第9話 閉じられた記憶
悟志たちは、しばらく神殿の扉の前から動けなかった。
記憶の庭で見た光景が、まだ胸の奥に残っている。
小さな木の机。
赤ちゃんのような光体。
片言で話すピーコ。
淡い金色に光る、真面目なノア。
そして、黒く塗りつぶされていく記憶。
高原は石段に座り込み、両手で膝を押さえていた。
「今の……本当に記憶だったんですよね」
誰もすぐには答えられなかった。
悟志もまた、記憶の中のノアを思い返していた。
木の机の前に立ち、光体に結界を教えていた。
ピーコが割り込んできても、真面目に注意していた。
見た目は小さく可愛いのに、どこまでも先生らしかった。
あの光景を、自分は忘れていた。
いや、忘れていたというより。
「閉じられていた……」
悟志が呟くと、朋美が顔を上げた。
「私も、そう見えたわ」
真人も静かに頷いた。
「壊されたというより、読めないようにされていた。記憶の一部に、蓋をされたようだった」
ノアは黙っていた。
いつもより光が弱い。丸い体も少し小さく見える。耳もわずかに伏せられていた。
悟志はノアに声をかけた。
「ノア。あの黒い修正痕は、前にも見たことがあるのか」
ノアは少し考えてから答えた。
「同じものかは分かりません。ただ、似たものは何度か見たことがあります」
「いつ?」
「皆さまが、大事な記憶に近づこうとした時です」
神殿の中に、静かな緊張が広がった。
高原が小さく言う。
「じゃあ、僕たちが思い出そうとすると、あれが出るんですか」
「必ずではありません」
ノアは首を横に振った。
「でも、深い記憶ほど閉じられています。無理に開こうとすれば、修正痕が広がる可能性があります」
朋美は腕を組んだ。
「つまり、記憶の中にも、触れていい場所と、まだ触れてはいけない場所がある」
「おそらく」
真人が続けた。
「問題は、それが悪意で閉じられているのか、守るために閉じられているのかだな」
守るために閉じる。
その言葉に、悟志は反応した。
記憶のノアは、光体にそう教えていた。
守るというのは、相手の代わりにすべてを背負うことではない。
相手が自分の足で立てるように、そばにいること。
その言葉だけは、はっきり覚えている。
けれど、その後に何を教えようとしていたのかは思い出せない。
まるで、そこだけ黒い紙で覆われているようだった。
悟志は歯を食いしばった。
「都合が悪いな」
朋美が彼を見る。
「悟志?」
「思い出したいところほど閉じられている。だったら、俺たちは何を信じればいい」
ノアが小さく揺れた。
「ロキ様……」
「悪い。ノアを責めているわけじゃない」
悟志はすぐに言った。
「ただ、悔しいんだ。俺は、あの庭を覚えていたかった。光体のことも、ピーコのことも、君が教えていたことも」
ノアはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと悟志の前まで浮かんできた。
「ロキ様。全部を一度に思い出せなくても、消えたわけではありません」
「本当にそう言えるのか」
「はい」
ノアは小さな手を胸の前で握った。
「閉じられているだけなら、いつか開けることができます。壊れてしまったものとは違います」
その声は真面目だった。
少し厳しく、けれど奥に優しさがあった。
悟志は、少しだけ息を吐いた。
「そうだな。閉じられているなら、開ける方法を探せばいい」
「ただし、無理にこじ開けてはいけません」
ノアはすぐに言った。
「ロキ様は、すぐに力で何とかしようとします」
「まだ何もしてないだろ」
「しようとしていました」
「見てたのか」
「見ていました」
高原が小さく笑った。
その笑いで、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
だが、悟志の胸の奥に残る不安は消えなかった。
黒い修正痕。
あれは敵なのか。
仕組みなのか。
