八十三話 『愚か者ノ粛清』 一五六十年・今川義元
「・・・太守様、御免仕ります」
不意の呼びかけに、酒を手にした右手が止まる。
小姓が、障子を開けて俺に慇懃と頭を下げた。
三河から人質にとった、松平次郎三郎である。すでに元服を済まし小姓としてはとうが立った若武者ではあったが、頭の良い使える男であったためつい手元に置いていた。
次の尾張攻めには三河武士の手勢を率い先手を務めさせようと、今の時分から決めていた。
「尾張より鳴海城主、山口教吉殿。お父君、山口教継殿。両名がお越しでございます」
女と二人で酒を酌む拙僧に、松平は淡々と報告を述べていく。
「鳴海の、山口親子・・・? 駿府にお呼びだてしたのですか太守様?」
「あぁ、だが随分と待たせられた・・・戦だけでなく、呼び出しても足が遅い・・・」
拙僧は不快感を顔に出して一気に酒を煽る。
飲み干した酒に、身体が一斉にかっと熱くなる。
空にした酒器を不躾に白拍子に突き出し、拙僧は松平に一言だけ命じた。
「山口の愚図どもを、ここに連れてこい」
松平に連れてこられた山口教吉、教継の親子は下卑た笑みを浮かべながら、この部屋に入ってくる。
今川の当主である拙僧直々に呼び出されたことに、どうやら浮かれておるらしい。
こやつらと顔を合わせるのはこれが初めてであったが、家中の者の話通り・・・あまり出来た男どもではないらしい。
小さくとも尾張の片田舎を支配する武家の者であるはずが、親子揃ってその頬は丸く肥え太っており、その顔つきはとても武士の威厳が感じられるようなものではなかった。
・・・拙僧の、好かぬ人種だ。
生まれながらの武士でありながら、なんたる体たらく・・・故に信長に勝てぬのではないのか・・・
「我らのような尾張の田舎武士がこのように太守様のご尊顔を拝見出来る機会をいただき、まこと恐悦至極にございます」
苛立ちを覚える拙僧の内心などつゆ知らず、山口教吉はかような形式張った挨拶を拙僧に対して告げる。
その声は明るく、嬉しそうな顔持ちで無駄に大きな声を出すものであるから、余計に苛立ちが募る。
本来ならば、かような公の場に膳を置いたまま謁見をさせるのは、拙僧の流儀ではない。軍議や評定に宴の気を持ってきては、まともな話など出来るはずがない。
そのような、めりはりのつかぬ評定など時の無駄だ。
いつもならば膳を下げさせ、酒の抜けたところで謁見を呼び出すことが常なのだが・・・
かような愚図どもに、そのような分別をつけることすら煩わしい。
膳はそのまま置いたまま、能面の白拍子に酌をさせながら、山口どものつまらぬ口上を拙僧は飽き飽きとした心地で聞いていた。
「この度は今川が尾張攻めの兵を挙げてくださると聞き、我らは嬉しい限りでございます!! 太守様の力を持って横暴止まらぬ信長を討ち取り、尾張を平定してくだされ!! 今川様のためならば、この鳴海の者どもも先駆けとなって獅子奮迅の働きを――」
「待て」
短く、鋭い声色で言う。
「誰が、お前に先駆けを任せると申した?」
「えっ・・・」
突如口上を遮られた山口教吉は無礼にも拙僧の前で阿呆面を浮かべ、首を傾げた。
どうやらこのうつけは、自らがこの今川の先鋒先駆けを務めることが出来ると本気で思っているらしい。
先程からずっと浮かれていたのも、拙僧から呼び出された要件が先手を務める下知であると思いこんでいたからであろう。
まこと・・・愚かすぎて笑えぬ・・・
一番槍を担う先駆けは、戦の花形だ。
手塩を込めて遇した今川の者ではなく、かような尾張のうつけどもに任せる訳がなかろうに・・・
「此度の戦の先手は、そこにおる松平の手勢に務めさせると決まっておる。お前たちの兵に用などない」
「なっ・・・こんな若造が先手でございますか!?」
部屋の隅に控えておる松平を見て、山口親子は哀れなほどに慌てふためき、信じられないというような口調で拙僧に問いただす。
「何が不服か」
「かような若造などに任せるよりも、我らに戦の先手をおまかせくださいませ・・・っ!! 我らは尾張の土地を知っております、我らが先手を務めますれば瞬く間に尾張を平らげ――」
「黙れ」
あまりに見苦しいその様を、これ以上は見ていられなかった。
・・・なんなのだ、こやつらは。
・・・醜い。腐るほど醜い。
「お前は、この今川義元を差し置いて今川の軍制に口を出すほど偉いのか」
「・・・っ!!」
平伏する山口親子の身体が、恐怖で震えている。
拙僧が少し恫喝をかけただけで、このざまだ。
・・・武士でありながら、情けない。
「かように尾張の地を知っておると申すなら、何故今になっても信長から尾張の地を奪えずにおるのだ・・・お前たちが今川に組みしてからもう何年が経つ? 何故力を増す信長に対して、指を加えて見ておることしか出来ぬのだっ!!」
「もっ、申し訳ありませぬ・・・っ!!」
拙僧の怒号に慄き、山口親子は死ぬ前の犬猫のように身体を縮める。
頭を床にこすり付ける山口教吉のうなじが、上座からも見える。
そのうなじが、あまりにも無防備すぎる。
武士と相対して己の首元を見せるということが、どういうことなのか、まことこの男はわかっていないのか・・・?
