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まだログアウトしない、私たちへ  作者: 汐見沢はるか
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8/8

シーズン・フィナーレ 落ちる前に、ひとつだけ

 ログインする前に、彼はチームチャットを開いた。


 昨日の終わりに流れていたやり取りが、まだ画面の中に残っている。読み返して、彼は少しだけ手を止めた。


 自分の名前がある。


 特別に呼ばれているわけではない。注意されているわけでも、褒められているわけでもない。ただ、次に確認する項目の中に、当然のように入っている。


 嫌ではなかった。けれど、まだ慣れない。


 自分がいないところで、自分が次もいる前提の話が進んでいる。そのことに、画面の前の彼だけが少し遅れている気がした。


 参加します、と送ったわけではない。行けます、と答えたことはある。次も行けると思います、と言ったこともある。


 それでも、そこに自分の名前が置かれていると、一度だけ見直してしまう。


 本当に、自分が入っていていいのか。


 その問いは、前より小さくなっていた。消えたわけではない。ただ、すぐに画面を閉じさせるほどの大きさではなかった。


 彼はゲームを起動した。


 ログイン画面の音が鳴る。


 レンの名前が表示される。


 いつもの街に立ったあと、彼は前回のメモをもう一度だけ開いた。


『足元範囲を見る。線の左右を見る。左右を決めたあと、少し大きく動く。迷ったら、次に確認する』


 短い文だった。


 これを見ればうまくいく、とは思わない。けれど、何を見るのかは分かる。


 全部を見る必要はない。

 まずは、足元。

 次に、線。

 最後に、距離。

 それだけを、もう一度やる。


 通話に入ると、すでに何人かの声があった。


「おつかれさまです」


 彼が言うと、すぐにミナトが返した。


「おつかれさまです。今日も第1形態から、前回の確認を続けます」


 声はいつもの整った調子だった。そのあとに、トウマの声が割り込む。


「今日は俺、気合を数値化してきました」

「数値化……?」


 リリカがすぐに返した。


「気合は再現性が低いです」


 セナの声が淡々と重なり、通話の中で笑いが起きる。


 レンは、笑いには混ざらなかった。けれど、聞いていることはできた。


 前は、その笑いの隙間に自分だけが置いていかれる気がした。今日は、少し外側から眺めている感覚に近かった。


 外側ではある。


 でも、遠くはない。


「レンさん、前回と同じ位置でお願いします」


「はい」


「線を見てから動くので大丈夫です。遅れた場合は、距離を少し多めに取る意識で」


「分かりました」


 返事は短い。


 それでよかった。


 《継書の守人アルケウス》。


 第1形態「記録の門番」は、変わらずそこにいた。


 巨大な本のような装飾と、守護者のような輪郭。開かれたページの奥に、光が重なっている。何度見ても、何を見ればいいのか一瞬分からなくなる。


 けれど、今日は最初から全部を見ようとはしなかった。


 足元範囲。


 線。


 左右。


 距離。


 画面の中で、味方の位置が散っていく。


 範囲が出る。


 彼は足元を見た。


 次に、線を見る。


 左。


 そう判断してから、前回より一歩だけ大きく動いた。


 間に合った。


 エフェクトが重なり、画面が一瞬白くなる。けれど、レンのHPは大きく削れていない。倒れてもいない。


「今の位置、問題ありません」


 セナの声がすぐに入った。


「はい」


「少し遅れた場合も、その距離なら足ります」


 その言葉を聞いて、彼はようやく息を吐いた。成功した、とはまだ思えなかった。ただ、今の距離なら足りる。それが分かった。


「うん、今の見え方で大丈夫」


 ほんの少しだけ、進行の声がやわらいだ気がした。けれど、ミナトの声はすぐに元の調子に戻る。


「次も同じ基準で確認します。線を見てから、移動距離を取ってください」

「了解です」

「了解!」

「はーい」


 次の試行では、レンの動きが少し遅れた。


 範囲は見えていた。線も見た。左右も判断した。けれど、一歩目を踏み出すまでに、ほんのわずかに迷った。


 今日は、距離を大きめに取った分だけ、ぎりぎりで残った。HPは減ったが、倒れてはいない。


「今のは一歩目が遅れています」


 セナが言う。責める声ではなかった。事実だけが置かれる。


「はい」


「ただ、移動距離は足りています。次は一歩目を早く」


「分かりました」


 彼は画面を見たまま返事をした。


 失敗ではない。

 成功でもない。

 次に直す場所がある。


 それを、今は聞けている。


「今の、俺なら死んでましたね」


 トウマが言った。


「比較対象が悪い」


 リリカが返す。


「ひどくない?」


「でも事実ではあります」


 セナが続けた。


「セナさんまで!?」


「客観的評価です」


 通話が少しゆるむ。


 レンは、画面の中の位置をもう一度確認した。


 さっきより少し早く動く。距離は、同じ。次の処理が来る。


 足元範囲を見る。

 線を見る。

 左。

 動く。


 今度は、さっきより早かった。


「位置は問題ありません。全体として前回より安定しています」


 セナが答える。


「わたしは前より見やすかった。線見てからで間に合う」


 リリカが続く。


「俺は気合を抜いたらいけました」


「それは気合ではなく、余計な動きを減らしただけです」


「言い方!」


 また少し笑いが起きる。


 レンは、自分の位置を見た。


 線の出た場所。

 動いた距離。


 言ってもいいことなのか、少し迷った。


 けれど、聞かれたのは全体だった。自分だけが答えてはいけないわけではない。


 彼は息を吸う。


