表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/24

第12話 閉じられていく記録

研究所を出た後、美砂と宙はしばらく何も話さなかった。


夕暮れの街は、いつも通りだった。


駅へ向かう人々。

スマートフォンを見ながら歩く学生。

スーパーの袋を下げた人。

信号が変わり、車が流れていく。


誰も、美砂たちが何を聞き、何を見てきたか知らない。


世界は何も変わっていない。


変わったのは、自分たちの内側だけだった。


電車に乗ると、美砂は窓に映る自分の顔を見た。


少し疲れていて、少し青ざめている。


けれど、そこに映っているのは、間違いなく森野美砂だった。


生物学を研究し、植物の生命のつながりを見つめてきた一人の研究者。

森野宙の妻。

今日の夕食に何を作るか考える、普通の人間。


ガイア。


その名前が、胸の奥で静かに揺れた。


美砂は唇を結んだ。


違う。


私は、森野美砂だ。


そう思った瞬間、隣に座る宙が静かに言った。


「無理に否定しようとしている顔だ」


美砂は窓から目を離した。


「あなたも同じ顔をしてる」


「そうかもしれない」


宙は手元のスマートフォンを見ていた。画面は消えている。だが、そこに表示されたわけでもない一文が、頭から離れなかった。


空は、まだ応えない。


美砂のノートには、こうあった。


根は、まだ目覚めない。


筆跡は、自分たちのものに見えた。

だが、書いた記憶がない。

追加された瞬間も見ていない。

ただ、自分たちの名前の下に、いつの間にか増えていた。


それだけだった。


それだけなのに、無視できなかった。


「ねえ、宙」


「何だ」


「私たち、巻き込まれたのかな」


宙はすぐには答えなかった。


電車の走る音が、規則正しく響いている。


やがて、彼は低く言った。


「巻き込まれた、と考えるにはまだ早い」


「じゃあ何?」


「説明できない情報の一致が起きている」


「あなた、本当にそういう言い方するのね」


「そう言わないと、怖くなる」


美砂は驚いて宙を見た。


宙は視線を膝の上に落としていた。


普段の彼は、分からないものに出会うと、言葉で囲い込もうとする。


仮説。

検証。

誤差。

再現性。


けれど今は、その言葉の外側に何かが残っている。


「宙も怖いの?」


「怖くないと言えば嘘になる」


「意外」


「私にも感情くらいある」


「知ってる」


美砂は少しだけ笑った。


けれど、その笑いは長く続かなかった。


「私は怖い」


彼女は正直に言った。


「ガイアなんて名前で呼ばれて、懐かしいと思ってしまう自分が怖い。自分の中に、自分の知らないものがあるみたいで」


宙は静かに頷いた。


「私も、ウラノスという名を受け入れたわけではない」


「でも、消えない」


「ああ」


二人はまた黙った。


家に着いても、いつものようには動けなかった。


美砂は鞄を置いたまま、しばらく玄関に立っていた。いつもなら着替えて、夕食の支度を始める。けれど今日は、キッチンへ向かう足が重かった。


宙が言った。


「今日は作らなくていい。何か買ってこよう」


「逃げてる?」


「少し」


美砂は小さく笑った。


「じゃあ、今日は逃げましょう」


「適切な一時撤退だ」


「言い換えただけね」


二人は近くの店で夕食を買い、向かい合って食べた。


テレビはつけなかった。


会話も少なかった。


けれど、完全な沈黙ではなかった。


食後、宙はノートを取り出した。


「記録しよう」


美砂は顔を上げた。


「今?」


「今。時間が経つと、夢の細部が変わるかもしれない」


「小泉さんたちみたい」


「彼らの方法は、少なくとも今の状況には適している」


「信じるの?」


「信じるのではなく、使える手順は使う」


美砂は小さく息を吐いた。


「分かった」


二人はテーブルにノートを広げた。


宙はページを三つに分けた。


見たこと。

感じたこと。

解釈しないこと。


美砂はその見出しを見て、少しだけ安心した。


特に、最後の欄が。


解釈しないこと。


その欄があるだけで、救われる気がした。


美砂はペンを持った。


見たこと。


夢の中で巨大な根を見た。

根は土の中だけでなく、光の中へも広がっているように感じた。

誰かに「ガイア」と呼ばれた。

研究所で、ノートに「根は、まだ目覚めない」という一文が確認された。

筆跡は自分のものに見えたが、書いた記憶はない。


感じたこと。


懐かしい。

怖い。

自分の名前ではないのに、胸が反応する。

その名を受け入れたくない。


そこまで書いて、手が止まった。


宙が気づいた。


「大丈夫か」


「うん」


美砂は少し迷ってから、最後の欄に書いた。


解釈しないこと。


私はまだ、自分がガイアだとは認めない。


書いた瞬間、少しだけ呼吸が楽になった。


