八十七話 『揺さぶりノ問答』 一五六十年・吉乃
「私は、今川義元の使いとして、ここに来たからでございます」
無造作に投げ捨てた、今川の書状。
「私の話を、聞きたくなりましたでしょう?」
その女は今一度、能面の裏で不敵に笑った。
今川義元の、使い・・・
思いもしなかった能面の女の素性に、さらに私の警戒心が強くなる。
「あなた、今川の間者なのね。あなたたちが謀反を煽った織田信勝は、今川の踏み台に過ぎなかったということ・・・」
今川家からしてみれば、敵である織田が勝手に内乱を起こして弱体化してくれれば、労せず尾張を手に入れることができるって算段だったのだろう。
だから、この女を信勝にけしかけて謀反を煽っていた。
あの稲生原の戦を、裏で手を引いていたのは今川だった・・・
「今川の太守様のお側にご厄介になっている身ではございますけれど、間者などとそんな・・・邪推でございます。私はただ・・・」
「主の主命を賜った、一介の能楽師でございますれば」
なにが、能楽師だ・・・
その胡散臭い言葉に、私は強い嫌悪感を覚える。
武家の諍いの事あるごとに暗躍している能楽師がいるものか・・・っ。
「あなた、私がどういう立場の女か知らないはずがないでしょう。この時勢に、今川の手の者なんて名乗られたら余計あなたを逃がすことはできません」
私が、とても織田に親しい者だってことは尾張中の周知の事実だ。
この女にだって知らなかったとは言わせない。
そこをあえて織田の息のかかった私に会いに来るなんて、必ず何か裏があるはずだ・・・
けれど。
「それは、織田信長に対する操立てでございますか?」
淡々と、能面の女は言った。
肩をすくめ、首を左右に振る。
「お姫様は商人でございましょう? 信長に忠を尽くす武士ではないはずです。貴女様が忠を尽くすべきはこの店・・・津島の町・・・そして、その『矜持』でございます」
っ、それは・・・
「貴女様は、それでよろしいと思っていらっしゃるのですか?」
女の言葉に、私は何も言い返せずに唇を噛むしかなかった。
この女が言っていることは、間違いじゃない。
私が殿様の愛妾であることは、あくまで私一人の問題だ。
そこに、生駒屋や津島の町に関わりはない。
私がこの店の主である以上、会合衆の長である以上。
今この場で優先すべきは、殿様よりもこの店であり、この町だ。
この女は、そこまで私のことを知っていて揺さぶりをかけてきているんだ。
「貴女様は、利口なお方でございます。本当は、すでにお気づきなのでございましょう? 今川の狙いが、一体どこにあるのか」
女は、私を試すように言う。
私の、胸の内を見透かすように。
・・・嫌な女だ。
自らは能面で全てを隠していながら、目の前の相手には触れてほしくないところまで何の遠慮もなく入り込んでくる。
とてもいやらしい女。
・・・私は、気づいていた。
この、今川との戦。
何かが、おかしいのだと。
織田とは大きな兵力差があるはずなのに、今川の動きはどこか慎重に見えて。
今川家ほどの大きな武家なら、小手先の策など労せずとも大軍を動かして織田家ごと尾張を飲み込むことだって出来るはずだ。
ましてそれまでの殿様は尾張国内の内乱に追われて、他国のことなど考える余裕もない・・・言わば、弱小の国主さまだった。
あの末森の内乱に乗じて終わりに兵を出せば、今川が尾張を手にすることだって出来たはずだ。
それを、殿様が尾張を統一した今になって・・・まるで、織田の応戦体勢が整うまで待ってから今川義元は兵を動かしているようにも思える。
きっと、今川の本当の狙いは・・・
「・・・あなたたちが狙っているのは、この津島でしょう」
「ご名答でございます、お姫様」
私の答えに、能面の女は嬉しそうに言った。
はじめから明らかに、おかしい。
港の締め出しに、国境の封鎖。
今川が行ったことは全て、織田への謀事じゃない。全て、私たち津島の商人へ向けての謀事だ。
今川義元は、織田を潰すために今この時期に戦を仕掛けたわけじゃない。
この津島に最も打撃を与えるために、今、兵を挙げるんだ。
