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六十五話 『稲生原ノ結末』 一五五六年・吉乃



「逃げた敵は追うな。追い首は手柄にせぬと、兵に伝えよ。手勢をまとめ陣を立て直し手負いの者の救護に迎え」



 殿様は五郎左殿や勝三郎殿、母衣衆のみなに事細かく下知を伝えながら、戦の後始末を始めていた。

 私にとっては初めて見る、大将としての殿様の姿で。


 殿様は、与兵衛殿に斬られ倒れている信勝に近寄ると、自らの陣羽織を脱ぎそっと信勝に被せる。



「与兵衛、勘十郎に血止めを施せ。ここでは死ぬすな。座敷牢に入れ、此奴(こやつ)は織田の法度にて裁く」



「御意」



「・・・っ、信長っ!! よくも、弟を斬ってたもうたなっ・・・人の血も流れていない、けだものがっ!!」



 殿様を激しく罵倒する声が響く。

 御前さまが、鬼のような形相で私たちを睨みつけていた。

 本陣にいる信勝派の人物の中でただ一人、生き残って殿様の手勢に捕らわれていたんだ。


 その丁寧に塗った白粉も、綺麗な打ち掛けも、見るも無残なお姿で。全て戦塵と飛び交う鮮血に汚れながらも、それでも髪を振り乱して殿様に怨嗟(えんさ)の目を向けることをやめない。



 ・・・どうして。


 ・・・どうしてなんですか、御前さま。



 御前さまの、憎悪に当てられて私はとても哀しい気持ちになる。



 ・・・何があれば、そんなに自らの子を憎めるっていうんですか。


 殿様との間に、何が・・・



 殿様は、捕らえられた御前さまに顔を向ける。二人の視線が、確かに交わって。


 けれど、殿様はそんな御前さまのお姿を見ても何の反応も示さない。



「五郎左」



 ただ、五郎左殿を呼ぶ。



「御前殿は戦の恐怖に乱心しておられる。我が城に迎え、療養してもらえるよう手配しろ」



 殿様は、淡々とした声色で五郎左殿にそう指示をした。



「承知、致しました」



 五郎左殿は、粛々と殿様の命を事細かく伺っていて。

 ただ、ひとつだけ。五郎左殿は言葉を詰まらせながら、困惑気味にあることを殿様に尋ねる。



「・・・その、御前様付きの護衛の者を、用意させますか?」



「・・・っ!!」



 五郎左殿の言葉を聞き、御前さまの顔が歪む。



「この鬼がっ!! 外道がっ!!」



 発狂したように泣け叫び、ひたすら殿様を罵倒し続けて。



 ・・・私でも、殿様の意図には感づいていた。


 殿様が、何をしようとしているのか。



 療養なんて、都合のいい方便で。


 護衛なんて、そんなのただの御前さまを見張るだけの者で。


 二度と御前さまが殿様に歯向かわないよう、織田のお城で幽閉するつもりなんだって・・・



「無論だ」



 殿様は、粛々とその問いに答える。


 私の位置からじゃ、殿様の背中しか見えない。

 どのような表情をしているのか、うかがい知れない。


 ただ、己を殺して黙々と戦の後処理を進める殿様を、縄にかけられた私は心配することしかできなくて。



 この戦で。


 信勝に囚われ、縄に縛られたこの本陣の中で。


 殿様と、信勝と、御前さま。


 この母子の深い溝を、私は垣間見てしまったから。



 他人事のように、思えなかったんだ・・・



「御前殿をお連れしろ」



「・・・っ、信長ぁ!! 呪うぞ、お主は必ず呪い殺すぞっ!!」



 殿様の命で、御前さまは五郎左殿に連れられていく。

 最後の最後まで、呪詛の言葉を叫び続けて。


 御前さまの汚い罵倒だけが、本陣の中を響いていく。

 殿様の兵はみな、なんて口にしていいかわからなくて。神妙な面持ちで黙ってしまって。

 勝ち戦だっていうのに、重い雰囲気が漂っていて。


 

