る。


「難しいですね」


「出力を上げる時、流れが細くなっています。無理に押しているのでしょう」


「はい」


テオが横で小声で言う。


「魔法は弱いのに、光の残し方だけ妙に丁寧なの何なんだよ」


「弱いから丁寧にしないと消える」


レンも小声で返した。


「なるほど。俺は雑だから消えるのか」


「たぶん」


「そこは少し迷ってくれ」


ミレーユが笑いをこらえている。


アリアナも少し笑った。


だが、彼女の番になると、その笑みはすぐに消えた。


アリアナは掌に光を灯した。


最初は綺麗だった。


小さいが、澄んだ光。


リディアも頷く。


「良いです。そのまま保ちなさい」


「はい……」


アリアナは小さく答えた。


光が少し揺れる。


周囲の生徒の視線が集まる。


アリアナの肩が上がる。


呼吸が止まる。


指が固くなる。


光が強くなる。


強くなりすぎる。


リディアが声を出す。


「アリアナ、出力を落として」


「はい」


返事と同時に、光がさらに揺れた。


アリアナの目が見開かれる。


怖い。


失敗する。


また迷惑をかける。


その感情が胸へ上がる。


肩が固まる。


首が固まる。


魔力が詰まる。


詰まった魔力が、行き場を失う。


次の瞬間、光が弾けた。


ぱん、と小さな音がした。


攻撃性はない。


だが、近くにいた生徒たちが驚いて身を引く。


アリアナは青ざめた。


「ご、ごめんなさい!」


声が震えていた。


彼女はすぐに手を下げ、俯いた。


「ごめんなさい、私……」


「怪我はありませんね」


リディアがすぐに確認する。


「全員、その場で待機。騒がない」


生徒たちは静かになった。


だが、視線は残る。


アリアナの肩は震えていた。


ミレーユが近づこうとする。


テオも一歩出かける。


レンは、それより少しだけ早く動いた。


アリアナの正面ではなく、少し横に立つ。


正面に立つと、彼女はさらに固まる。


横なら、逃げ道を塞がない。


レンは静かに言った。


「誰にも怪我はないよ」


アリアナは小さく頷いた。


「うん……でも、また失敗した」


「失敗はしたけど」


アリアナの目が揺れる。


レンは続ける。


「でも、悪い失敗ではない」


「悪い失敗じゃない?」


「うん」


アリアナは意味が分からないという顔をした。


レンは彼女の手を見る。


指がまだ固い。


肩も上がっている。


呼吸は浅い。


「怖いなら、怖いままでいい」


アリアナが顔を上げた。


「え?」


「怖がるのは悪くない」


レンは言った。


「ただ、怖さに身体を持っていかれないようにすればいい」


「……どういうこと?」


「今は、怖さが胸と肩に上がっている。だから息が止まって、指が固まる。魔力がそこで詰まる」


アリアナは自分の手を見た。


「じゃあ、どうすればいいの?」


レンは少し考えた。


言葉は難しい。


理は、分かれば簡単だ。


だが、分からない者に伝えるのは難しい。


百年かけて知ったことを、十歳相手に言葉で伝えるのはもっと難しい。


「胸ではなく、足に落とす」


アリアナは完全に分からない顔をした。


テオも横で言った。


「俺も分からん」


ミレーユが頷く。


「私も分からないわね」


レンは少し困った。


「そうか」


「そこで終わるなよ」


テオが言う。


リディアは少し離れた場所で、そのやり取りを見ていた。


止めるべきか迷っている顔だった。


だが、止めなかった。


レンはアリアナに言った。


「息を吸わなくていい。まず、吐く」


「吐く?」


「うん。怖い時は、吸おうとすると胸が上がる。だから、先に吐く」


アリアナは小さく息を吐いた。


まだ浅い。


レンは自分の足元を指した。


「吐いた息を、足の裏まで落とすつもりで」


「足の裏……」


「うん。肩ではなく、足で受け止める」


「足で?」


アリアナはますます分からない顔をした。


テオが小声で言う。


「言葉が変だぞ、レン」


「難しい」


「それは分かる」


ミレーユがアリアナの横に立った。


「でも、もう一回だけやってみる?」


アリアナは不安そうにミレーユを見る。


「また弾けるかも」


「そしたら、また謝ればいいわ」


「軽い」


「重く考えたら、もっと固まるでしょ」


アリアナは少しだけ笑った。


「それは、そうかも」


リディアが近づいてきた。


「アリアナ・フォルスター。続けられますか」


アリアナは一度、目を伏せた。


そして、小さく頷いた。


「やってみます」


リディアは静かに頷いた。


「では、低出力で。光を灯すだけで構いません」


「はい」


アリアナは掌を出した。


息を吸おうとして、止まる。


レンの言葉を思い出したのだろう。


先に吐く。


細く、長く。


肩が少し下がる。


まだ固い。


だが、さっきよりは少し違う。


足の裏へ落とす。


完全にはできていない。


当然だ。


一度でできるものではない。


それでも、胸に詰まっていた怖さが、少しだけ下へ向かった。


掌に光が灯る。


小さい。


先ほどより弱い。


だが、弾けない。


揺れている。