殿様の尾張統一によって国を安定させ、津島の商いが上り調子になりはじめたこの時期に。
敵の流れが乗り始めたときに出鼻をくじくことが、最も相手に打撃を与えることができるのだときっと知っているから。
「この戦はきっと、織田と今川の戦じゃない。私たち津島の商人と、今川義元との戦だ」
私がもし今川義元なら、きっと同じことをする。
兵力に大きな差がある以上、きっと織田は今川にとって厄介な敵じゃない。
むしろ厄介なのは、後ろで織田に金銭武具兵糧の援助をしている私たち津島の商人で、この尾張の民たちだ。
殿様には悪いけれど、織田と真正面から戦えばきっと今川は勝つだろう。それほど、織田と今川は格が違う。
けど、それは今川にとって損ばかりの行いだ。
もし織田が徹底して今川に歯向かうのなら、織田家を滅ぼすまで戦を続けなければならなくなる。
織田は、この尾張に根付いた武家の家だ。そんな国中に根を張った雑草みたいな敵を全て引っこ抜くには、大きな時と手間がかかる。
そうして苦労して織田家を滅亡させても。
私たち尾張の民にとっては、頭上にいるお武家さまがすり替わるだけの話だ。
織田が滅んだといって、私たちが今川を受け入れるとは限らない。
本当の意味で、尾張を手に入れたとは言えない。
だから、織田信勝は負けたんだ。
織田家中の大半を取り込み、清洲岩倉と手を結んだ周到な謀反を起こしたのにも関わらず。
私たち尾張の民を、取り込むことが出来なかったから。
尾張の民を従わせなければ、年々の年貢を取り立てることだって難しい。
下手をすれば、民たちが武具を持って蜂起するなんてことにもなりかねない。
尾張から遠い他所の国じゃ、そうやって『一揆持ちの国』になってしまったところもあるらしい。
この尾張は、強い。
その強さの根本は、そうした商人百姓の強かさだ。
そして、その強さは。
私たち津島の商人から尾張中に流れる、『銭の力』によるものだから。
私が、尾張を攻めるなら。
織田家よりも何よりも、まずこの津島に目を向ける。
あの海道一の弓取り、今川義元も、
きっと同じことを考えたのだろう・・・
「その書状には、津島が織田との繋がりを切り今川に服従するように書かれております。従わなければ、今川の敵とみなし織田と同じく徹底的に津島を潰す、と。灰燼ひとつ残さずに」
・・・っ。
当然の話だ。
織田に利する津島を、今川義元はきっと見逃しはしない。
女の言葉に、店の中がまた騒然となる。
「いかがされますか、お姫様?」
この商人の町の、全ての商人の行く末が
私の肩に、重くのしかかる。
私の一挙手一投足で。
津島はいともたやすく消えてしまう。
その分かれ道に、私はきっと立っている。
「貴女様は、商人であらせられます。誰よりも存じておられるでしょう。津島は、会合衆が取り仕切る商人の町でございます。織田のものになったことは、一度もないでしょう? 何を迷われることがありますか?」
私の逃げ場を少しずつ塞ぐように、女は言葉巧みに私を誘おうとする。
織田を見限り、今川につく。
その選択を、この私にさせるなんて心底嫌な女だ。
正論を振りかざしてくるものだから、余計に癪に障って。
馴染みのお客や生駒屋の者たちが固唾を呑んで私たちを見守っているこの状況では、私は下手なことを言えなくなる・・・
織田を、殿様を取るのか。
それとも、津島の利と商いを守るのか。
言葉巧みに、女は私に選択を取るよう追い詰める。
蜘蛛の巣に絡め取られた虫のように。
私は、女の思う通りに動けなくなっていく感覚に、蝕まれてしまうそうになる。
好き放題言わせてたまるか・・・っ。
なんとか反発心をむき出しにして、女になにか一言言い返してやろうと思ったとき、
「・・・お姫様は、まこと織田が今川に勝つとお思いでございますか?」
私の反論を遮るように。
女は、畳み掛けてそう問いかける。
私の胸の内を見透かして。
ずっと燻っている不安をあぶり出すように。
首元に切っ先を突き立てるように。
能面の女は、冷たい声でもう一度私に尋ねる。
「・・・商人として、その本心はどう思っておられるのですか」




