第15話 『第一部完結:新しい世界へのバース』
中庭に、夕暮れが落ちてきた。
帝国軍が撤退して三日が経っていた。
守護結界の修復は学院の魔術師たちが昼夜続けて行い、外壁のひびも概ね塞がれた。演習場の壁の穴だけは、「記念として残す」という学院長の謎の判断で、そのままになっていた。
中庭には今、人がいなかった。
授業が終わり、夕食前の端境期。学院の生徒たちは寮に戻るか食堂に向かうかで、中庭は静かだった。
アリア=ヴェルセットが、そこに来た。
理由は特にない、と自分では思っていた。
散歩だ、と思っていた。
ただ。
レンがここにいることは、なんとなく分かっていた。
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レンは噴水の縁に腰を下ろして、小さな革張りの手帳を開いていた。
羽根ペンで、何かを書いている。
アリアが足音を立てずに近づいた。覗き込もうとして、気づいた。
「……リリックを書いてるの」
「次のバースの準備」
「次の戦いに向けて?」
「それもある。でも戦いのためだけじゃない」
レンはペンを止めずに言った。
「書かないと、忘れる。感じたことを、言葉にしておかないと、流れていく」
アリアは少し考えた。
「感じたこと、というのは」
「ここ最近のこと全部。艦隊が踊ったこと。エレナの声が割れた瞬間。ミアが震えながら立ってたこと」
一拍。
「お前が手を出したこと」
アリアは固まった。
「……それを書き留めておく必要があるの」
「言葉にしないと嘘になる。感動したことを忘れたら、嘘のリリックしか書けなくなる」
アリアは、噴水の縁に、少し距離を置いて腰を下ろした。
レンの手帳を見た。
細かい文字が並んでいた。日本語で書かれているのか、この世界の文字ではなかった。読めなかった。
「……なんて書いてあるの」
「まだ未完成だ」
「完成したら教えてくれる?」
「リリックは声に出してなんぼだ。完成したら聴かせる」
アリアは、少し黙った。
それから言った。
「……認めてあげるわ」
レンのペンが止まった。
アリアは前を向いたまま続けた。
「あなたの音が、伝統を汚すものだと思っていた。定型文を軽視し、古の魔術の積み重ねを否定する、傲慢な邪道だと」
「うん」
「でも違った」
アリアの声が、僅かに変わった。
「あなたは定型文を否定していない。ただ、自分の言葉でしか魔力に火がつかないと言った。それは傲慢じゃなかった。正直だっただけだった」
「うん」
「学院の生徒が、あなたから韻を覚えて、自分の言葉で魔法を出し始めている。それは……伝統を壊しているんじゃなくて、伝統の根っこにあったものを、取り戻してるのかもしれない」
レンは手帳を閉じた。
「伝統の根っこ」
「古の術師たちも、最初は自分の言葉で魔法を作ったはずよ。それが時間をかけて磨かれて、定型文になった。あなたはその逆をやってる。定型文の前の段階を、今この瞬間の言葉でやってる」
レンは少し考えた。
「そう見えるか」
「そう見える」
「……賢いな、お前」
アリアが、顔を僅かに赤くした。
「……ただの観察よ」
「観察できるのは賢いからだ」
「余計なことを言わないで」
沈黙。
夕暮れが、中庭の石畳をオレンジに染めていた。
アリアは、両手を膝の上に置いて、続けた。
「……あなたの音、少しだけ」
一拍、間があった。
「心に響いたわよ」
声が、僅かに小さかった。
レンは横を向いた。
アリアの耳が、夕暮れより赤かった。
前を向いたまま、視線を噴水に固定したまま、ほとんど表情が動いていなかった。
それでも。
言った。
「……なんで黙ってるの」
「返事、どうしようか考えてた」
「どういう返事が来るの」
「ありがとう、とか」
「それだけ?」
「あと」
レンは少し間を置いた。
「俺もお前の音、好きだよ」
アリアが固まった。
完全に、固まった。
噴水を見たまま動かなかった。
十秒くらい経って、アリアは言った。
「……そういうことは、急に言わないで」
「急じゃない。ずっと思ってた」
「余計なことを言わないで」
「本当のことだ」
「……」
またアリアは黙った。
でも今度は、立ち上がらなかった。
そのまま、夕暮れの中庭に座っていた。
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帝国の本国、王都の中枢。
巨大な円形のホールに、一人が立っていた。
年齢は不明。黒いローブ。顔は影になって見えない。
手の中に、小さな魔道具があった。薄い板状の、水晶を加工したもの。その表面に、音の波形が映っていた。
学院での戦闘の記録だ。
男は波形を眺め、指先で軽く触れた。
「面白い」
声は低く、静かだった。
「帝国の斉唱を『バックトラック』にした。歌姫の共鳴型侵食魔法を内側から崩した。砲撃を跳ね返した」
波形から指を離した。
「これは、規格外の術者ではない」
男は顔を上げた。
「この世界の人間ではない。どこかの『転移者』が、前の世界の知恵を持ち込んでいる」
ホールの影から、別の声が答えた。
「処理しますか、マエストロ」
男は少し考えた。
「いや」
「は?」
「そんなものを処理するのは、もったいない」
男は水晶板をローブの内側にしまった。
「私が、直接聴きに行く」
影が、動いた。
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時計塔の屋上。
レンは夜風の中に立ち、手帳を開いた。
昼間の続きを書いた。
アリアに言われたこと。中庭の夕暮れ。赤くなった耳。
それを書いた後、新しいページを開いた。
ペンを走らせた。
次の章のリリック。まだ見ぬ敵のことを思いながら。
この世界は広い、とレンは思った。
学院一つ守っただけで、外にはまだ何がいるか分からない。
でも。
それでいい。
言葉が尽きなければ、怖いものはない。
レンは屋上の縁に立ち、夜の学院を見下ろした。
不敵に笑った。
「世界は、まだ始まったばっかりだぜ」
風が、リリックの続きを吐き出す前に、ページを揺らした。
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第一章 完
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【あとがき】
第15話まで読んでくださり、本当にありがとうございます。
第一章、完結です。
アリアが「認めてあげるわ」と言うシーン。
このセリフを書くために、第1話からここまで引っ張ってきました。
「汚らわしい音」と言った彼女が、「心に響いた」と言う。
その距離を積み重ねることだけを考えて書いてきた15話でした。
「俺もお前の音、好きだよ」というレンの一言。
これは告白ではありません。
ただ正直なことを言っただけです。
でもアリアには、それが一番刺さる。
技巧ゼロの、本音だから。
ラストのマエストロ。
第二章の核となる敵です。
ガストンが「本物の指揮者がいる」と言い残したのは、このためでした。
マエストロは「処理」ではなく「聴きに行く」と言った。
それだけで、彼がガストンとは別次元の存在だと分かると思っています。
「世界は、まだ始まったばっかりだぜ」。
第二章もよろしくお願いします。
作者より
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