シーズン・フィナーレ 落ちる前に、ひとつだけ
ログインする前に、彼はチームチャットを開いた。
昨日の終わりに流れていたやり取りが、まだ画面の中に残っている。読み返して、彼は少しだけ手を止めた。
自分の名前がある。
特別に呼ばれているわけではない。注意されているわけでも、褒められているわけでもない。ただ、次に確認する項目の中に、当然のように入っている。
嫌ではなかった。けれど、まだ慣れない。
自分がいないところで、自分が次もいる前提の話が進んでいる。そのことに、画面の前の彼だけが少し遅れている気がした。
参加します、と送ったわけではない。行けます、と答えたことはある。次も行けると思います、と言ったこともある。
それでも、そこに自分の名前が置かれていると、一度だけ見直してしまう。
本当に、自分が入っていていいのか。
その問いは、前より小さくなっていた。消えたわけではない。ただ、すぐに画面を閉じさせるほどの大きさではなかった。
彼はゲームを起動した。
ログイン画面の音が鳴る。
レンの名前が表示される。
いつもの街に立ったあと、彼は前回のメモをもう一度だけ開いた。
『足元範囲を見る。線の左右を見る。左右を決めたあと、少し大きく動く。迷ったら、次に確認する』
短い文だった。
これを見ればうまくいく、とは思わない。けれど、何を見るのかは分かる。
全部を見る必要はない。
まずは、足元。
次に、線。
最後に、距離。
それだけを、もう一度やる。
通話に入ると、すでに何人かの声があった。
「おつかれさまです」
彼が言うと、すぐにミナトが返した。
「おつかれさまです。今日も第1形態から、前回の確認を続けます」
声はいつもの整った調子だった。そのあとに、トウマの声が割り込む。
「今日は俺、気合を数値化してきました」
「数値化……?」
リリカがすぐに返した。
「気合は再現性が低いです」
セナの声が淡々と重なり、通話の中で笑いが起きる。
レンは、笑いには混ざらなかった。けれど、聞いていることはできた。
前は、その笑いの隙間に自分だけが置いていかれる気がした。今日は、少し外側から眺めている感覚に近かった。
外側ではある。
でも、遠くはない。
「レンさん、前回と同じ位置でお願いします」
「はい」
「線を見てから動くので大丈夫です。遅れた場合は、距離を少し多めに取る意識で」
「分かりました」
返事は短い。
それでよかった。
《継書の守人アルケウス》。
第1形態「記録の門番」は、変わらずそこにいた。
巨大な本のような装飾と、守護者のような輪郭。開かれたページの奥に、光が重なっている。何度見ても、何を見ればいいのか一瞬分からなくなる。
けれど、今日は最初から全部を見ようとはしなかった。
足元範囲。
線。
左右。
距離。
画面の中で、味方の位置が散っていく。
範囲が出る。
彼は足元を見た。
次に、線を見る。
左。
そう判断してから、前回より一歩だけ大きく動いた。
間に合った。
エフェクトが重なり、画面が一瞬白くなる。けれど、レンのHPは大きく削れていない。倒れてもいない。
「今の位置、問題ありません」
セナの声がすぐに入った。
「はい」
「少し遅れた場合も、その距離なら足ります」
その言葉を聞いて、彼はようやく息を吐いた。成功した、とはまだ思えなかった。ただ、今の距離なら足りる。それが分かった。
「うん、今の見え方で大丈夫」
ほんの少しだけ、進行の声がやわらいだ気がした。けれど、ミナトの声はすぐに元の調子に戻る。
「次も同じ基準で確認します。線を見てから、移動距離を取ってください」
「了解です」
「了解!」
「はーい」
次の試行では、レンの動きが少し遅れた。
範囲は見えていた。線も見た。左右も判断した。けれど、一歩目を踏み出すまでに、ほんのわずかに迷った。
今日は、距離を大きめに取った分だけ、ぎりぎりで残った。HPは減ったが、倒れてはいない。
「今のは一歩目が遅れています」
セナが言う。責める声ではなかった。事実だけが置かれる。
「はい」
「ただ、移動距離は足りています。次は一歩目を早く」
「分かりました」
彼は画面を見たまま返事をした。
失敗ではない。
成功でもない。
次に直す場所がある。
それを、今は聞けている。
「今の、俺なら死んでましたね」
トウマが言った。
「比較対象が悪い」
リリカが返す。
「ひどくない?」
「でも事実ではあります」
セナが続けた。
「セナさんまで!?」
「客観的評価です」
通話が少しゆるむ。
レンは、画面の中の位置をもう一度確認した。
さっきより少し早く動く。距離は、同じ。次の処理が来る。
足元範囲を見る。
線を見る。
左。
動く。
今度は、さっきより早かった。
「位置は問題ありません。全体として前回より安定しています」
セナが答える。
「わたしは前より見やすかった。線見てからで間に合う」
リリカが続く。
「俺は気合を抜いたらいけました」
「それは気合ではなく、余計な動きを減らしただけです」
「言い方!」
また少し笑いが起きる。
レンは、自分の位置を見た。
線の出た場所。
動いた距離。
言ってもいいことなのか、少し迷った。
けれど、聞かれたのは全体だった。自分だけが答えてはいけないわけではない。
彼は息を吸う。
「自分は、前回より見やすかったです」
声が、思ったより小さく出た。それでも……。