宙も自分のノートに書いていた。


夢の中で知らない空を見た。

細部は曖昧。

ただし、初めてではない感覚が残った。

誰かに「ウラノス」と呼ばれた。

研究所で、ノートに「空は、まだ応えない」という一文が確認された。

筆跡は自分のものに見えたが、書いた記憶はない。

この夢を記憶とは断定しない。

私は森野宙である。


美砂はそれを見て言った。


「あなたらしい」


「悪いか」


「ううん。安心する」


宙はペンを置いた。


「名前が増えることと、今の名前が消えることは違うのかもしれない」


美砂は、その言葉をゆっくり受け止めた。


「どういう意味?」


「まだ分からない。ただ、私がウラノスという名を聞いたからといって、森野宙でなくなるわけではない。そう考えたい」


美砂は少しだけ笑った。


「それ、朋美さんが言っていたことに近いわね」


「悔しいが、今はその考え方が一番安定する」


「悔しいの?」


「自分で先に思いつきたかった」


美砂は、暗い気持ちの中で少しだけ笑えた。


その時、スマートフォンが震えた。


悟志からだった。


体調は大丈夫ですか。今日は無理に意味づけせず、記録だけで十分です。名前については、まだ結論を出さないでください。


美砂は文面を読んで、肩の力を抜いた。


「小泉さんから」


宙も自分のスマートフォンを確認した。


同じ内容が届いている。


「押しつけてこないのは助かるな」


「うん」


美砂は短く返信した。


体調は大丈夫です。まだ受け入れられません。でも、無視もしません。


少しして、悟志から返信が来た。


それで十分です。


美砂はその一文を見つめた。


十分。


何も分からない状態で、十分と言われることがあるのだと思った。


その夜、美砂はなかなか眠れなかった。


布団に入って目を閉じると、夢の中の根が浮かぶ。


巨大な根。

光の中へ広がる根。

その奥から、自分を呼ぶ声。


ガイア。


美砂は目を開けた。


いつもの天井が見える。


隣では宙が横になっている。眠っているのか、起きているのかは分からなかった。


美砂は小さく呟いた。


「私は、森野美砂」


少しして、隣から声がした。


「私は、森野宙」


美砂は驚いて横を向いた。


「起きてたの?」


「眠れない」


「同じね」


「同じだな」


暗い部屋の中で、二人はしばらく黙っていた。


名前を確認することが、こんなにも大事になる日が来るとは思わなかった。


美砂はもう一度、小さく言った。


「私は、森野美砂」


宙も続けた。


「私は、森野宙」


その声は、祈りのようでもあり、抵抗のようでもあった。


翌朝、美砂はいつもより早く目を覚ました。


夢は見た気がする。


だが、細部はすでに薄れていた。


巨大な根の感覚は残っている。

けれど、声の調子は思い出せない。


ガイアという名前だけが、胸の奥に残っている。


美砂はすぐにノートを開いた。


昨日書いた文字を読む。


読むと、夢の輪郭が少しだけ戻ってきた。


完全ではない。


でも、消えてはいない。


「記録って、本当に残るのね……」


その日の午前、美砂は自分の研究室に向かった。


温室に入ると、湿った土の匂いがした。


昨日と同じ植物が、同じ場所に並んでいる。


美砂はしばらく入口に立っていた。


植物に触れるのが、少し怖かった。


昨日までは、こんなことはなかった。


葉に触れることは、彼女にとって当たり前だった。植物の状態を確かめるための自然な動作だった。


けれど今は、その葉の向こうに、夢の根がつながっているような気がしてしまう。


「私は、森野美砂」


美砂は小さく言った。


それから、そっと一枚の葉に触れた。


何も起きなかった。


ただ、葉は少し冷たく、柔らかかった。


美砂はほっとした。


その安心が、少しだけ悔しかった。


彼女はノートを開き、書いた。


植物に触れた。

異常なし。

ただし、触れる前に不安があった。


その一文を書いた時、三つの欄の意味が、少し分かった気がした。


見たこと。

感じたこと。

解釈しないこと。


その三つを分けるだけで、恐怖は少しだけ扱いやすくなる。


同じ頃、宙も自分の研究室でノートを開いていた。


仕事用の資料を前にしていたが、しばらく手をつけられずにいた。


頭の中には、昨夜の夢が残っている。


知らない空。


だが、彼はそれを現実の空と結びつけようとはしなかった。


夢は夢として記録する。


今は、それ以上の意味を与えない。


宙はノートに書いた。


夢の空を、現実の研究対象と混同しない。

ただし、名前への反応は記録する。

私は森野宙である。


その文字を見て、少しだけ落ち着いた。


夕方、美砂と宙はそれぞれの記録を悟志へ送った。


その日の夜、悟志たちは研究室で森野夫妻の記録を読んでいた。


高原はホワイトボードに、新しい項目を書き足している。


観測された事実。


