一言だけが、間に合った
ログインする前に、彼は前回のメモを開いた。
『足元範囲を見る。線の左右を見る。左右を決めたあと、少し大きく動く。迷ったら、次に確認する』
短い文が、画面の端に並んでいる。
書いたときは整理できた気がした。けれど、読み返すと、また別の不安が出てくる。少し大きく、とはどれくらいなのか。確認する、と決めても、いつ声を出せば邪魔にならないのか。
不安は消えていない。ただ、前よりは形があった。
何が怖いのか分からない、ではない。足りなかった距離を、次に足せるかどうか。彼が気にしているのは、そこだった。
レンはメモを閉じず、画面の隅に残したままゲームを起動した。
集合場所には、もう何人かの名前があった。
「こんばんはー」
「こんばんは」
「います」
「いますって生存確認みたいですね」
誰が誰に言ったのか、一瞬では追えない。けれど、前回ほど全部が自分に向いているようには見えなかった。
通話に入ると、ミナトの声が聞こえた。
「こんばんは。今日もよろしくお願いします」
「こんばんは。よろしくお願いします」
レンは少し遅れて返した。
「今日は前回の続きです。最初に確認した左右の処理と、移動距離をもう一度見ます」
全体に向ける、整った声だった。
「前回の確認点は、方向ではなく距離です」
セナが続ける。
「見る順番は変えなくていいです。足元、線、左右、移動距離。そのままで」
「今日は判断力持ってきたっす」
トウマの声が入った。
「落としたら拾います」
「落とす前提なんですね」
カイが少し笑ったように言う。レンは笑うタイミングが分からず、黙っていた。けれど、その沈黙は前より軽かった。自分が何かを言わなければいけない場面ではないと、分かったからかもしれない。
《継書の守人アルケウス》
第1形態「記録の門番」の前に立つ。
画面の中央で、守人は動かない。
開始の合図が入り、戦闘が始まった。
最初の動きは、前回より見えた。見る順番を決めていたからだ。
足元を見る。
線を見る。
左右を見る。
線が伸びる。
左。
そう判断した瞬間、彼は足を止めなかった。前回より、半歩ではなく、一歩ぶん大きく動く。
足元範囲が広がる。画面が光る。
「今の距離、いいですね」
セナの声が短く入った。
その一言で、レンはようやく息を吐いた。
「全体的によかったです。次も同じようにやってみましょう」
ミナトが続ける。
「はい」
レンは返事をした。声は小さかったが、届いたようだった。
成功した、とはまだ思えない。ただ、今の距離でいい。それだけが残った。
数回のやり直しを挟んでも、そこだけは少しずつ揃っていった。もちろん、全部がきれいに進むわけではない。誰かが別の攻撃に当たり、誰かが立ち位置を戻しそこねる。
「今のは見なかったことに」
トウマが言う。
「録画してます」
リリカがすぐ返した。
レンは、声を出さずに画面を見ていた。軽口に入る言葉はまだない。
それでいい、とも思った。
黙っていることと、何も見ていないことは同じではない。
また、線が出た。
レンは足元を見て、線の向きを見る。左ではない。今度は右だ。
判断して動く。
自分のキャラクターが範囲の端を抜ける。その横で、トウマのキャラクターが倒れた。
「あ」
トウマの声が漏れる。
「判断力、落としました?」
「今のはポケット破けてたっすね」
「縫ってきてください」
リリカの返しで、空気が少し軽くなる。
ミナトが状況を確認する前に、レンは画面を見直した。
トウマは、間違った方向へ行ったわけではなかった。線を見て、同じ側へ動いていた。ただ、最後の位置が少し内側だった。
前回、自分が倒れたときと似ている。
方向は合っている。
足りなかったのは、たぶん距離。
そこまで考えて、レンは黙った。
言っていいのか分からなかった。トウマのことを指摘するみたいになるかもしれない。セナが言ったほうが正確だろうし、ミナトがまとめたほうが角が立たない。
自分が言う必要はない。
そう思ったとき、画面の隅に残していたメモが目に入った。
『迷ったら、次に確認する』
正解を言うのではなく、確認する。レンは息を吸った。
「今の」
声が思ったより急に出た。
「方向は合ってたと思います。距離が、少し足りなかった……ように見えました」
言い終わってから、頬の奥が熱くなる。
やっぱり言わなければよかった、と一瞬思った。
けれど、セナがすぐに言った。
「合っています。方向は合っていました。足りなかったのは距離です」
ミナトも続ける。
「ありがとうございます。次は左右を決めたあと、少し大きめに動きましょう」
「レンさんに見られてたっすね」
トウマが明るく言う。
「見られて困る動きをしないでください」
リリカが即答した。
「正論が痛い……」
「痛いのは範囲に当たったからです」
レンは何も返せなかった。けれど、言葉が流されなかったことは分かった。
自分の声が、ほんの短い間だけ進行の中に置かれた。そのあと、必要な形に整えられて、次の確認になった。
それで十分だった。
次の挑戦で、同じ処理が来た。
レンは足元を見る。線を見る。左右を決める。少し大きく動く。
トウマも、今度は外側まで動いていた。
光が走る。
誰も倒れなかった。
「ここは揃ってきましたね」
ミナトの声に、少しだけ息が混じった。
「あー、うん。今の距離なら大丈夫そう」
その言い方は、整った進行の声から少しだけ外れていた。
けれど、すぐにミナトは戻る。
「今日の確認点として残します。次に進めるところまで見ましょう」
『左右判断後の移動距離は、前回より大きめ。方向判断は現状問題なし』
セナがチャットにメモを落とした。そこにレンの名前はない。レンが言った、という記録でもない。
それでも、彼はその一文をしばらく見ていた。
自分の言葉が、誰のものでもない確認事項になっている。
それは、褒められるよりも落ち着くことだった。
その後の進行は、特別うまくいったわけではない。別のところで崩れ、時間いっぱいまで何度かやり直した。けれど、左右の処理だけは、前回より少し安定していた。
「今日はここまでにします。左右処理は、前回より安定しています。次回はその先を見ます」
ミナトが最後に言った。
「おつかれさまでした」
レンは返した。前回より、少しだけ早く言えた。
「おつかれさまでした」
「おつっす」
「お疲れさまです」
「判断力は回収しておきます」
「次回までに洗って返すっす」
「洗うものなんですか、それ」
声が順に抜けていく。
レンは最後の数秒だけ残ってから、通話を切った。
部屋の静けさが戻ってくる。
前回と同じ静けさだった。けれど、画面の中に残っているものは違った。
レンは自分用メモを開いた。最初に書いた文は、そのまま残っている。
『足元範囲を見る。線の左右を見る。左右を決めたあと、少し大きく動く。迷ったら、次に確認する』
その下に、しばらく何も打てなかった。
今日、自分がうまくできたのかは分からない。声は少し上ずった。言い方も、たぶんきれいではなかった。
けれど、黙っていたら、ただ画面の中で消えていたものがある。
方向は合っている。
距離が足りない。
それは、誰かを責める言葉ではなかった。次に同じ場面が来たとき、少しだけ動きやすくするための言葉だった。
レンはキーボードに指を置いた。
『見えたことは、短く言う。正解じゃなくても、確認になる』
打ち終えてから、少し迷って、最後に一行だけ足した。
『言えなかったら、次に見る』
急に話せるようにはならない。
全部を言えるようにもならない。
それでも、今日の一言は、間に合った。
レンはメモを保存し、ゲーム画面に戻った。
広場には、まだ知らない名前がいくつも流れている。
その中に、自分の名前もあった。
前より少しだけ、見失いにくい場所に。