「線を見てからでも、間に合いました。距離も、今のほうが分かりやすいです」
言い終わってから、彼は少しだけ後悔した。
長かったかもしれない。
的外れだったかもしれない。
自分の感想を言っただけになっていないか。
しかし、セナがすぐに答えた。
「重要です。線を見てから間に合うなら、判断順はそのままでよさそうです」
「じゃあ、次も今の基準でいきます」
ミナトが進行に戻す。
「レンさんの位置は維持。全体も大きくは変えません」
「了解です」
彼は短く返した。
言葉が、浮かずに済んだ。
誰かを驚かせたわけでもない。
特別に褒められたわけでもない。
ただ、次の確認に入った。
それでよかった。
「レンさんの発言が、普通に攻略情報として処理されていますね」
カイが言った。リリカが笑う。
「カイ、それ言うと急に恥ずかしくなるやつ」
「では、記録から削除しておきます」
「削除しなくていいです」
ミナトが少しだけ笑いを含んだ声で言った。
「必要な記録なので」
その言い方は、整っていた。
けれど、ほんの少しだけ、いつもの進行よりやわらかかった。
練習は、そのあと少しだけ先へ進んだ。
新しい名前のついた何かが出たわけではない。知らない仕組みを急に越えたわけでもない。ただ、同じ処理で崩れる回数が減った。
誰かが倒れる。
立て直す。
もう一度やる。
次は少しだけ長く続く。
その繰り返しだった。
画面の中のアルケウスは、変わらず立ちはだかっている。
チームはまだ勝っていない。
けれど、前より同じ場所を見ている時間が長くなった。
「今日はここまでにしましょう」
ミナトが言った。
「最後、かなり安定していました。次回も第1形態の同じ確認から入って、続きの動きを見ます」
「了解です」
「おつかれさまでしたー」
「おつでした!」
「おつかれさまです」
レンも少し遅れて言った。
「おつかれさまでした」
通話の中に、練習後の空気が流れる。
誰かが次回の時間を確認している。トウマが今日の自分の気合いについてまだ何か言っていて、リリカがそれを雑に切っている。
いつもなら、ここで抜けていた。
おつかれさまでした、と言ったあと、余計な間が生まれる前に通話を切る。チャットも閉じる。ログアウトする。そうすれば、何か変なことを言わずに済む。
今日も、そうしてよかった。
誰も引き止めていない。残ってほしいと言われたわけでもない。
それでも彼は、すぐには通話を抜けなかった。
セナがチームチャットにメモを流している。
『本日の確認』
『足元範囲:大きな問題なし』
『線の左右:判断順は維持』
『移動距離:現在の基準で継続』
『遅れた場合:一歩目を早くする』
そこに、少し遅れて次の文が追加された。
『レンさん:現在位置で継続確認』
彼はその一行を見た。
それは評価ではなかった。
称賛でもなかった。
ただの確認事項だった。
けれど、だからこそ見ていられた。
自分がそこにいることが、特別な出来事ではなく、次に見る項目として置かれている。
トウマがチャットに書き込む。
『トウマ:気合で頑張る』
『それは解決になってない……』
リリカが返す。
『気合は大事では?』
『それだけでも困ります』
セナの文面は、通話と同じくらい容赦がない。
カイが続けた。
『今日の記録、前回よりだいぶ平和ですね』
『トウマが刺されてるけど』
『平和的な刺され方です』
『平和的……?』
画面の端で文字が流れていく。レンは、それを眺めていた。
返す言葉は、すぐには出てこない。
軽口に混ざるには、まだ少し遠い。
でも、見ているだけで息苦しいわけではなかった。
ミナトが次回予定を書き込む。
『次回も同じ時間で予定します』
『参加可否は、分かる範囲で大丈夫です』
『今日の位置確認は継続します』
彼はキーボードに指を置いた。
おつかれさまでした、だけならもう言った。ありがとうございました、でも間違いではない。
けれど、それだけだと、今日見えたものが何も残らない気がした。
長く書く必要はない。言えることだけでいい。
彼は一文を打った。
『次回も参加できます。今日の位置で、もう一度見ます』
送信してから、少しだけ画面を見つめた。
すぐにミナトが返す。
『ありがとうございます。次回も同じ位置で確認しましょう』
セナも続ける。
『問題ありません』
リリカから、少しだけ軽い文が来た。
『レンさん安定してきた。トウマも見習って』
『俺も安定して刺されてる』
『そこは安定しなくていい』
カイが最後に書いた。
『次回の記録も増えそうですね』
レンは、返信を打たなかった。
打たなくても、画面の中に自分の文は残っている。
それを見て、彼は通話の退出ボタンにカーソルを合わせた。
画面の中では、まだチームチャットが流れている。攻略の話と、どうでもいい軽口と、次回の予定が同じ場所に並んでいる。
自分が何かを言わなくても、その流れを少し見ていていい。
そう思った。
レンは、街の広場に立っていた。
周りには他のプレイヤーが行き交っている。名前が流れ、エフェクトが光り、誰かの募集が画面の端を通り過ぎていく。
その賑わいは、前と同じだった。
けれど、まったく同じではなかった。
自分の名前が、どこか一つの予定の中にある。
次に見る場所が、まだ残っている。
それを一緒に確認する人たちがいる。
彼は、ログアウトボタンに手を伸ばした。
けれど、すぐには押さなかった。