それとも、自分たちを守るためのものなのか。
何も分からない。
その時、神殿の中央に淡い青い光が浮かんだ。
水面に月明かりが映るような、静かな光だった。
ノアがすぐに振り返る。
「イリス様……?」
光は人の形を取らなかった。
ただ揺らぎながら、神殿の中央に留まっている。
そこから、声が響いた。
「記憶の奥に触れましたね」
悟志は光を見つめた。
「イリスか」
「はい。ただし、長くは話せません」
朋美が一歩前に出た。
「あの黒い修正痕は何? 誰が私たちの記憶を閉じているの?」
イリスの光がわずかに揺れた。
「今のあなた方に、すべてを話すことはできません」
「またそれ?」
朋美の声には、静かな怒りが混じっていた。
「危険だから言えない。まだ早いから言えない。そうやって大事なことを隠されたまま進めと言われても、納得できないわ」
イリスは沈黙した。
悟志は朋美を止めなかった。
彼自身も、同じことを思っていたからだ。
やがて、イリスは静かに言った。
「あなた方が怒るのは当然です」
朋美の表情が少しだけ変わる。
イリスは続けた。
「ですが、記憶には順序があります。閉じられた記憶を無理に開けば、あなた方自身が耐えられない可能性があります」
真人が尋ねた。
「精神的負荷の話か」
「それもあります。ですが、それだけではありません」
「では、何だ」
「記憶は、あなた方自身の存在と深く結びついています。急に戻れば、今の人格や日常との整合が崩れることがあります」
高原が不安げに言った。
「今の自分が、消えるってことですか」
「消えるわけではありません」
イリスの声は穏やかだった。
「けれど、今の自分と、忘れていた自分が衝突することはあります。だから、記憶は少しずつ触れる必要があります」
真人は慎重に頷いた。
「強すぎる記憶が、本人の心を守るために曖昧になることはある。それ自体は理解できる」
朋美はまだ納得しきれない顔だった。
「でも、あれは本人の防衛反応には見えなかった。意図的に塗りつぶされていた」
イリスの光が少し弱くなった。
「その通りです」
悟志は一歩前へ出た。
「なら、誰かがやっているんだな」
イリスはすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、悟志には分かった。
イリスは何かを知っている。
だが、言わない。
「また、今は言えないか」
「はい」
イリスは否定しなかった。
「ですが、一つだけ伝えます。あなた方が忘れていることには、理由があります」
神殿の空気が静かに沈んだ。
忘れていることには理由がある。
それは、ただ失われた記憶ではないということだった。
誰かが。
何かが。
理由を持って、閉じている。
高原が呟いた。
「じゃあ、思い出すことは悪いことなんですか」
「悪いことではありません」
イリスは答えた。
「ただ、急ぎすぎれば壊れます」
「何が壊れるんですか」
「記憶も。心も。日常も」
その言葉は、重かった。
悟志は現実世界の朝を思い出した。
妻の朋美。
セキセイインコのピーコ。
愛犬のベル。
研究所での日々。
何気ない会話。
コーヒーの香り。
それらは、悟志の大切な日常だった。
だが、その日常が、大きな真実の上に置かれているのだとしたら。
思い出すことは、日常を壊すことなのか。
ノアが小さく言った。
「イリス様。それでも、ロキ様たちは思い出さなければならないのですね」
「はい」
イリスは静かに答えた。
「閉じられたままでは、いずれ選ぶこともできなくなります」
悟志は眉をひそめた。
「選ぶ?」
「真実を知るか。知らずに生きるか。守るために隠すか。壊れても伝えるか。いつか、あなた方は選ばなければなりません」
その意味は、まだ分からなかった。
けれど、胸の奥に深く引っかかった。
真人が言った。
「今すぐ選ばせるつもりはない、ということだな」
「はい」
イリスは答えた。
