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八十二話 『海道一ノ弓取』 一五六十年・今川義元


 ・・・ままならない。


 まこと、この世はままならないと思う。



 今川の家督を継ぎ、三国の覇者となった。

 三国同盟を一代で築き上げた。この広大な地を、平定した。


 何もかもを、思い通りに動かしてきた。


 富も、力も、全てを手にした。


 もはや、この東国で拙僧を見くびる者はいない。

 あらゆることが、拙僧の思い描く通りに動いていく。


 ・・・そうであるはずが。


 何故、拙僧はこんな閉塞感を感じるのか。

 ままならぬと、強く思ってしまうのか。


 寺坊主をしていた、幼き頃。

 高僧と崇拝されていた京の有名な和尚のありがたい口説(くぜつ)を伺う会というものあった。


 仏門に傾倒していたその頃の拙僧は、勇んでその口説を聞きに行った。一言一句、和尚の話を聞き漏らさずに聞いた。

 和尚が説く仏の道に、心底賛同したことを記憶している。


 御仏(みほとけ)こそがこの荒んだ浮世を変えてくれるのだと、拙僧は信じて疑わなかった。


 ・・・まこと、愚かな餓鬼であったと我ながら思う。



 ・・・かような他愛もない昔話をふと、拙僧は思い出していた。


 今川館の、領主の間。

 上座に腰を掛け、あぐらを組み。



 人払いを、させていた。

 人のいないところで、かように物思いに耽けることが近頃多くなっていた。



「年をとったな」



 心底、思う。

 昔は、このように思慮を働く暇もなかった。ただただ、がむしゃらであった。


 考えることは、雪斎の役だったのだ。


 それが今では、この拙僧が物思いに耽けることになるとは・・・



 やはり、この世はままならない。



 だが、それも、



「じきに終わる」



 ままならないことは、全て消えてなくなる。


 この、尾張の戦をもってして。



「太守様」



 不意に、障子越しから呼ばれた。

 その声に、覚えがある。近頃手元に置いた、能面をかぶった白拍子の女の声であった。



「お酒を、お持ち致しました」



「入れ」



 拙僧が入室を認めると、白拍子は甲斐甲斐しい仕草で障子を開けた。

 なるほど、自ら白拍子というだけはある・・・ただ障子を開け酒器を置いた盆をこちらに持ってくるだけのことが、その所作一つ一つが無駄なく美しい。


 かような些細なところから、人の力量とはにじみ出てくるもの。

 ・・・この女は使えると思った拙僧の目に狂いはないようだった。



「御酌させていただいても?」



 拙僧は頷き、差し出された酒坏を手にした。

 何も申さず、黙って白拍子に酌をさせる。


 一献、一献、酒を重ねる。



 かように静かな中、黙って飲む酒は良い。


 酒宴は、あまり好かぬ。

 まこと酒は、静かに飲むものだ・・・



「太守様・・・?」



 黙って酒を注いでいた白拍子が、ふと声をかける。



「なにか、ご思慮でも?」



「何故だ?」



「先程から、何も申されませんもの」



「・・・昔のことを、思い出していた」



 酒の酔いに流されるまま、俺は目の前の白拍子にそんなことを口にしていた。



「京の寺で、坊主をしていた頃のことだ」



 拙僧は、先代当主今川氏親の三男として生まれた。


 二人も兄がいるこの身に、家督など降りてくるはずがない。後々の争いの種を除くため、拙僧はすぐに仏門に出された。


 この身体には、今川の血が流れている。だが、それが意味をなすことなど生涯あるはずがないと思っていた。家督は、兄たちが継ぐのであるから。


 拙僧自身、このまま仏の道を進み坊主として死んでいくのだと、そう思っていた。武士になる気も、家督を継ぐ気も、あの頃は一寸たりとも持っていなかった。


 かような小僧が今では大国今川の当主であり、『海道一の弓取り』などと持て囃されておるのだからこの浮世はまことわからぬ。


 雪斎とともに、京の寺々を渡り歩いた。

 駿河では見ることのできぬもの、知ることのできぬものを京で数多く知った。


 名刹(めいさつ)の高僧や、内裏に出入りする公家とも知古となった。面白い話を、浴びるほど聞いた。


 その行為が『学を成す』というのだと知ったのは、その頃だ。

 今川は足利将軍に連なる名ある家であるから、その出の拙僧にも貴人は丁重にもてなしを施していた。その中で、馬が飼葉を喰らい四肢を大きくするように、拙僧は欲深く様々なことを己の内に取り込んでいく日々を過ごしていた。


 家督など継ぐ気もない、ただの若坊主が。

 雪斎曰く、今川の当主たる素養だけは眼を見張るほどに開花させておったらしい。


 ただ拙僧は、学を成すことに愉悦を覚えておっただけの話なのだが。



 まこと、笑い話だ。

 家督を継がせまいと遠ざけていた弟こそが、いつの間にか最も当主にふさわしい男になっていたなどと。兄も、思いもしなかったであろう。



 その兄たちが、死んだ。

 今川を継ぐ者が、消えた。


 寺にいた拙僧はすぐに駿河に呼び戻され、次期当主の神輿に担がされた。十八のころのことだった。


 あの頃は、突然還俗して現れた男に反発する声も多かった。

 つい先日まで僧籍だった、まともに武家の(なら)いも知らぬ男を主君に据えるのかと。


 その声を、拙僧は力をもって黙らせた。


 

 今川家中に反義元ともいうべき派閥の連中が、今川家庶流の男を担ぎ出し挙兵する。

 血筋がまことがどうかもあやしい、外戚の男だったと思う。どうせ、大した男でもなかったであろう。もう二十年以上も昔のこと、その男の名もとうに忘れた。


 その後の『花倉の乱』という名がついた、今川のお家騒動。


 拙僧は、この戦を収め今川の家督を相続した。


 拙僧に歯向かった者はみな、死んでいった。


 拙僧が、殺した。


 同じ今川の武士が血しぶきと首級となり舞い乱れる・・・拙僧の初陣は、ずいぶんと血なまぐさいものだったことを覚えている。


 僧籍上がりの坊主には、見るに堪えないものであった。


 戦とは、


 武家とは、こういうものなのかと愕然とした。



 その流れに身を置いた自らの(けが)れを、自覚した。



 もう、仏の道には戻れぬと。


 この修羅の延長線上で、自らの大望を掴むことしか我が生涯に道はないのだと。



「坊主をしておった頃は、『極楽浄土』を夢見たものだ」



 極楽浄土。

 仏が説く、究極の世。一寸の苦しみも存在しない、安楽の世界。

 仏門に触れた者ならば誰しもが目指す、人が生きるための目的地であった。坊主が勤勉に修行を繰り返すのも、下々の民が一心不乱に念仏を唱えるのも全て、死んで極楽に行くための行為にすぎない。



「仏の道を追求すればいつかは極楽浄土への道が拓けるのだと、あの頃は疑いもしなかった」



「お似合いに、なりませぬよ。今の太守様は、極楽とは反対のところにおられますから」



 白拍子は、可笑しそうな声で笑った。


 拙僧自身、今思い返しても笑ってしまう。あのころは、まことに愚かだったのだ。


 仏の道では、何も変わらぬ。


 であるから、拙僧は今この場にいる。


 

 血と渇きに飢えた、武士(もののふ)の世の、畜生の『(いただき)』に。



 還俗して随分と経つ今でも恋い焦がれる――『極楽浄土』に(いた)るために。



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