第11話 根と空の夢
森野美砂は、朝の光で目を覚ました。
いつもと同じ寝室だった。
薄いカーテン越しに、やわらかな光が差し込んでいる。隣では、夫の森野宙がまだ横になっていた。外からは、遠くを走る車の音がかすかに聞こえる。
何も変わっていない朝のはずだった。
それなのに、美砂はすぐに起き上がることができなかった。
夢の感触が、胸の奥に残っていた。
夢の中で、美砂は巨大な樹の前に立っていた。
根は大地の奥深くへ伸びていた。けれど、その先は土の中だけに留まっていないように見えた。無数の根が光の中へほどけ、どこまでも広がっていく。
それは植物の根でありながら、命そのものの網のようでもあった。
その奥から、誰かが自分を呼んだ。
ガイア。
聞き慣れた名前ではない。
少なくとも、美砂自身の名前ではなかった。
それなのに、その名を呼ばれた瞬間、胸の奥が締めつけられた。
懐かしい。
怖い。
思い出したい。
思い出したくない。
その二つの感情が、目覚めた後も消えなかった。
「……変な夢」
美砂が小さく呟くと、隣で宙が目を開けた。
「起きていたのか」
「今、起きたところ」
宙は美砂の顔を見て、少し眉をひそめた。
「顔色が悪い」
「あなたもよ」
そう言われて、宙は口を閉じた。
普段の宙なら、夢に意味を持たせすぎることを嫌う。夢は脳が記憶を整理する過程で生じる現象であり、そこに安易な解釈を与えるべきではない。そういう人だった。
けれど、その朝の宙は違っていた。
何かを言おうとして、ためらっているように見えた。
美砂は先に尋ねた。
「あなたも、夢を見たの?」
宙は少しだけ黙った。
それから、静かに答えた。
「知らない空の下にいた」
「知らない空?」
「ああ。見たことのない空だった。だが、なぜか初めてではない気がした」
宙は起き上がり、額に手を当てた。
「細部はもう曖昧だ。ただ、空を見上げた時の感覚だけが残っている。あれを私は知っている。そう感じた」
美砂の胸がざわついた。
「私も、巨大な樹の夢を見たの。根がどこまでも広がっていて……誰かに名前を呼ばれた」
宙の表情が変わった。
「名前?」
美砂は迷った。
口にしてしまえば、夢がただの夢ではなくなる気がした。
だが、黙っていることもできなかった。
「ガイア」
部屋の空気が静かになった。
宙は、美砂を見つめたまま動かなかった。
そして、低く言った。
「私は……ウラノスと呼ばれた」
今度は美砂が言葉を失った。
ガイア。
ウラノス。
神話の名として聞いたことはある。だが、自分たちに関係があるとは思えない。
思えないはずだった。
「偶然……よね」
美砂が言うと、宙はすぐには答えなかった。
「偶然と考えることはできる」
「科学者らしい言い方」
「科学者だから、簡単に意味を与えたくない」
「私も、意味を与えたいわけじゃないわ」
美砂の声が少しだけ震えた。
「でも、夢から覚めたのに、まだ呼ばれた感覚が残っているの」
宙は静かに頷いた。
「私もだ」
二人はしばらく黙っていた。
寝室はいつも通りだった。カーテンも、ベッドも、時計も、壁に掛けた上着も、何も変わっていない。
変わっていないからこそ、夢だけが異物のように残っていた。
朝食の後、宙のスマートフォンが震えた。
画面には、小泉悟志の名前が表示されていた。
宙は眉をひそめた。
「小泉さんからだ」
美砂の手が止まった。
「こんな朝に?」
「珍しい」
小泉悟志は、同じ研究機関に所属する研究者だった。専門は違うが、会議や共同研究の場で顔を合わせることは少なくない。
だが、朝に私用の連絡が来ることは、ほとんどなかった。
宙は通話に出た。
「森野です」
電話の向こうから、悟志の声が聞こえた。
「森野さん、急にすみません。今、少し話せますか」
声は落ち着いていた。
だが、ひどく慎重だった。
宙は美砂を見た。
「美砂もいます。スピーカーにします」
スマートフォンがテーブルに置かれ、悟志の声が部屋に響いた。
「最初に言っておきます。奇妙な話を信じてほしいわけではありません。ただ、確認したいことがあります」
宙の表情が硬くなる。
「確認したいこと?」
「はい。こちらから名前は言いません。もし昨夜から今朝にかけて、変わった夢を見たなら、その内容だけを聞かせてください」
美砂は息を止めた。
宙もすぐには答えなかった。
