七十六話 『吉乃ノ噂』 一五六十年・吉乃
「・・・くくっ」
不意に、笑い声が漏れる。
それが酷く私の気に障って、私はお類を抱きかかえたまま店の隅にたむろしている奴らに冷たい視線を向けた。
「・・・何か言いたいことでもあるの、小六? 将右衛門?」
「いや、だってよ・・・なぁ、将右」
「あのお嬢がいっぱしの女将面してらぁと思うとな・・・くくっ」
「あの婚期を逃したじゃじゃ馬のお嬢も年を取ったもんだなと」
「全くだ」
けらけらと笑う小六たち川並衆。
そしてそれを眺めながらしみじみうんうんと頷く店の手代たち。
・・・こいつら、め。
そりゃ、みなとは長い付き合いだし、私とも気心の知った仲だけども。
私はこの店の主人だぞ。
川並衆の報酬の銭だって、私が用立ててやってるってのに・・・
少しは敬意を示してもいいじゃない。
まぁ、年を取っても立場が変わってもいつまでも私を『お嬢』と呼んで慕ってくれることは、とても嬉しいのだけども・・・
「そのじゃじゃ馬が、今じゃあ尾張一の女傑だからな」
「女傑!? 誰そんなこと言っているの!?」
今まで散々『巴御前』だなんて揶揄されてきたけれど・・・
『女傑』なんて、さすがに酷すぎやしないか。
弓も槍も触ったことのない三十路をとうに過ぎた女を捕まえて、女傑だなんて・・・
「尾張に住む奴なら商人百姓ごろつきまでみな言ってんぞ。生駒屋の女店主は、裏で尾張国を統べる女傑だってな」
「なっ、なんでそんな話になっているの・・・!!」
私は唖然としてしまう。
なにも、知らなかった・・・
商いから離れていた時期もあるし、子育てや殿様の相手に必死で、周りからどう思われていたかなんて気にする余裕は確かになかった。
それでも、生駒屋の主として日々務めを果たしているし、時折会合衆の集まりに顔を出すこともあって。
みな、私に親しくしてくれていると思っていたのだけれど・・・
私の知らないところで、そんな陰口を言われていたの・・・!?
「じょけつ?? じょけつって、なに??」
「おうよ、女傑ってのはな・・・」
「お類に余計なことを教えないの将右衛門!!」
全く、油断も隙もない・・・
「まことの話なんだから、仕方ねえじゃねえか。文句言うなよお嬢」
「小六、何がまことの話ですか。私のどこが、女傑に見えるっていうの。ねぇ?」
周りの手代たちに同意を求めようとするけれど、何故かみな気まずい顔をして私から目を反らす。
・・・ちょっと、その反応はなに?
「お嬢はこの尾張で一番の大店の主で、津島の筆頭商人・・・お嬢に勝る商人はもう、尾張におりませんって」
「ましてやお嬢は国主さまの愛妾です。商いにも政にも大きな力を持った方。女傑と言われても、その、納得かと・・・」
口々に、そんなことを言い出す。不満で顔をしかめる私を余所に、みな私の女傑話に盛り上がって
「まぁ、お嬢を怒らせたらおっかねえよな。商いで銭を全部持っていかれて、織田の軍勢差し向けられて八つ裂きだからな」
とどめに小六がけらけらと笑いながらそんな冗談を口にするものだから、さすがの私も堪忍袋の緒が切れて。
「私はそんなことするような女じゃありませんっ!!」
ほんと・・・なんて失礼な奴らなんだ・・・っ!!
確かに、私はもっと自らの立場を自覚しないといけないのかもしれないけれど。
津島の筆頭商人が、織田信長さまの、愛妾。
そりゃ、周りから見ればとても大きな権勢を手にしたように見えるのかもしれない。
自覚、全く無いんだけどなぁ・・・
今でもその感覚は、殿様に振り回されていたときと全く変わらない。
私が、この尾張に多大な影響を与える立場だなんて実感も、ない。
でも、そうだろうなって思う。
だって、奇妙が。
私の産んだ子が、次の尾張の国主さまになるのだから。
そんなことをふと思ったときだった。
「ごめんください」
「あっ、いらっちゃいっ!!」
一人のお客が、店に入ってくる。
いの一番にお客に気づいたお類が、私の言いつけ通り元気に挨拶をする。その小さな足でお客の下までかけると、そのお客はお類の姿を見て優しく笑った。
「おやおや、可愛い手代さんですなぁ」
お客は、私と同じ三十半ばぐらいの顔立ちの、頭を丸めた殿方だった。
山吹色の法衣を着て、一見仏門の僧なのかと思ったのだけれど、なにかどこか違う。着ている法衣も生地は高そうな絹で、所々に細かい刺繍が施されていて。
俗世から離れたお坊さんらしくない・・・むしろその逆の、欲の中で生きている私たち商人のように、見える。
「ずいぶんと賑やかな馬借屋さんのようで。さすが、津島一と聞いていただけのことはありますなぁ」
随分と柔らかな物腰で、お客はそんなことを言う。
あっ、この感じは・・・長年の培った勘でなんとなく気づいてしまう。
この人は、商人だ・・・しかもかなりのやり手の・・・
「駿河まで、馬を数頭お貸しいただけますかな?」
男は、商人特有の人受けの良い笑みを浮かべて名を名乗る。
「手前、堺の天王寺屋宗及と申す商人でござります。どうか、よしなに」
堺・・・? 堺の、商人・・・?
まさかの客人に、私も、手代たちも、固まって。
「『そうきゅう』しゃん!! いらっちゃい、ようこそ『いこまや』へ!!」
何もわからないお類だけが、無邪気に笑ってはしゃいでいる。
この、お客としてやってきた宗及殿との出会いが今思えば。私にとって。
その後起こる尾張を揺るがす大戦の始まりだったのかもしれない。




