六十三話 『銭ノ力』 一五五六年・吉乃
「勘十郎様っ、兵の離散が止まりませんっ!!」
「何故だっ!! 何が起こっている!?」
信勝が、狼狽えながら大声を上げる。
伝令の報告に全く信じられないというような顔をして、辺り構わず怒鳴り散らしていた。
その様が、とても無様で。
「どういうことだっ!! あと一歩で信長を打ち取ることが出来るはずだろうっ!!」
負けている側の雑兵が、死を恐れて将の指示も聞かず逃げ出すのならまだわかる。
けど、信勝の軍勢は圧倒的に有利で、追い詰められているのは殿様の方で・・・
もう少しで、この戦に勝てる状況だった。
なのに、突如始まった味方の離散が信勝にとっては全くもって不可解で。
私は、鼻で笑ってやった。
「狼狽えちゃって、見苦しい・・・」
ふと呟いた私の言葉に、信勝の顔色が変わる。
目を吊り上げて、怒号の矛先を縛られた私に向ける。
「ちっ・・・何をしたっ、女ぁ!!」
その激昂した様があまりに可笑しくって、私はほくそ笑む。
何をしたのか、って・・・
ようやく気づいたんだ、この男は・・・
「決まりごとを、定めていたのよ」
布石はとっくに打たれていたんだ。
「もし、私に何かあればその決まりごとが尾張中に知らされるように手配されていた。生駒屋と川並衆、そして津島の会合衆によって、ね」
「小六、将右衛門!! “後のこと”は全て頼むね、二人とも・・・」
信勝の手勢に捕らえられたとき、私はお類と一緒にそのことも小六たちに託したんだ。
小六たちならきっと、私の策に気づいて動いてくれると思ったから。
「決まりごと、だと・・・」
「えぇ、そうよ。『津島の町は、織田信長さまに味方する。織田信長さまの敵となる者は武士も商人も百姓も、津島の商人は一切の商いを行わない』ってね」
尾張一の馬借屋、『生駒屋』の名を以て。
会合衆の長、津島の『筆頭商人』の名を以て。
商人の姫、『生駒吉乃』の名を以て。
私たちは尾張中にその知らせを出すことを、ずっと前から定めていたんだ。
「今頃、川並衆の無頼たちが戦場の兵卒たちに知らせて回ってるんじゃない」
信勝の顔色が、次第に青ざめていく。
その殿様に似た顔面が、歪んでいく。
足りない頭でも、事の事態には気づくらしくて。
けれど、それはもうすでに後の祭りで。
千七百の、信勝の手勢。
その大半は、この尾張で懸命に暮らす民衆だ。平時には畑仕事に精を出す百姓や、商人の荷物運びや手伝いをする下男、用心棒を行う野武士たち。
そしてそれは、みな殿様の楽市令によって豊かになった者たちで。
単純な話だ。
どれほど山で栗を採っても、どれほど川で魚を釣っても、私たち馬借が物を運ばなければ市場で物は売れない。
私たち商人が仲介を拒否すれば、百姓たちが商いをする術はない。
今まで楽市令によって得ていた百姓たちの新たな稼ぎは、途端に途絶えてしまうんだ。
みな、馬鹿じゃない。
わざわざ増えている稼ぎをふいにしてまで、殿様に歯向かう気なんて誰もない。
例え信勝が殿様を討ち倒して、新たな尾張になったとしても。
今までの実入りが減るのなら、誰も信勝の治世なんて望まない。
信勝の軍勢の雑兵たちは、当然戦意を失っていく。
士気が下がり、離反者が増え、軍勢は崩れていく。
私の、私たちの、狙い通りに。
「青二才が商人を舐めるな」
強気に笑みを浮かべて、信勝に啖呵を切ってやる。
私たち商人には力がある。
屈強な男にも、刀を抜いた侍にも負けない力。
武士の軍勢を、打ち崩す力。
銭の、力。
