六十四話 『天魔ノ殺気』 一五五六年・吉乃
「殿・・・様・・・」
私は唖然として、ただ殿様たちの立ち姿に見入ってしまう。
本当に、殿様が来た・・・
殿様だけじゃない。五郎左殿、内蔵助殿、与兵衛殿、勝三郎殿、藤吉・・・母衣衆の面々も揃っている。
矢を顔に受け落馬したと聞いていた犬千代殿もいる。顔の右側を手ぬぐいで縛り、それでも右目からは赤い血が滲んでいて見るからに痛そうだったけど、殿様の側で、槍を担いで堂々と立っていらっしゃる。
その、見知った顔。
みな、私と弥平次さまと、共に殿様を支えてきた同志で。
私は知っている。
とっても、頼りになる・・・
「・・・っ、信長・・・っ!!」
信勝が、苦虫を潰したような顔で殿様たちを睨みつける。
御前さまも、信勝配下の武者たちも、動揺を全く隠せないまま大将の信勝に視線を向けていた。
不意に、殿様と目が合う。
縄で縛られ、膝を地についた姿の私。髪は乱れて、信勝に幾度も打たれた頬はきっと赤く腫れている。
そんな姿の私を見た殿様の冷淡な表情がみるみる強張っていくのが私にはわかった。
眉間にしわが寄って、殿様の顔が殺気立っていく・・・
その殿様の姿に、私はぞっとした。
・・・縛られている私を見つけて、怒ってる、の・・・殿様・・・
殿様はとても、とても、怖い顔をしていた。
今まで何度も殿様のことを冷酷だの天魔だのって揶揄してきたけど、そんなの全くもって比じゃない・・・
本当に怒った、人を殺すことも問わない殿様の表情。
身の毛もよだつくらい、背筋も凍る、その殺気・・・
「者ども」
殿様が、短く言う。
「根切りにせよ」
根切り・・・つまりは、皆殺し。
そう命じた刹那、殿様配下の武者たちが一斉に本陣の中に雪崩れ込んできて。
本陣の中が、血生臭い戦場に変わった。
舞う、白刃・・・
飛び散る、血しぶき・・・
むせ返るほどの、血の匂い・・・
敵に斬られ、次々と倒れていく信勝側の武者たち・・・
その断末魔・・・
初めて目にする戦場の惨状は、私の思った以上の地獄で。
そんな中に、手足を縛られたままの私が一人、取り残されて。
「っ、いやっ・・・!!」
いつ斬られるかわからない恐怖と、身動きが取れない絶望で、私は怖くて目をつぶった。そのとき、
えっ・・・
私の視界が、陰に覆われた。
不意に、誰かが私の前に立ちはだかる。
その、大きな背中を私に向けて。
まるで、乱戦の白刃から私を守ろうとするように。
その緋色の陣羽織をはためかせて。
襲いかかる信勝の武者を、手にした太刀であしらいながら。
私を守ってくれる、その背中。
「殿、様・・・っ!!」
織田信長さまが、私の目の前にいる・・・っ!!
「動くな、守りづらいであろうが」
一太刀。
一閃。
倒れる大柄の敵の武者。
私を守りながら太刀を振るう殿様は、とても凛々しくて。
私は、戦場の中だというのに我を忘れて殿様の後ろ姿に、見惚れてしまっていた。
不思議と、殿様の背中を見たそのときから
戦の恐怖は、どこかに吹き飛んでしまっていたんだ。
「っ、信長ぁっっ!!」
信勝が、声を荒げて叫ぶ。
殿様を前にして、太刀を抜いて私たちと対峙して。
今にも殺さんとばかりに、憎悪をむき出しにした視線で私を、殿様を、睨みつけて。
もう、さっきまでのように余裕の笑みを浮かべて策士面していた面影はどこにもない。
狂乱に取り憑かれた、見苦しく哀れな男の姿。
信勝が、殿様を斬り殺そうと太刀を振り上げる。
けれど、殿様は一寸たりとも動じなかった。
「与兵衛っ!!」
私たちの近くで斬り合いをしていた与兵衛殿を、殿様は大声で呼び止める。
与兵衛殿はすぐさま身体を返し、私たちと信勝の間に割り込むと手にした太刀を信勝に向けて
「勘十郎様ご覚悟っ!!」
信勝の肩に目掛けて、思い切り突き刺した。
信勝の顔が歪む。
その悲鳴が、断末魔が、本陣の中に響き渡る。
与兵衛殿の放った一突きは甲冑の間を綺麗にすり抜け、刃はそのまま信勝の肩を貫通した。
与兵衛殿が太刀を引き抜くと、肩から真っ赤な鮮血が吹き上がって。
信勝は身体を大きく反らせると、その場で身体を強張らせて倒れていった。
「末森の御大将っ、この河尻与兵衛秀隆が討ち果たしたっ!!」
与兵衛殿が、刀についた血を振り払いながら高らかに叫ぶ。
その声を聞いて、ただでさえ総崩れの信勝の手勢は一斉に瓦解した。信勝勢の武者たちは我先にと逃げ惑い、殿様の手勢に次々と打ち倒されていく。
最後には数多残った武者の屍とともに。
殿様の手勢が、完全に信勝勢の陣を制圧して。
「・・・終わった、の・・・?」
稲生原の戦は、今、終わりを迎える。
血染めの本陣の中、私は呆然とした心地で、ただ殿様の背中をじっと見つめていた。