「自分は、前回より見やすかったです」


 声が、思ったより小さく出た。それでも……。


「線を見てからでも、間に合いました。距離も、今のほうが分かりやすいです」


 言い終わってから、彼は少しだけ後悔した。


 長かったかもしれない。

 的外れだったかもしれない。

 自分の感想を言っただけになっていないか。


 しかし、セナがすぐに答えた。


「重要です。線を見てから間に合うなら、判断順はそのままでよさそうです」


「じゃあ、次も今の基準でいきます」


 ミナトが進行に戻す。


「レンさんの位置は維持。全体も大きくは変えません」


「了解です」


 彼は短く返した。


 言葉が、浮かずに済んだ。


 誰かを驚かせたわけでもない。

 特別に褒められたわけでもない。

 ただ、次の確認に入った。


 それでよかった。


「レンさんの発言が、普通に攻略情報として処理されていますね」


 カイが言った。リリカが笑う。


「カイ、それ言うと急に恥ずかしくなるやつ」


「では、記録から削除しておきます」


「削除しなくていいです」


 ミナトが少しだけ笑いを含んだ声で言った。


「必要な記録なので」


 その言い方は、整っていた。


 けれど、ほんの少しだけ、いつもの進行よりやわらかかった。


 練習は、そのあと少しだけ先へ進んだ。


 新しい名前のついた何かが出たわけではない。知らない仕組みを急に越えたわけでもない。ただ、同じ処理で崩れる回数が減った。


 誰かが倒れる。

 立て直す。

 もう一度やる。

 次は少しだけ長く続く。


 その繰り返しだった。


 画面の中のアルケウスは、変わらず立ちはだかっている。


 チームはまだ勝っていない。


 けれど、前より同じ場所を見ている時間が長くなった。


「今日はここまでにしましょう」


 ミナトが言った。


「最後、かなり安定していました。次回も第1形態の同じ確認から入って、続きの動きを見ます」


「了解です」


「おつかれさまでしたー」


「おつでした!」


「おつかれさまです」


 レンも少し遅れて言った。


「おつかれさまでした」


 通話の中に、練習後の空気が流れる。


 誰かが次回の時間を確認している。トウマが今日の自分の気合いについてまだ何か言っていて、リリカがそれを雑に切っている。


 いつもなら、ここで抜けていた。


 おつかれさまでした、と言ったあと、余計な間が生まれる前に通話を切る。チャットも閉じる。ログアウトする。そうすれば、何か変なことを言わずに済む。


 今日も、そうしてよかった。


 誰も引き止めていない。残ってほしいと言われたわけでもない。


 それでも彼は、すぐには通話を抜けなかった。


 セナがチームチャットにメモを流している。


『本日の確認』

『足元範囲:大きな問題なし』

『線の左右:判断順は維持』

『移動距離:現在の基準で継続』

『遅れた場合:一歩目を早くする』


 そこに、少し遅れて次の文が追加された。


『レンさん:現在位置で継続確認』


 彼はその一行を見た。


 それは評価ではなかった。

 称賛でもなかった。

 ただの確認事項だった。


 けれど、だからこそ見ていられた。


 自分がそこにいることが、特別な出来事ではなく、次に見る項目として置かれている。


 トウマがチャットに書き込む。


『トウマ:気合で頑張る』


『それは解決になってない……』


 リリカが返す。


『気合は大事では?』


『それだけでも困ります』


 セナの文面は、通話と同じくらい容赦がない。


 カイが続けた。


『今日の記録、前回よりだいぶ平和ですね』


『トウマが刺されてるけど』


『平和的な刺され方です』


『平和的……?』


 画面の端で文字が流れていく。レンは、それを眺めていた。


 返す言葉は、すぐには出てこない。

 軽口に混ざるには、まだ少し遠い。

 でも、見ているだけで息苦しいわけではなかった。


 ミナトが次回予定を書き込む。


『次回も同じ時間で予定します』

『参加可否は、分かる範囲で大丈夫です』

『今日の位置確認は継続します』


 彼はキーボードに指を置いた。


 おつかれさまでした、だけならもう言った。ありがとうございました、でも間違いではない。


 けれど、それだけだと、今日見えたものが何も残らない気がした。


 長く書く必要はない。言えることだけでいい。


 彼は一文を打った。


『次回も参加できます。今日の位置で、もう一度見ます』


 送信してから、少しだけ画面を見つめた。


 すぐにミナトが返す。


『ありがとうございます。次回も同じ位置で確認しましょう』


 セナも続ける。


『問題ありません』


 リリカから、少しだけ軽い文が来た。


『レンさん安定してきた。トウマも見習って』


『俺も安定して刺されてる』


『そこは安定しなくていい』


 カイが最後に書いた。


『次回の記録も増えそうですね』


 レンは、返信を打たなかった。


 打たなくても、画面の中に自分の文は残っている。


 それを見て、彼は通話の退出ボタンにカーソルを合わせた。


 画面の中では、まだチームチャットが流れている。攻略の話と、どうでもいい軽口と、次回の予定が同じ場所に並んでいる。


 自分が何かを言わなくても、その流れを少し見ていていい。


 そう思った。


 レンは、街の広場に立っていた。


 周りには他のプレイヤーが行き交っている。名前が流れ、エフェクトが光り、誰かの募集が画面の端を通り過ぎていく。


 その賑わいは、前と同じだった。


 けれど、まったく同じではなかった。


 自分の名前が、どこか一つの予定の中にある。

 次に見る場所が、まだ残っている。

 それを一緒に確認する人たちがいる。


 彼は、ログアウトボタンに手を伸ばした。


 けれど、すぐには押さなかった。

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