第10話 消えない記録
水鏡神社を出た後も、悟志たちはしばらく誰も話さなかった。
街の音は戻っていた。
車の走る音。
遠くの踏切の音。
歩道を行き交う人々の声。
どれも昨日までなら当たり前に聞こえていた日常の音だった。
けれど、今の悟志には、その日常が少しだけ薄く感じられた。
あの池の向こうに、別の場所があった。
白い石の神殿。
巨大な樹。
ロキと呼ばれた自分。
淡い金色に光る、ぬいぐるみのような小さな精霊。
木の机で光体に勉強を教えていたノア。
片言で「ピーコも、べんきょう」と言ったピーコ。
その全てを、確かに見た。
そう思っているのに、すでに細部が少しずつ揺らぎ始めていた。
木の机の上に描かれていた図は、どんな形だったか。
ノアは光体に何を説明しようとしていたのか。
黒く塗りつぶされた部分には、何があったのか。
思い出そうとすると、そこだけ霧がかかったように曖昧になる。
悟志は立ち止まり、思わず額に手を当てた。
「もう薄れてる……」
朋美が隣で彼を見た。
「悟志?」
「忘れたわけじゃない。でも、細かいところが掴めない」
真人が静かに言った。
「神殿で言われた通りだな。現実世界に戻ると、記憶の細部が揺らぐ」
高原は慌ててスマートフォンを取り出した。
「今、メモします。覚えているうちに」
彼は歩道の端に立ち、震える指で文字を打ち始めた。
悟志もスマートフォンを開いた。
だが、画面を見た瞬間、手が止まった。
何から書けばいいのか分からなかった。
見たものが多すぎる。
感じたことが多すぎる。
そして、失いたくないものが多すぎる。
朋美が静かに言った。
「家に帰ってから、全員で整理しましょう。今は断片だけでいい」
「断片?」
「忘れたくない言葉だけ先に残すの」
悟志は頷き、短く打った。
ノア。
木の机。
光体。
ピーコ。
守るとは、そばにいること。
黒い修正痕。
記憶は閉じられている。
そこまで書いて、少しだけ息が楽になった。
文字にすると、見たものが現実に引き止められる気がした。
神社を出る時、悟志はもう一度だけ池を振り返った。
水面は普通の池に戻っていた。
夕暮れの空を映し、木々の影を揺らしているだけだった。
そこに神殿はない。
ノアもいない。
光体もピーコも、木の机も見えない。
それでも悟志には分かっていた。
あの向こうに、確かに帰る場所がある。
その夜、悟志と朋美はリビングで記録を取った。
テーブルには、ノートパソコン、手書きのノート、スマートフォンが並んでいる。ベルはソファの足元で丸くなり、ピーコはかごの中で静かに羽をふくらませていた。
朋美は時刻を確認しながら、淡々と整理していく。
「水鏡神社到着が十七時四十二分。池の前でイリスと接触。そこから異世界へ移動。主観時間では一時間以上。でも現実世界では十分前後」
悟志はノートに書き込んだ。
ユグドラシル神殿。
ノア。
影との戦闘。
ロキ。
ミネルヴァ。
アスクレピオス。
イカロス。
記憶の庭。
光体。
ピーコ。
木の机。
黒い修正痕。
そこまで書いて、手が止まった。
黒い修正痕。
その言葉を書いた瞬間、胸の奥に嫌な感覚が残った。
敵に襲われた、という感じではない。
もっと静かだった。
もっと冷たかった。
何かが自分たちを攻撃したのではなく、見てはいけないものに蓋をした。
そう感じた。
朋美が気づいた。
「迷ってる?」
「ああ。あれを何と書けばいいのか分からない」
「今は見えた通りでいいと思う」
「黒い修正痕、か」
「ええ。少なくとも、影とは違った」
悟志は頷いた。
ノートに、さらに書き足す。
黒い修正痕。
記憶を壊すものではなく、閉じるものに見えた。
誰かが見せたくない部分を塗りつぶしているようだった。