 国主さまに反逆を企て、さらにこんな大勢の面前で殿様を罵倒したんだ。

 いくら殿様の母君だからって、もう無罰ではきっと済まされない。


 御前さまが公の前に戻ってくることは、死ぬまで無いと思う。



 その最後のとどめを今、殿様が下してしまった・・・



 「殿、様・・・」



 私は、殿様の顔を見上げる。



 殿様は、何も言わなかった。


 私の方へ振り返ると、腰から小太刀を抜いて



「今縄を切る、動くな」



 いつものように無愛想に、そう言った。


 けれど、縄を切るその手つきは意外なほど優しくて。


 地に、膝をつけて。


 小太刀の刃が私に当たらないよう、慎重に、優しく、殿様は縄を切ってくれる。



 その横顔が。


 匂いが。


 なんだか、弥平次さまにそっくりで。



 殿様と、弥平次さまは、全く違うのに・・・


 こんなに、違うのに・・・



 その優しさだけは、本当・・・驚くくらい、そっくりで・・・



 私は、それだけで胸が熱くなる。



 助けてくれた・・・


 殿様が、私を、助けてくれたんだ・・・



 そのことだけが、私・・・



「怪我は、ないか」



 殿様が私に尋ねる。

 私は、震えた声で「はい・・・」としおらしく答えて。


 本当は、ちゃんと殿様に受け答えしたいのに。


 ありがとうございますって、ちゃんと伝えたいのに。


 殿様に言いたいこと、たくさんあるのに。



 想いばかりが先走って、何も言えない・・・この口が、上手く動いてくれない。



 声は震えて。


 瞳は滲んで。



 殿様がとても、優しくて。



 殿様が、最後の縄を切る。


 ずっと私を強く縛っていた拘束が、するりと抜けて。


 緊張の糸も同時に切れたのか、私は急に全身の力が一気に抜けて。


 倒れそうになるところを、殿様が優しく私の身体を支える。



 そして、心配そうに私の顔を除きんで



「遅くなった」



 申し訳なさそうに、殿様は言った。



 全くだって・・・私は思って・・・



 もっと早く、助けに来てほしかったって・・・



 こんなにいっぱい、心配させて。


 こんな、怖い思いまでさせて。



 文句をたくさん、言ってやりたいはずなのに・・・



 言葉が上手く紡げない。


 ずっと抑えてきた恐怖心と。


 殿様が来てくれた、その嬉しさと。


 胸の奥から、喉の奥から、なんて形容していいかわからないぐらいぐちゃぐちゃの激情が溢れ出して。



「殿・・・様・・・」



 すっと、頬に涙の線が引かれる。


 ずっと我慢してたのに。


 どんなに怖い目にあったって、敵に弱いところを見せてやるもんかって、精一杯に強がって。



 なのに、殿様の顔を見た途端に、私は・・・



 止まらない。


 涙が、止まらない・・・



 本当は、怖かった・・・


 怖かった・・・



 自らが死んでしまうことよりも、何よりも。



 殿様が、この戦で死んでしまうんじゃないかって。


 弥平次さまのように、いなくなってしまうんじゃないかって。



 それが


 とても、とても・・・



 怖かったんだ・・・っ!!



「殿・・・っ、様・・・っ!!」



 私は、殿様に抱きついていた。


 殿様の胸に、顔を埋めて。



 延々と、泣き続けた。



 殿様の胸は、とても硬くて。


 頬に当たる血と泥の被った甲冑が、冷たくて。



 でも、そんなことも気にならないくらい、私は感情をむき出しにして。



 声を上げて、泣いた。



 殿様は、何も言わなかった。


 私の肩に、手を回して。


 泣き顔を隠すように、私の頭を優しく撫でて。



 殿様の優しさに、胸に巣食った恐怖心が氷解していく。


 


 不器用に、それでもそっと私を抱く殿様の腕に包まれたまま。


 ただただ、この想いの高ぶるままに。



 戦の後の稲生原。


 私は、殿様の胸の中で泣き続けていたんだ。



 


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