それでも、残っている。


アリアナは息を止めそうになり、また吐いた。


光は少し揺れた。


消えない。


リディアが静かに言った。


「そのまま」


アリアナの額に汗が浮かぶ。


テオが息を止めて見ている。


ミレーユが小声で言った。


「テオ、あなたが息止めてどうするの」


テオは慌てて息をした。


アリアナの光は、十数秒だけ保たれた。


やがて、ゆっくり消える。


弾けなかった。


アリアナは自分の掌を見た。


信じられないような顔だった。


「できた……?」


「うん」


レンが言う。


「少し」


アリアナはその場に座り込みそうになり、ミレーユが支えた。


「よかったじゃない」


ミレーユが笑う。


テオも大きく頷く。


「今のはすごい! いや、光は小さかったけど、すごい!」


「言い方」


ミレーユが言う。


「褒めてる!」


アリアナは小さく笑った。


「ありがとう」


その声は、まだ少し震えていた。


だが、先ほどの震えとは違った。


リディアは記録板に何かを書いた。


アリアナ・フォルスター。


理論理解、高。


発動時緊張、強。


呼吸誘導により安定改善。


要観察。


彼女は少しだけレンを見る。


レンは特に何もしていないように立っていた。


ただ言葉をかけただけ。


だが、その言葉でアリアナの魔力の乱れが少し収まった。


偶然か。


そう思うことはできる。


一度なら。


リディアは記録板に、もう一つ小さく書き加えた。


レン・アルクレイド。


他者観察、要確認。


そして、心の中で思った。


今年の一年生は、やはり面倒そうだ。


授業が終わった後、アリアナはレンの隣を歩いた。


ミレーユとテオは前で何か言い合っている。


「レン」


「うん」


「さっきの、まだよく分からない」


「うん」


「胸じゃなくて、足っていうの」


「分からなくていいと思う」


アリアナは少し驚いた顔をした。


「いいの?」


「最初は。少し楽になったなら、それでいい」


アリアナは自分の足元を見た。


「少しだけ、怖さが下に行った気がした」


「なら、合ってる」


「そうなんだ」


彼女はしばらく黙って歩いた。


それから、小さく言った。


「怖がるの、だめだと思ってた」


レンはアリアナを見る。


「どうして?」


「怖いと、失敗するから。怖いと、迷惑をかけるから。怖いと、また変に魔力が弾けるから」


「うん」


「だから、怖がらないようにしなきゃって思ってた」


レンは少しだけ首を振った。


「怖がらないようにするのは、難しい」


「うん」


「怖いものは、怖い」


アリアナは小さく頷いた。


「うん」


「でも、怖いままでも動ける」


アリアナは顔を上げた。


「レンも?」


「うん」


「怖いこと、あるの?」


「ある」


「そうなんだ」


アリアナは少し意外そうだった。


レンが怖がる姿を想像できなかったのかもしれない。


だが、怖さはある。


若い身体は、恐れを覚える。


胸が冷えることもある。


指先が固まりそうになることもある。


前世なら静かに流せたものが、今は時々、表へ上がる。


だからこそ、戻す。


「怖さは、悪くない」


レンは言った。


「危ないものを、早く教えてくれる」


アリアナは、ゆっくり頷いた。


「でも、持っていかれないようにする」


「うん」


「足に落とす」


「うん」


「やっぱり、ちょっと変な言い方」


レンは少し考えた。


「ほかの言い方を考える」


アリアナは笑った。


「うん。お願い」


前を歩いていたテオが振り返る。


「何の話?」


ミレーユも振り返った。


「怖さを足に落とす話よ」


テオは真顔になった。


「また分からない話してる」


「分からないけど、少し効いた」


アリアナが言う。


テオは目を丸くした。


「効いたならすごいな。俺にも教えてくれ。俺、怖い時だいたい全部顔に出るから」


ミレーユが言った。


「顔だけじゃないわ。声にも足にも肩にも出るわ」


「全部じゃん!」


「全部ね」


テオはレンを見た。


「俺も足に落とせばいいのか?」


レンはテオをしばらく見た。


「テオは、まず逃げる先を見るところから」


「俺だけ初歩!」


「大事だよ」


「それは分かるけど!」


ミレーユが笑う。


アリアナも笑う。


レンも、少しだけ笑った。


噂は広がっている。


教師は観察している。


ユリウスは探っている。


グレアンは拒絶したがっている。


面倒は、少しずつ増えている。


それでも、レンの周りには三人がいた。


怖がりでも、明るくても、弱くても、よく笑っても。


それぞれに違う流れがある。


その流れを見ているのは、思ったより悪くなかった。


その日の夕方、寮へ戻る道で、アリアナは何度も小さく息を吐いていた。


胸から、腹へ。


腹から、足へ。


まだうまくはできない。


歩き方も少しぎこちない。


けれど、彼女は続けていた。


怖さを消すためではない。


怖いまま、少しでも自分の足で立つために。

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