「この戦は私たちの勝ちだ、糞野郎」
私がそう言い捨てた、その瞬間、
「うぅおおおおぉぉっっ!!」
突然、虎が鳴いたような大きく低い雄叫びが稲生原に響き渡る。
本陣の幔幕の、向こうから。
稲生原の戦場の、その奥から。
身体が震え上がるような、とても迫力のある恐ろしい雄叫び。
怒り狂ったような、鬼の慟哭。
その声は・・・
「っ、殿・・・様・・・っ」
私は、思わず天に向けて顔を上げる。
雄大に浮かぶ白い雲が、大きく動く。
殿様の雄叫びと共に強い突風が、この稲生原の地に吹き荒れていたんだ。
「御報告っ!! 敵勢が息を吹き返し、徐々に我が勢を押し返しておりますっ!!」
「馬鹿を申すなっ!! 信長はもう虫の息なのだぞ、一気に押し潰せ!!」
「駄目ですっ!! 柴田隊美作隊双方、兵の離散を抑えきれず瓦解していきます!!」
「ちっ・・・何故だっ、何故だっ!?」
自らが陥った状況を受け入れられず、ただ信勝は見苦しく地団駄を踏むばかりで。
私は戦のことは全くわからないけれど。
流れ始めた濁流は、きっともう誰にも止められない。
「柴田権六様、軍勢を維持できずに敗走っ!!」
「稲生原中央が、敵に突破されましたっ!! 美作隊は総崩れっ、林美作守様・・・っ、お討ち死にでございます!!」
「信長本隊が、真っ直ぐこの本陣に向かっておりまする・・・っ!! 勘十郎様、早くお逃げを・・・っ!!」
「・・っ、くそっ・・・糞がぁっ!!」
信勝が、乱暴に床几を蹴り上げる。
その様さえも、まるで駄々をこねているようにしか見えなくて。
無様で。
倒れた床几と、はぁはぁと息を切らせながら目を吊り上げる信勝を、周りにいる武者は怪訝な目で見ていた。
とてもじゃないけど、今の信勝は一軍の大将には見えなくて。
窮地に立ったときこそ、きっと将の器が試される。
藤吉から聞いている。
殿様は美濃の戦の折、どんな逆境でも狼狽えなかったって。
味方を鼓舞して、撤退の采配を振るい、自ら殿軍として味方を逃がすため戦った。
けれど、この男は・・・
「この女を斬れっ!! 斬り殺せっ!!」
唾を飛ばしながら、声を荒げて叫んでいた。
もう、頭に血が上った信勝には戦のことも今の状況も何も見えていなくて。
ただ、私への私怨に取り憑かれて、哀れで、見苦しい・・・
「・・・どうした、何故命を聞かぬ!? 誰でもよい、その女を殺せっ!!」
狂ったように叫ぶ信勝に、家来の武者たちはただただ困惑の表情を浮かべていた。
誰も、信勝の命に従おうとはしない。私を殺そうとはしない。
縄で縛られた女商人を斬り殺しても、戦局は何も変わらない。
信長の軍勢が本陣に迫るこの危機的状況で、もっと他に下知すべきことがあるのではないか・・・
そんな、呆れにも似た戸惑いが、武者たちの間に広がっていく。
その時だった。
「・・・っ!!」
地揺れにも似た、騎馬の群れが駆ける音が本陣の外から聴こえてくる。
それは、まるで川の濁流のように轟々と大きくなっていく。こちらに、近づいてくる。
がんがんと絶え間なく、緊急を告げる銅鑼が鳴る。
それはもう、目の前まで来ていたんだ。
「っ、敵襲っっ!!」
幔幕の裏で、そのような叫び声が聞こえたとき、
ばさり、と幔幕が豪快に開かれる。
白い布地に描かれた木瓜紋が大きく歪んで。
・・・そこに、いたんだ。
黒い甲冑に、紗を引いた緋色の陣羽織を羽織って。
白く鈍く光る太刀を、その手にして。
自らの手勢、母衣衆の方々を引き連れて。
織田信長が、立っていたんだ。




