返事だけが、少し遅れる
21時31分。
集合時間までは、まだ三十分近くあった。それでも彼は、もうゲームにログインしていた。画面の中で、レンは街の端に立っている。今日は、その向こうに、これから声でつながる人たちがいる。
所持品を開く。回復薬はある。能力を上げる食事アイテムも、昨日のうちに買ってある。装備の耐久値も確認した。戦っている途中で壊れることはない。
準備は、ゲームの中では数字で分かる。問題は、表示されないもののほうだった。
昨日セナが貼ってくれたメモを、もう一度開く。
『最初は足元範囲。そのあと、線がついた人は左右。初回は、集合位置と左右だけ見ておけば大丈夫です』
短いのに、何度読んでも、頭の中で形が定まらなかった。動画も、最初の1分だけ見ればいいと言われていた。けれど彼は、その1分を十回近く見ている。戻して、止めて、また戻した。
見ているだけなら、分かるような気がした。でも、自分の画面で同じことが起きたとき、同じように動けるとは限らない。
チームチャットを開く。
トウマが「飯と薬、持った。えらい」と書き、リリカが「自画自賛…」と返している。
入力欄に「こんばんは」と打つ。少し眺めてから、消した。
21時47分。
ミナトの名前が表示された。
「みなさん、準備できたら通話のほうお願いします。レンさんも、聞こえるかだけ確認できれば大丈夫です」
通話に入るという操作だけは、自分で押さなければならない。部屋には、すでにセナとリリカが入っている。続いて、トウマ、カイの名前が増えた。
最後になった。
まだ時間前だ。そう思いながら、彼は入室ボタンを押した。
「こんばんは」
「こんばんは。聞こえています」
「レンさん、こちらの声は大丈夫ですか」
「あ、はい。聞こえます」
「では、今日は確認中心で進めます。崩れたら続けずに、一回仕切り直します」
セナが続けた。
「見るのは二つです。足元範囲と、線の位置。左と言ったら、画面の左で統一します」
セナの説明は、短く、迷いがなかった。
「こういうときのセナさん、説明が説明書なんだよな」
トウマが言った。
「分かりやすいなら問題ないと思いますけど?」
「いや、褒めてる。多分。」
「多分って…」
リリカが笑いまじりに止めた。
「俺の役割は?」
「転がる役」
「不名誉すぎる」
「実績あるじゃん」
確認そのものは雑ではなかった。ミナトは淡々と準備を進めていた。
「では、一回行きます」
画面の端に、ミナトからの招待が表示された。
「パーティに参加しますか」
彼は少し遅れて、承認を押した。画面の左側に、六人分の名前と体力が並ぶ。レンの名前も、実際のパーティ欄に入っていた。
突入確認の音が鳴る。彼は「はい」を押した。
暗転のあと、広い円形のフィールドに出た。
中央には「継書の守人アルケウス」と表示された細長い人型の敵が立っていた。顔は仮面のようで、周囲には頁のような光片が静かに浮いている。
動画では何度も見たはずなのに、自分のキャラクターの正面に立つと、名前より先に大きさだけが目に入った。
セナのメモには、第1形態、記録の門番、と書かれていた。最初に見るのは、足元範囲と、線の位置。
「まず中央です」
「レンさん、こっちで大丈夫です」
ミナトのキャラクターが少し動く。彼はその後ろについた。
戦闘が始まった。
足元に円が出る。彼は、画面の中央と足元を交互に見た。
「一回目、足元来ます」
地面が赤く光る。彼は外へ動いた。少し大きく避けすぎた気がしたが、足元に広がった範囲には触れなかった。
「大丈夫です」
セナの声で、指先の力が少し抜けた。
「次、線です。マークついた人、左右で」
レンの頭上に、光る印が出た。
「レンさん、左で大丈夫です」
左。その一語が、一瞬だけ宙に浮いた。
自分から見て左なのか。画面の左なのか。敵を正面に見たときの左なのか。
分かっているはずだった。さっきメモにもあった。動画でも見た。たぶん、画面左でいい。
それなのに、確認するより先に、他の人の動きを見てしまった。半拍遅れて、レンが動く。線が伸びる。地面が光る。避けたつもりの場所で、鏡の破片のような光が弾けた。
