八十八話 『吉乃ノ守るもの』 一五六十年・吉乃
私の反論を遮るように。
その胸の内を見透かして。
ずっと燻っている不安をあぶり出すように。
首元に切っ先を突き立てるように。
能面の女は、冷たい声でもう一度私に尋ねる。
「まことに、織田が勝てると思っておられるのですか」
誰しもが、頭の隅に思うその疑問。
大国の今川を前にして織田は、尾張は・・・どこまで対抗出来るのか。
私にも、それはわからない。
きっと、誰だって。殿様でも。
「勝つ者につくことが、商人の常道でございましょう。津島の者たちに、生き残る道を示すことがお姫様の務めではございませんか」
それは、能面の女の言う通りだ・・・
私は、この津島をまとめる筆頭商人だから。
津島が利を得る選択を、取らなければいけない。
そこに、私情は挟めない。
でも・・・
私は、周囲をそっと見渡す。
みなが、私を見つめていた。
小六に将右衛門、生駒屋のみな・・・心配そうな顔をして、私が能面の女にどんな言葉を返すのか息を殺してうかがっている。
店の隅には、帰蝶さまと宗及殿もいる。宗及殿は真摯な顔つきで事の次第を見守っていて、隣の帰蝶さまは不安そうな視線を私に向けていた。
帰蝶さまの腕の中には、お類と奇妙もいる。帰蝶さまに抱かれてその胸に身を寄せている私の子は、二人も大人たちの殺気立った雰囲気に怯えているように見えて。
・・・守らなければ、と思う。
帰蝶さま。
生駒屋のみな。
私の愛し子たち。
誰一人、欠けることなく私の大切な人たちだ。
失えない。
誰も、失えない・・・っ!!
「っ、私は・・・っ」
意を決して、私は返答をしようとしたその刹那、
「・・・っ、うぅ、っ!!」
お類・・・っ。
長く続く張り詰めた緊張にとうとう耐えられなくなって。
お類が、帰蝶さまの腕の中で声を上げて泣いていた。
快活という言葉が似合う、普段はほとんど泣かない子なのに。
まるで、曇天を切り裂く稲光のように。
その小さな身体に合わないほど、大きく響く鳴き声で。
幼子らしく顔を赤く、歪めて、泣いていたんだ。
「お類・・・っ」
私は慌てて、お類の下へ駆け寄った。
お類のなく声が聞こえた途端、私はお類のことしか頭の中になくて。
何のためらいもなく能面の女に背を向けていたんだ。
突如泣き始めたお類に驚き慌てふためいていた帰蝶さまからお類を預かり、自らの胸の中で優しく抱いて、あやしつけてやる。
「よしよし・・・大丈夫、母が側にいますから・・・」
お類に、怖い思いをさせてしまった。
親なのに、この子の胸の内に気づいてあげられなくて・・・
どうか、安心して。
私が、あなたを守るから。
だから、泣き止んで・・・
お類の背をさすり、なんとか泣き止むように私は精一杯想いを込めてあやしつける。
「っ、かかさまぁ・・・」
その、私の胸の中で。
目を腫らし涙を流す私の愛し子は、甘えた声で母を呼び、そして私の胸に顔をうずめる。
お類の可愛らしい泣き声に。
一触即発に張り詰めていた店の中は、ふっとその緊迫感が緩んで。
・・・つい、みな、頭に血が上ってしまっていたのかもしれない。
誰も彼も余裕のないこの状況で、飄々とした能面の女の態度に翻弄されて。
幼子がいる前で、あんな殺気立った顔を見せてしまうなんて。
私が小六たちに目配せをすると、それを察したのかみなその抜いた太刀をきまりが悪そうに自らの鞘に仕舞い始める。
・・・そうだ。ここは、馬借の店だ。
人を斬る場所じゃない。
お類たちの前で、これ以上のものは何も見せられない。
お類を抱きかかえたまま、私は今一度能面の女に視線を向けた。
「おやおや、泣かせてしまうなんて・・・その子には、つい可哀想なことをしてしまいました」
女は、何も変わらない掴みどころのない態度のままで。
腹立たしいほど余裕を帯びた立ち姿で、そんな、本当に思っているのかもわからない言葉を口にした。
「・・・これ以上、あなたと交わす言葉はありません。去りなさい、あなたがここにいては娘が泣き止まない」
「かように怖い顔をされずとも・・・けれどまぁ、そうでございますね。確かに少し興が削がれてしまいました。此度は、ここまでなのかもしれません」
ふふっ、と女は余裕を帯びた笑みを零す。
「この御返事は、また後日いただくことといたしましょう。焦らずとも、直に返答を出さねばならぬ逃げられぬ選択でございます・・・好物は、後に取っておく方が美味でございますからね・・・」
「お姫様」舞いを得手とする能楽師らしく、女は柔らかな会釈をして。
「では。次は、良いお返事がお聞き出来ることを期待して」
私たちの視線を一身に集めながら、女は生駒屋を立ち去っていく。
その途中、何故か能面の女は足を止めて店の隅、帰蝶さまのおられる方へ能面で隠したその顔を向ける。
「・・・っ、何じゃ」
不意に視線を向けられた帰蝶さまは少し動揺なされながら、能面の女に警戒心を露わにされた。
「・・・いえ、何も。ただ貴女様のお顔を拝見出来て嬉しゅう思っただけでございます、帰蝶様」
「それでは、御免仕ります」女は慇懃に頭を下げて、颯爽と店の外へと出ていった。
それは、つむじ風が吹いた後の路地のように。
女がいなくなった途端、不安めいた静寂だけが店の中に吹き込んでいたんだ。
「・・・行った、みたい」
緊張でずっと張っていた肩の力が、そっと抜ける。
誰しも、ふぅとため息を吐きどっとその場に腰を下ろして。
息が、詰まりそうだった・・・
あの女を前にして目一杯強がってみたけれど、その怪しげな緊迫感にずっと押し潰されそうだった。
稲生原のときもそうだ。
あの女は、飄々とした態度をとりながらずっと底知れないものが見え隠れしていて。
気が滅入りそうなほど鋭い重圧を、面向かう相手に放っている。
それが、故意なのか無自覚なのかは知らないけれど。
私は確実に、あの女とは波が合わない。
・・・あの女は、心底苦手だ。
とりあえず、立ち去ってくれて一安心だけれども・・・
『焦らずとも、直に返答を出さねばならぬ逃げられぬ選択でございます』
女の去り際に告げた言葉が、気持ち悪く耳の中に張り付いている。
能面の女が残した、蝕むように私を侵すその言葉。
「逃げられない選択・・・」
緊張の糸が切れ、みなが安堵の笑みをこぼし始める中で。
無意識のうちに、誰にも聞こえないほど小さな声で私は女の言葉を呟いていた。




