八十六話 『能面ノ女』 一五六十年・吉乃
「お久しゅうございます、商人のお姫様」
能面を被ったその女は、確かに私の目の前にいた。
「待ちかねて、おりましたよ」
能面の女は「ふふっ」と笑い声を漏らし、明らかに場違いな軽口を叩いた。
「どうして、あなたがここにいるの」
私は女をぐっとその女を睨みつける。
油断ならないその相手に、私は思わず顔が強張ってしまう。
・・・どうして、この女がうちの店に・・・
「おやまぁ、そのような怖いお顔はしないでくんなんし・・・私はただ、お姫様にお話があって寄らせてもらっただけのことでございます」
よくもまぁ、しゃしゃあと・・・
突如現れ、店中の者から警戒心を向けられているのにこの女は、それを全く意図しない。
あの時と変わらない。その飄々とした態度が鼻につく。いけ好かない。
「お嬢、この女を知っているのか」
小六が、私に尋ねる。
「稲生原の戦のとき、信勝の本陣の中で会った。織田信勝の手の女よ」
「信勝のか・・・っ!!」
私の言葉に、周りが騒然となる。
あの、末森の残党が今になって現れた――店の者たちはみな驚き、更にその緊迫感が強く強くなっていく。
生駒屋の者たちだけじゃない。
店の隅でお類と奇妙を抱いて様子を案じている帰蝶さまも、驚きと敵対心を露わにしてこちらをじっとみつめている。
店中の者の冷たい視線が、女に降り注ぐ。
当然だ。末森は私の父を、この店の主を手に掛けた仇だ。
生駒屋で働く者はみな、父を殺した末森の手勢を内心憎く思っている。
過ぎたことだと済ましてしまうには、末森の行いは私たちにとって不条理すぎる。
当然、私が織田信勝の名を挙げればみなあの戦のことを思い出してしまうから。
小六が、するりと手にかけた太刀を抜いた。
続けて川並衆の郎党たちが、みな一斉に刀に手をかける。
肌を刺すような緊張が、店の中を通り抜ける。
けど、あの女は
「ふふっ、一別以来でございますね」
向けられる憎悪に意も介さず、女はその能面の下に微笑を隠して、不敵に笑った。
「戦場から惨めに逃げ隠れたあなたが、今更私に何用なの。のこのこと出てきて、今ここで捕らえて織田に引き渡されるとは思わなかったの?」
信勝の手の者は、織田にとっての咎人だ。
末森の謀反に関わった者はみな、何らかの処断を受けている。中には今一度殿様の下へ降ったり、捕らえられたり、尾張から追放された者もいたけれど・・・その中でただ一人、この目の前の能面の女だけは行方をくらませていた。
四年経った今でもその所在は掴めていなかったし、なにより能面の女に関する出どころが極端に少なかったから今まで見つけることも出来なかったんだ。
柴田も林佐渡も、能面の女がどこからやってきたのか、そしてどこへ消息を絶ったのか、本当に何も知らなかった。
誰一人、女の委細を知らない。いつの間にか信勝の隣にいた女のだと、末森方のお侍はみな口を揃えて答えていたらしい。
その言葉に嘘があるようではなかったと、殿様や五郎左殿たち母衣衆の方々は仰っていた。
信勝の側に侍りながら、その正体も行方も誰も知らない謎の女――
「・・・私を、お捕らえになりますか?」
「聞くまでもないでしょう。どこへ逃げていたかは知らないけれど、見つけた以上見逃しはしない」
私が、右の手を上げる。
それに合わせて、小六たちと郎党が能面の女に一歩すり寄っていく。
私の合図で、すぐにでもこの女を捕らえることが出来るように。
その、一触即発の状況のなかでも。
「・・・けれど、それはどうでございましょう?」
女は余裕な態度を崩さないまま、首を傾げた。
「私を捕らえてしまうと・・・お姫様方は、お終いになってしまいますよ?」
「何を訳のわからないことを。無駄な悪あがきはやめなさい」
「悪あがきなどではございません。お姫様は、私の話を聞くべきでございます。何故なら・・・」
女は懐に手を入れると、一束の書状をおもむろに取り出す。
その書状は、一目見てわかった。その紙は、津島の市に流れているような普遍の紙じゃない。津島でもめったにお目にかかれない、艷やかなほど白く澄んだ紙の書状。
有力な大名家や京の公家さまのように大きな力を持った者しか使えないような、最高級品だ・・・
能面の女は、そんな書状をそんざいに足元に投げ捨てる。
「っ、これは・・・」
私は、思わず息を呑む。
その書状は、予想もしていない者から差し出されたものだったから。
『津島筆頭商人 商人乃姫』と書かれた包みの表。
そして、
女の捨てた書状の包みには、『今川』の家紋の焼き印がされていた。
「私は、今川義元の使いとして、ここに来たからでございます」
「私の話を、聞きたくなりましたでしょう?」その女は今一度、能面の裏で不敵に笑った。