レンの体力が、一瞬で消えた。
画面の中で、レンが膝をつく。
「レンさん、今の惜しい。ちょっと近かった」
「すみません」
「一回仕切り直します。今の位置だけ確認しましょう」
ミナトが言った。戦闘が最初に戻る。その直後、ミナトの声が少しだけ変わった。
「あー……あそこか、迷うよね」
いつもの整った言い方ではなかった。うっかり漏れた独り言のように聞こえた。それだけなのに、閉じていた扉が一枚だけ薄くなった気がした。
「出た。ミナトさんの素」
「今の素なんだ」
「じゃあ俺も普通にしゃべっていい?」
「最初から普通にしゃべってたのでは…?」
ミナトの声は、すぐにいつもの調子へ戻った。
「レンさん、左は画面基準で見てください」
「方向は合っていました。足りなかったのは距離です。次は一歩外で」
「俺ならそこから逆にも逃げる」
「やらないほうがいいやつ」
「参考にならない実例としては優秀です」
彼は、笑えばいいのか、もう一度謝ればいいのか分からなかった。ただ、必要なことだけを言われるほうが、何度も慰められるより息がしやすかった。
次に同じことが来る。また黙っていて、また遅れたら、同じになる。
「あの」
「はい」
「次も、左って、画面の左で……いいですか」
「はい。画面の左です」
セナが答えた。
「次、自分が先に動きます。レンさんは、それを見てからで大丈夫です」
もう一度、戦闘が始まる。敵が中央に戻る。足元に範囲が出る。外へ避ける。線がつく。
「レンさん、左です」
今度は、ミナトのキャラクターが先に動いた。彼はその後ろを見る。画面左。さっきより一歩外。範囲の端が伸びる前に、レンの足がそこへ入った。
鏡の破片のような光が外側で弾けた。今度は、レンに当たらなかった。
「今ので大丈夫です」
「基準合いました。次もそこです」
「今のはいいじゃん」
「レンさん、もう俺より上」
「比較対象を下げない」
彼は返事に迷った。褒められたのか、巻き込まれたのか分からない。
「ありがとうございます」
結局、それだけ言った。そのあと、何度か同じ動きを確認した。毎回うまくいったわけではない。集合が遅れて、セナに「戻るのが少し早いです」と言われた。それでも、最初に倒れた場所だけは、次から踏まなかった。
「今日はここまでにします」
ミナトが言ったのは、予定より少し早い時間だった。
「初回なので、無理に先へ進めません。次は、そのあとの集合から確認します」
「最初の線は、もう大丈夫そうですね」
「最初の山場は越えた感じ?」
「最初から山場って言わない」
「じゃあ、最初の段差」
「それはそれで低すぎる」
戦闘中の短い指示とは違う、終わったあとの間だった。彼は、終わったことにほっとしていた。同時に、終わったから抜けられる、とは思えなかった。
「レンさん」
ミナトに呼ばれて、彼は画面から目を上げた。
「はい」
「今日やってみて、難しそうなら早めに言ってください。続けられそうなら、次も同じ時間で考えています」
返事は、すぐには出なかった。
きつくなかった、と言えば嘘になる。左に動くのが遅れた。声を出す前に迷った。何度も、自分だけ反応が遅れている気がした。
けれど、嫌だったわけではない。間違えたら、直す場所を言われた。分からなければ、聞いたら答えが返ってきた。一回だけ、自分の足で正しい場所に立てた。
「次も」
彼は言った。
「行けると思います」
「了解です。では、次も同じ時間でお願いします」
ミナトの返事は、それだけだった。大げさな歓迎も、安心させるための長い言葉もなかった。ただ、予定がひとつ決まった。
通話を抜けると、部屋の中が急に静かになった。
ゲーム画面には、まだレンが立っている。チームチャットには、ミナトの短い連絡が流れていた。
「今日はここまでです。次回も同じ時間で考えています」
彼は、入力欄にカーソルを置いた。
「お疲れさまでした」
それだけ打って、送信する。
返事は、今日も少し遅れた。
動きも、声も、誰かより半歩遅かった。けれど、その半歩のあとに、すぐ次の言葉で埋められるわけではなかった。
レンは画面を閉じずに、次回の時間だけをもう一度見た。