その沈黙で、悟志は何かを察したようだった。
「何か、ありましたね」
宙は慎重に言った。
「なぜ、それを聞くんですか」
悟志は少し間を置いた。
「昨夜、こちらで水鏡に関する記録を照合していた時、森野さんたちと関係するかもしれない識別反応が残りました。ただし、こちらの解釈を先に伝えると、記憶に影響する可能性があります。だから、先にそちらで見た夢を聞きたい」
宙は黙った。
その説明は奇妙だった。
だが、思い込みに飲まれた人間の言い方ではなかった。
美砂はテーブルの端を握り、ゆっくりと口を開いた。
「私は……ガイアと呼ばれました」
電話の向こうで、悟志が短く息を吸う気配がした。
宙も続けた。
「私は、ウラノスと呼ばれた」
沈黙が落ちた。
それは驚きだけではなかった。
何かがつながってしまったことへの、重い沈黙だった。
やがて、悟志は低く言った。
「こちらの記録に残っていた識別名と一致します」
宙の顔から、血の気が引いたように見えた。
「識別名?」
「GAIA。URANUS」
美砂は椅子の背を握った。
悟志は続けた。
「それだけなら、すぐに連絡するつもりはありませんでした。けれど、同じ時刻の記録に、二人の名前だけが参照されたような反応も残っていました」
「二人の名前?」
「森野美砂。森野宙」
美砂は宙を見た。
宙も美砂を見ていた。
悟志の声は、あくまで慎重だった。
「もちろん、それだけで何かを断定するつもりはありません。だから、まず夢や違和感の有無だけ確認したかった」
宙は低く言った。
「小泉さん。正直に言うと、かなり危うい話に聞こえます」
「分かっています」
「あなたたちが、何かの思い込みに巻き込まれている可能性もあります」
「それも否定しません」
悟志の声は静かだった。
「だからこそ、記録を分けています。見た事実。感じたこと。まだ分からない解釈。この三つに」
宙は少し黙った。
美砂にも分かった。
悟志は、信じろと言っているのではない。
信じる前に、記録しようとしている。
「できれば会って、互いの記録を照合したい。無理に何かを信じる必要はありません。夢の内容だけでも残してほしい」
宙は美砂を見た。
美砂は小さく頷いた。
怖い。
けれど、知らないふりをする方がもっと怖かった。
「会いましょう」
宙は言った。
「ただし、私たちはまだ、あなたたちの話を受け入れるわけではありません」
「分かっています」
悟志は答えた。
「確認だけです」
電話を切った後、美砂と宙は、互いの夢をそれぞれノートに書き留めた。
忘れないためだった。
そして、意味を急いで決めないためでもあった。
午後、二人は同じ研究機関内にある悟志の研究室を訪れた。
会議室には、悟志、朋美、松田真人、高原彗がいた。机の上にはノート、端末、印刷されたログ、ホワイトボードの写しが並んでいる。
美砂は少し身構えながら椅子に座った。
宙は座る前に言った。
「最初に確認します。私たちは、あなたたちの話を信じに来たわけではありません」
悟志は頷いた。
「分かっています。今日は、互いの記録を照合するだけです」
真人が穏やかに続けた。
「気分が悪くなったり、話を止めたくなったりしたら、すぐに言ってください」
その言葉で、美砂は少しだけ息がしやすくなった。
悟志はモニターに二つの表示を出した。
GAIA。
URANUS。
その文字を見た瞬間、美砂の胸が小さく震えた。
宙も表情を変えた。
悟志は説明を続けた。
「この二つは、こちらの記録に残った識別名です。ただし、意味は分かっていません。誰を指すのかも、まだ断定しない方針です」
高原が端末を操作し、別の画面を表示した。
そこには、識別不能のログと、その周囲に残った参照痕跡が表示されていた。
森野美砂。
森野宙。
高原は緊張した声で説明した。
「通常のアクセス履歴ではありません。誰かが二人の名前を検索した形跡もありません。ただ、識別反応が残った時刻に、共同研究者リストの索引上で、この二つの名前だけが反応したように残っていました」
宙は画面を見つめた。
「反応したように、というのは曖昧ですね」
「はい。曖昧です」
高原は正直に答えた。
「だから断定はしていません」
美砂は静かに言った。
「私は、自分がガイアだとは思っていません」
悟志はすぐに頷いた。
「それでいいと思います」