森野夫妻が同じ夜に夢を見る。

夢の中で別々の名を呼ばれる。

双方のメモに、書いた記憶のない一文が確認される。

筆跡は本人のものに見える。

外部から書き込まれた痕跡は確認されていない。


各自の体験。


美砂は根の夢。

宙は知らない空の夢。

二人とも名前を受け入れられない。

ただし無視もできない。


未確認の解釈。


GAIA、URANUSは記憶反応の可能性。

ただし断定しない。

現時点で現実世界への物理的異常は確認されていない。


高原は書き終えると、ペンを置いた。


「先生、やっぱり現実世界では大きな異常は起きていません」


悟志は頷いた。


「それでいい」


「それでいい、ですか?」


「ああ。現実がいきなり壊れ始めているわけじゃない。今起きているのは、記憶と記録の問題だ」


朋美が静かに言った。


「でも、その方が厄介かもしれないわね」


真人も頷く。


「目に見える敵なら対処しやすい。だが、記憶が薄れることや、名前への反応は本人の内側で起きる」


悟志はノートを開いた。


そこには、ノアの言葉が書いてある。


守るというのは、相手の代わりに全てを背負うことではない。

相手が自分の足で立てるように、そばにいること。


悟志はその言葉を見つめた。


森野夫妻に対して、自分たちがするべきことも同じなのかもしれない。


無理に記憶を開かせることではない。

信じさせることでもない。

ただ、記録を共有し、本人たちが立てるように、そばにいること。


悟志は静かに言った。


「俺たちは、答えを渡す側じゃない」


高原が顔を上げる。


「では、何をするんですか?」


「一緒に記録する」


朋美が微笑んだ。


「ノアさんの授業が効いているわね」


悟志は少し苦笑した。


「そうかもしれない」


そこで終われば、その日は静かに終わるはずだった。


森野夫妻の記録を整理したことで、悟志は自分たちの記録も見直す必要を感じていた。


しかし、帰宅後、悟志がノートを開いた時、異変に気づいた。


昨日書いたページの一部。


木の机の上に描かれていた図について書いた箇所が、空白になっていた。


インクが消えたわけではない。

紙が破れたわけでもない。


ただ、そこに何かを書いたという感覚だけが残り、文字そのものが最初から存在しなかったように抜け落ちていた。


悟志は息を止めた。


「朋美」


その声に、朋美がリビングへ来る。


「どうしたの?」


悟志はノートを見せた。


「ここに、昨日書いたはずなんだ」


「何を?」


「分からない。でも、書いたことは覚えている」


朋美はページを見つめた。


そこには、不自然な空白があった。


周囲の文章は残っている。


だが、その一行だけが、ぽっかり抜けている。


朋美は静かに言った。


「記憶の中で見た黒い修正痕と、似ている……?」


悟志は答えられなかった。


現実世界に影は出ていない。

何かが襲ってきたわけでもない。

部屋も、街も、日常も、何も壊れていない。


それなのに。


記録だけが、静かに閉じられ始めている。


悟志はノートの空白を見つめた。


忘れないために書いたはずのものが、欠けていく。


彼は拳を握った。


「それでも、書く」


朋美が彼を見た。


悟志はもう一度、ペンを取った。


空白の下に、新しく書き加える。


何を書いたかは思い出せない。

だが、ここに何かを書いた。

記録が閉じられるなら、閉じられたことも記録する。


ペン先が紙を走る音だけが、静かなリビングに響いた。


その夜、悟志は初めて理解した。


これは、思い出すためだけの記録ではない。


閉じられていくものを、閉じられたと残すための記録でもあるのだ。


悟志は空白のページを見つめたまま、静かに言った。


「次に戻る時は、無理に記憶を開けない」


朋美が彼を見る。


「じゃあ、何をするの?」


悟志は少し考えた。


記憶を追えば、また閉じられる。

名前を押しつければ、相手を壊すかもしれない。

分からないものを力で開けようとすれば、ノアとの約束を破ることになる。


だから、まずは準備が必要だった。


「自分たちが何をできるのかを確かめる」


朋美は静かに頷いた。


「力の確認ね」


「ああ。次に何か起きた時、何も分からないまま動くのは危険だ」


悟志はノートの最後に書いた。


次回、ユグドラシル神殿へ戻る。

目的は、閉じられた記憶の復元ではない。

力の反応確認。

撤退条件の設定。

ノアの判断には従う。


ペンを置くと、ピーコがかごの中で小さく鳴いた。


「ノア、まじめ」


悟志は苦笑した。


「分かってる。ちゃんと準備して行く」


朋美も少しだけ笑った。


その一文を最後に、悟志はノートを閉じた。


次に行くべき場所は決まっていた。


記憶の奥ではない。


まずは、約束の庭へ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