「今は、記録してください」
「記録?」
朋美が聞き返す。
「記憶は薄れます。現実世界に戻れば、細部はさらに揺らぎます。ですが、記録し、互いに照合すれば、完全には失われません」
悟志は息を止めた。
現実世界に戻れば、薄れる。
やはりそうなのか。
幼い頃から彼が恐れてきた、忘れるということ。
それが今、自分たちの目の前に具体的な形で立っている。
敵かどうかは分からない。
だが、怖いことに変わりはなかった。
高原が慌てたように言った。
「僕、帰ったらすぐ書きます。時系列で。見たものも、聞いたことも、怖かったことも」
真人が頷く。
「感情も書いた方がいい。後から照合する手がかりになる」
朋美は冷静に言った。
「四人で照合しましょう。同じものを見たはずでも、覚えている部分が違うかもしれない」
高原は小さく頷いた。
「はい」
悟志はノアを見た。
「ノア」
「はい」
「俺は、また忘れるのか」
ノアの耳がわずかに伏せられた。
「細かいことは薄れるかもしれません。でも、完全には忘れません。少なくとも、今のロキ様は一人ではありません」
その言葉に、悟志の胸の奥が少しだけ温かくなった。
一人ではない。
朋美がいる。
真人がいる。
高原がいる。
ノアがいる。
そして、記憶の中には光体とピーコもいた。
忘れたくないものが、また増えてしまった。
悟志は苦笑した。
「困ったな」
朋美が尋ねる。
「何が?」
「忘れたくないものが多すぎる」
朋美は少しだけ笑った。
「なら、書くしかないわね」
「そうだな」
イリスの光がゆっくりと薄くなり始めた。
「現実世界への道を開きます」
神殿の中央に、水面のような光が広がる。
ノアが悟志の前にふわりと浮かんだ。
「ロキ様」
「何だ?」
「帰ったら、すぐに記録してください」
「分かってる」
「怠けてはいけません」
「分かってる」
「本当に分かっていますか?」
「疑いすぎだろ」
ノアは真面目な顔で言った。
「ロキ様だからです」
高原が小さく笑った。
朋美も口元を緩める。
悟志は肩をすくめた。
「分かった。戻ったら、すぐ書く」
ノアは少しだけ安心したように光を強めた。
「約束です」
「約束する」
悟志はそう言って、ノアを見つめた。
淡い金色に光る、小さな丸い精霊。
ぬいぐるみのような姿なのに、誰よりも真面目に自分を見守っている。
この存在を、二度と忘れたくない。
そう思った。
四人は水面のような光の前に立った。
悟志は最後にもう一度、神殿を見渡す。
白い柱。
巨大な樹。
記憶の間の扉。
こちらを見送るノア。
帰る場所。
その言葉が、胸の奥に残った。
「戻ろう」
悟志が言うと、朋美、真人、高原が頷いた。
四人は光の水面へ足を踏み入れた。
一瞬、世界が揺れる。
水の音。
遠ざかる神殿。
薄れていく光。
そして、ノアの声。
「また来てください、ロキ様」
次に目を開けた時、悟志たちは水鏡神社の池の前に立っていた。
夕日はすでに沈みかけていた。
鳥居の外からは、車の音が聞こえる。
街の匂いが戻っている。
土と木々の匂いも、今度ははっきり感じられた。
高原はすぐにスマートフォンを確認した。
「時間……ほとんど経っていません。向こうではかなり長く感じたのに、こっちでは十分も経ってないです」
真人は腕時計を見た。
「主観時間と現実時間が一致していない可能性があるな」
朋美はすぐに言った。
「それも記録しましょう」
悟志は池を見つめた。
水面はもう普通の池に戻っている。
夕暮れの空を静かに映しているだけだった。
けれど、悟志には分かった。
あの向こうに、ノアがいる。
自分が忘れていた場所がある。
そして、閉じられた記憶がある。
悟志は小さく呟いた。
「帰ったら、すぐ書く」
朋美が隣で頷いた。
「約束したものね」
「ああ」
悟志は胸の奥に残るノアの声を、何度も繰り返した。
また来てください、ロキ様。
その声だけは、まだ薄れていなかった。