「役立たずは、今川には必要ない」
山口の背後に控えている松平に、拙僧は視線を向ける。
この男は、利口だ。
松平は何も言わず頷き、むくりと立ち上がると、部屋の障子を大きな音を立てて閉めていく。
その障子を閉める音にすら、山口親子は驚き身をすくめている。
・・・もう、よい。
これ以上、こやつらの相手をすることすら煩わしい。
「これまでの今川への忠義、大義である。お前たちに、申し付けることは何もない。織田との戦も、鳴海の城の仕置きも、今川の手の者にやらせる。もう何もしなくてもよい」
息を、することさえも。
「殺れ」
拙僧が命じた刹那、
松平が、素早く己の太刀を抜く。
「なっ・・・!!」
額を床にこすり付け平伏する体勢を取っておった山口教吉は、松平の抜刀に気づくもとっさに反応が遅れる。
その一瞬を掴めぬところが、この男の器量の限界を表していた。
慈悲もなく、拙僧の下知通りに松平は露わになったそのうなじに手にした抜身を振り下ろす。
その断面から、勢いよく血しぶきが吹き上がる。
腰の太刀に手をかける暇もなく、ぽとりとその首級は落ちて転がった。
「な、何故だっ!? 我らは今川のために働いたではないか・・・っ!! かような報いはあまりにも酷すぎるではないかっっ!!」
我が子の首級を目の当たりにし、父の山口教継は無様に狼狽える。
信じられぬとでも申すように顔を歪め、唾を飛ばし非難の言葉を延々と大声で叫び続ける――も。
「やかましい」
それは、すぐに止んだ。
「っ、ぁ・・・」
松平の刀の切っ先が山口教継の心の臓を貫く。
何の抵抗も出来ぬまま山口教継は事切れ、口元から血を流しそのまま倒れて死んだ。
騒がしい者どもが動かなくなり、無音の静寂に包まれる。
「・・・おや、まぁ」
その仔細を側で眺めていた能面の白拍子が、不意にくすりと笑う。
「いともたやすく、死んでしまわれたようで・・・まこと、太守様は恐ろしいお方でございます」
恐ろしい恐ろしい、と可笑しそうに白拍子は繰り返す。
その言葉は軽く、目の前の血まみれの骸にも大して怯えているようにも思えない。
底の見えぬ女だ。
拙僧が恐ろしいなどと、微塵も思っていないだろうに。
「人が死んだというのに、太守様は顔色一つ変えませんもの」
「元々、殺すつもりで駿府に呼んだのだ。何年も信長に手も足も出せぬ無能など、生かしておいては尾張攻めの士気に関わる」
粛清する手はずの者を殺して、何を動揺することがあろうか。
「つまらぬ酒の肴を見せられたが、まぁよい。これで尾張への憂いはひとつ減ったか」
「松平」再び酒を口に運びながら、血のついた刀身を懐紙で拭く松平に声をかける。
「後始末はお前に任せる。血痕ひとつ残すな、明日の軍議までにここを使えるようにせよ」
「御意」
「いよいよ、織田との戦でございますね」
白拍子が酒を注ぎながら、言う。
無造作に首のない骸が転がっているというのに、この女は嬉しそうな声でそんなことを申している。
女なら、この惨状を目にすれば恐れ恐怖をあまり悲鳴を上げるものであろうに。
顔を見せぬだけではない。
何かが、この女には欠如している。
この女と酒を汲み、身体を抱いておると時折思う。
この女は、人なのだろうかと。
人の殻を被っただけの、中身のない女なのではないかと。
――拙僧に擦り寄り、今川を陰で操り、この女は何を成そうとしたいのか・・・
・・・まこと、怖い女だ。
顔を見せぬこの女の底しれぬ業の深さに、身震いがする。
女がその腹に何を抱えているかと思うと、ぞくぞくと背中に快感じみたものが走る。
好ましい。
かように『深淵』な女は、拙僧好みだ。好ましい。
その深淵が、手折れたときに歪む顔も。
今は手のひらで踊ってやろう・・・この女が、尾張への戦で何を見せてくれるのか・・・
戦の醍醐味が一つ増え、気分が一層良くなる。
「面白い戦になりそうで私、今から楽しみでございます」
かような拙僧の心情を知ってか知らずか、女は微笑み混じりの甘い声でそのようなことを口にした。