書いている途中で、彼はふと不安になった。
「朋美、ノアが光体に言っていた言葉、覚えてるか」
朋美は少し考えた。
「守るというのは、相手の代わりに全てを背負うことではない。相手が自分の足で立てるように、そばにいること」
悟志は息を吐いた。
「よかった。同じだ」
「あなたも覚えていた?」
「ああ。でも、少し怖かった。俺の中だけで変わっていたらどうしようと思った」
朋美はノートに同じ言葉を書いた。
「だから照合するの。記憶は一人で持つより、複数で持った方が強くなる」
悟志は彼女の文字を見た。
同じ言葉が、別の筆跡で残っている。
それだけで、少し救われた気がした。
その時、ピーコがかごの中で小さく鳴いた。
「ピーコ?」
悟志が顔を上げる。
ピーコは首をかしげ、じっと悟志を見つめていた。
そして、片言で言った。
「ノア、まじめ」
悟志と朋美は固まった。
リビングの空気が、一瞬止まったように感じた。
「……今」
朋美が小さく言った。
「言ったな」
悟志はピーコを見つめた。
ピーコは何事もなかったかのように羽をふくらませている。
「ピーコ、もう一回言えるか?」
「ピーコ、いいこ!」
「そこは違うんだな」
悟志は思わず苦笑した。
けれど、その胸の奥には、温かい痛みが広がっていた。
ピーコも覚えている。
完全ではないかもしれない。
意味も分かっていないかもしれない。
それでも、あの庭の言葉が、現実世界のピーコの中に残っている。
朋美は静かに言った。
「記録に追加ね」
悟志は頷いた。
ノートには、新しい一行が加えられた。
ピーコが「ノア、まじめ」と発話。記憶の庭での発言と一致。
書けば書くほど、異常は現実になっていく。
だが、それでいいのだと悟志は思った。
目を逸らした方が、もっと怖い。
その後、真人と高原からも記録が送られてきた。
真人の記録は冷静だった。
影との戦闘時の身体反応。
高原の翼の発現。
記憶の庭での黒い修正痕。
現実世界に戻った後の疲労感。
各人の発言と精神的負荷。
高原の記録は、少し乱れていた。
怖かった。
でも、逃げたくなかった。
背中の翼が出た時、自分の体ではないみたいだった。
ノアさんが先生みたいだった。
ピーコが可愛かった。
黒く塗りつぶされたところが怖かった。
忘れたくない。
悟志はその最後の一文を見て、しばらく動けなかった。
忘れたくない。
それは、高原の言葉であり、悟志自身の言葉でもあった。
彼は自分のノートの最後に、ゆっくりと書いた。
忘れたとしても、ここに残す。
その文字を書き終えた時、ひどい眠気が押し寄せてきた。
身体が重い。
頭の奥が鈍く沈む。
まるで、記憶をこれ以上固定させまいとするように、意識が遠のいていく。
悟志は椅子の背にもたれた。
「まずいな……眠い」
朋美がすぐに顔を上げた。
「今日はもう休んだ方がいいわ」
「でも、まだ書ける」
「だめ。無理に続けると、記録そのものが雑になる」
「ノアみたいなことを言うな」
朋美は少し笑った。
「じゃあ、ノアさんは正しいのね」
悟志は言い返せなかった。
その時、ピーコがまた小さく鳴いた。
「ロキ、ねる!」
悟志は固まった。
朋美がとうとう笑った。
「ほら、ピーコにも言われてる」
「今のは偶然だ」
「そういうことにしておきましょう」
悟志はノートを閉じた。
閉じる直前、最後にもう一度だけ、書いた文字を見た。
ノア。
光体。
ピーコ。
黒い修正痕。
忘れたとしても、ここに残す。
それらの文字は、確かにそこにあった。
翌朝。
悟志は、いつもより早く目を覚ました。
カーテンの隙間から、淡い朝の光が差し込んでいる。東京の街はまだ完全には目覚めておらず、遠くで車の走る音だけが低く聞こえていた。