「でも、その名前を聞くと、胸が苦しくなるんです」
言葉にした瞬間、美砂は自分の声が震えていることに気づいた。
朋美がやさしく言った。
「今の自分が否定されるわけではないと思います」
美砂は朋美を見た。
朋美は続けた。
「私も、ミネルヴァという名前を聞いた時、戸惑いました。でも、私は今も小泉朋美です。その上で、忘れていた何かがあるのかもしれない。今はそのくらいでいいと思っています」
真人も頷いた。
「記憶に関わる問題では、急いで結論を出すことが一番危険です」
宙は腕を組んだ。
「では、今日の目的は何ですか」
悟志は答えた。
「夢の内容を記録すること。名前を聞いた時の反応を確認すること。そして、今後もし似た夢や違和感があった場合に、互いに照合できるようにすること」
「それだけ?」
「それだけです」
宙は少し驚いたようだった。
異世界や神の話を聞かされ、何かを信じろと言われるのではないか。そう思っていた。
だが、悟志たちはそうしなかった。
高原がノートを開いた。
「森野さんたちの夢を、時系列で聞いてもいいですか? 無理のない範囲で」
宙は美砂を見た。
美砂は頷いた。
「私から話します」
彼女は夢の内容を話した。
巨大な樹。
どこまでも広がる根。
名前を呼ばれたこと。
懐かしさと怖さ。
自分の名前ではないと拒みたい気持ち。
続いて、宙が話した。
知らない空。
初めてではない感覚。
ウラノスという名前。
目覚めても残っていた違和感。
ただし、宙は慎重だった。
「私は、これを記憶だとはまだ認めていません」
悟志は頷いた。
「分かっています」
「夢です。現時点では、それ以上ではない」
「その記録で十分です」
その時、美砂は自分のノートに目を落とした。
朝、夢の内容を書いたページが開いている。
そこには、自分の字でこう書かれていた。
ガイア。
そして、その下に、書いた時にはなかったはずの一行が増えていた。
筆跡は、自分のものに見える。
だが、美砂には、それを書いた覚えがなかった。
根は、まだ目覚めない。
美砂は声を失った。
「これ……私、書いていません」
悟志たちの表情が変わる。
宙がすぐに自分のノートを開いた。
ウラノス。
その下に、短く一行。
筆跡は、宙自身のものに見えた。
だが、彼にはそれを書いた記憶がなかった。
空は、まだ応えない。
宙の表情が硬くなった。
「私の方にもあります」
高原がすぐに二人のノートを撮影し、時刻を記録した。
「紙のノートです。外部通信ではありません。追加された瞬間は見ていませんが、今この場で確認しました」
真人が静かに言った。
「全員、落ち着いてください。今は現象を記録するだけです」
美砂はノートを握りしめた。
根は、まだ目覚めない。
怖かった。
だが、影が現れたわけではない。
何かが襲ってきたわけでもない。
ただ、記録の中に一行だけ増えている。
その静けさが、かえって不気味だった。
宙は低く言った。
「これは、こちらの心理状態に反応している可能性があります」
悟志は頷いた。
「そうかもしれません。だから、今日はここまでにしましょう」
美砂は顔を上げた。
「ここまで?」
「はい。これ以上、名前に触れすぎない方がいい」
真人も頷いた。
「私も同意します。受け止める時間が必要です」
美砂は自分のノートを見た。
私はまだ、自分がガイアだとは認めない。
そう言った直後に、
根は、まだ目覚めない。
という一文が現れた。
まるで、その拒絶すら見透かされたようだった。
「小泉さん」
「はい」
「私はまだ、これを受け入れられません」
悟志は頷いた。
「当然です」
「でも、無視もできません」
「それも当然です」
美砂は少しだけ笑いそうになった。
何も解決していない。
だが、否定されないだけで、少しだけ息がしやすかった。
宙はノートを閉じた。
「今日の記録は持ち帰ります。追加された一文も、そのまま残します」
「お願いします」
悟志は言った。
「ただし、無理に意味を考えないでください。今は、記録だけで十分です」
会議室を出る時、美砂は一度だけ振り返った。
モニターには、まだ二つの名前が表示されていた。
GAIA。
URANUS。
その名前を自分のものだとは思えない。
思いたくもない。
それでも、胸の奥で何かが静かに目を覚まそうとしている。
その感覚だけは、否定できなかった。