隣では、朋美が静かに眠っている。
悟志はゆっくりと起き上がった。
昨夜の記憶は残っていた。
水鏡神社。
神殿。
ノア。
木の机。
ピーコ。
だが、やはり細部は少し薄れている。
記憶の庭の光の色。
光体が揺れた時の細かな形。
木の板に描かれていた図。
黒く塗りつぶされた部分の輪郭。
いくつかは、もうはっきりとは思い出せなかった。
悟志は慌ててリビングへ向かった。
テーブルの上には、昨夜のノートが残っている。
ページを開く。
そこには、確かに文字があった。
守るというのは、相手の代わりに全てを背負うことではない。
相手が自分の足で立てるように、そばにいること。
悟志はその一文を読んだ。
読むと、ノアの声が少しだけ戻ってくる。
淡い金色に光る小さな姿。
真面目な表情。
少し怒ったような声。
完全ではない。
けれど、消えてはいない。
「よかった……」
悟志は小さく呟いた。
その声に反応したのか、ピーコがかごの中で目を開けた。
「ピーコ、おはよ!」
「おはよう、ピーコ」
悟志が声をかけると、ピーコは羽をふくらませた。
「ノア、まじめ!」
悟志は少し笑った。
「そうだな。ノアは真面目だ」
その時、朋美が寝室から出てきた。
「朝からピーコと話してるの?」
「記憶確認だ」
「研究者らしい言い訳ね」
朋美は微笑みながら、テーブルのノートを見た。
「覚えていた?」
「全部じゃない。でも、ノートを読むと思い出せる」
「なら、記録は役に立ってるわね」
「ああ」
悟志はノートを閉じた。
それから、鞄に入れる。
朋美が尋ねた。
「持っていくの?」
「研究所で、真人と高原の記録と照合する」
「分かった」
彼女は少し考えてから言った。
「悟志」
「何だ?」
「忘れることばかり怖がらないで。残っているものもあるわ」
悟志は彼女を見た。
朋美は静かに続けた。
「ノアさんの言葉。ピーコの発話。あなたが忘れたくないと思っていること。それは、ちゃんと残っている」
悟志はゆっくり頷いた。
「そうだな」
完全に思い出すことは、まだできない。
けれど、完全に失ったわけでもない。
それが分かっただけでも、昨日よりは前に進んでいる気がした。
研究所に着くと、高原はすでに研究室にいた。
目の下に薄い隈がある。
机の上には、丁寧に整理されたノートが置かれていた。
「高原、寝たのか?」
「少しだけです。でも、記録は取りました」
「見せてくれ」
高原はノートを差し出した。
そこには、彼が見たものが時系列でまとめられていた。
影との戦闘。
自分の翼。
記憶の庭。
ノアの授業。
ピーコの発言。
黒い修正痕。
現実に戻った後、記憶が少し薄れたこと。
悟志はページをめくりながら言った。
「よく書けている」
高原は少し照れたように目を伏せた。
「忘れたくなかったので」
その言葉に、悟志は静かに頷いた。
「その感覚は大事だ」
その後、朋美と真人も研究室に合流した。
四人はそれぞれの記録を机に並べ、昨日の出来事を最初から照合することにした。
高原はモニターを指差した。
「先生、昨日のログを整理していたら、少し気になるものがありました」
悟志は顔を上げた。
「何だ」
「異常というほどではありません。ただ、水鏡神社にいた時間帯の研究室ログに、識別不能の空白が二つ残っています」
「空白?」
「はい。何かが記録された形跡はあるんですが、内容が読めません。削除されたというより、最初から読めないように伏せられている感じです」
悟志の胸が少し冷たくなった。
黒い修正痕。
記憶の庭で見たものと、似ている。
高原は慎重に続けた。
「その空白の横に、短い文字列だけ残っています」
モニターに、二つの表示が出た。
GAIA
URANUS
悟志はその文字を見つめた。
意味は分からない。
ただ、神話の名であることだけは分かった。
高原が不安そうに言った。
「これ、どう扱えばいいんでしょうか」
悟志はすぐには答えなかった。
異世界での記憶。
現実世界で薄れていく記録。
黒い修正痕。
そして、読めない空白の横に残された二つの名。
すべてがつながっているのかもしれない。
だが、まだ決めつけるべきではない。
「記録する」
悟志は言った。
「今はそれだけだ」
「調べないんですか?」
「調べる。ただし、焦らない。名前だけで誰かに結びつけるのは危険だ」
高原は頷いた。
「分かりました」
悟志はノートを開き、新しいページに書いた。
識別不能の空白。
GAIA。
URANUS。
意味不明。断定しない。
ペンを置いた時、悟志はふとノアの声を思い出した。
怠けてはいけません。
「分かってるよ」
高原が顔を上げた。
「先生?」
「いや、何でもない」
悟志はモニターの文字を見つめた。
記憶は閉じられている。
だが、完全に消えてはいない。
黒く塗りつぶされた向こう側に、まだ何かが残っている。
それを無理にこじ開けることはできない。
けれど、記録し続けることはできる。
悟志は静かに息を吸った。
「高原。今日から記録を分ける」
「分ける?」
「見た事実。感じたこと。まだ分からない解釈。この三つだ」
高原はすぐにノートを開いた。
「分かりました」
悟志はホワイトボードの前に立った。
そして、三つの欄を作る。
観測された事実。
各自の体験。
未確認の解釈。
その最初の行に、彼はこう書いた。
忘れたくないものほど、先に薄れていく。
書いた瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
だが、目を逸らさなかった。
これは、彼らの戦いではない。
少なくとも、まだ戦いと呼ぶには早い。
これは、忘れないための記録だった。
高原はさらにログを拡大した。
「先生、もう一つあります」
「何だ」
「GAIAとURANUSの空白ログですが、研究室の過去共同研究者リストにも、同じ時刻の参照痕跡が残っています」
悟志は顔を上げた。
「参照痕跡?」
「はい。誰かが開いた記録ではありません。通常のアクセス履歴もありません。ただ、空白ログが残った時刻に、二つの名前だけが一瞬、索引に引っかかったような形になっています」
高原は画面を切り替えた。
そこに表示された名前を見て、悟志は息を止めた。
森野美砂。
森野宙。
朋美が小さく眉を寄せる。
「森野夫妻……」
悟志はすぐには答えなかった。
森野美砂は、生物学者だった。
森野宙は、宇宙物理学者だった。
大地を思わせる名。
空を思わせる名。
GAIA。
URANUS。
神話の名と、現実に生きる二人の研究者の名が、同じ空白の周囲に並んでいる。
だが、それでも断定はできなかった。
「名前が出たからといって、二人が関係しているとは限らない」
悟志は慎重に言った。
「でも、無視もできませんよね」
高原が言う。
「ああ」
悟志は画面を見つめた。
「こちらから異世界の話はしない。まず、昨夜から今朝にかけて、変わった夢や違和感がなかったか。それだけ確認する」
朋美が頷いた。
「それなら押しつけにはならないわ」
真人も静かに言った。
「確認の範囲を限定するなら、妥当です」
悟志はノートに書き加えた。
GAIA。
URANUS。
森野美砂。
森野宙。
ただし断定しない。
まず夢と違和感の有無だけ確認する。
ペンを置いた時、胸の奥にノアの声がよみがえった。
無理にこじ開けてはいけません。
悟志は小さく頷いた。
「分かってる。今回は、確認だけだ」




