第8話 記憶の庭
光が薄れていくと、悟志たちは神殿の中ではなく、広い庭に立っていた。
空は淡い金色に染まり、遠くには巨大な樹が見える。先ほどまでいた、ロキの神殿――ユグドラシル神殿の庭に似ていたが、どこか違っていた。
ここは、普通の場所ではない。
悟志はすぐにそう感じた。
「ここが、記憶の間なのか?」
悟志が呟くと、ノアが頷いた。
「はい。ただし、部屋ではありません。皆さまの記憶が、庭という形を取っているのです」
ノアは淡い金色の光をまとい、ふわりと浮いていた。
ぬいぐるみのように丸い体。小さな耳と手足。思わず抱き上げたくなるような姿なのに、その表情はいつも通り真面目だった。
朋美は周囲を見渡した。
「実際にあった出来事を、そのまま見ているの?」
「完全に同じではありません。記憶は時間とともに形を変えます。ここにあるのは、皆さまの中に残っている印象に近いものです」
真人が静かに言った。
「記憶そのものではなく、記憶の痕跡か」
「はい。そう考えるのが近いです」
高原は落ち着かない様子で、自分の背中を気にしていた。不完全な光の翼は、先ほどより薄くなっている。けれど、まだ完全には消えていなかった。
「ここで、何を見ることになるんでしょうか」
ノアは首を振った。
「私にも分かりません。記憶の間は、今の皆さまに必要な断片を見せます」
悟志は庭の奥を見た。
そこに、小さな木の机があった。
立派な机ではない。切り株を平らに削り、低く整えたような素朴な机だった。その周りには、小さな椅子がいくつか置かれている。
机の前に、淡い金色に光るノアが立っていた。
記憶の中のノアだった。
今のノアと同じように、丸く小さな姿をしている。けれど、その表情は今より少し柔らかかった。
ノアの前には、青白い光体がふわふわと浮いていた。
丸く、やわらかな光をまとった存在。まだ言葉を覚え始めたばかりなのか、何かを見るたびに小さく明滅している。
記憶のノアは、小さな手で木の板を指した。
「では、今日は結界の基本を復習します」
木の板には、丸と線が描かれていた。
「これは神殿です。そして、こちらが外から来る悪いものを防ぐ境界です」
光体がふわりと揺れた。
「きょうかい……?」
「はい。境界です。中にいる者を守るための線です」
「まもる?」
「そうです。守るというのは、相手の代わりに全てを背負うことではありません。相手が自分の足で立てるように、そばにいることです」
悟志は、その言葉に胸の奥をつかまれたような気がした。
守るということ。
それは、今の自分にも向けられている言葉のように聞こえた。
その時、庭の向こうから小さな羽音がした。
一羽のセキセイインコが飛んでくる。
「ピーコ……?」
悟志は思わず呟いた。
記憶の中のピーコは、現実世界のピーコと同じ姿をしていた。けれどこちらでは、羽の周りに小さな光をまとっている。
ピーコは木の机の端に降り立つと、胸を張って言った。
「ピーコも、べんきょう!」
記憶のノアは、真面目な顔でピーコを見た。
「いいですが、途中で騒いではいけません」
「ピーコ、しずか!」
そう言ったそばから、ピーコは木の板を覗き込み、くちばしで線をつつこうとした。
ノアが慌てて止める。
「ピーコ、触ってはいけません。まだ説明の途中です」
「ちょっとだけ!」
「ちょっとでも駄目です」
「ピーコ、つよい!」
「強さと慎重さは別です」
光体が小さく揺れた。
笑っているようだった。
ノアは小さくため息をついた。けれど、どこか嬉しそうでもあった。
「では、ピーコも一緒に聞いてください。結界は壊すためではなく、守るためにあります」
「まもる!」
「はい。覚えましたね」
「ノア、まじめ!」
ピーコが片言で言うと、ノアの耳がぴくりと動いた。
「真面目なのは大事なことです」
光体も真似るように揺れた。
「ノア、まじめ」
「光体まで言わなくていいです」
高原が小さく笑った。
「ノアさん、本当に先生みたいですね」
現在のノアは、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「教育の一環です」
朋美はやさしく言った。
「でも、いい光景ね」
悟志も同じことを思っていた。
戦いでも、使命でも、謎でもない。
神殿には、こんな日常があった。
ノアが光体に教え、ピーコがやって来て、片言で話す。きっとロキはどこかで怠けていて、ノアに叱られていたのだろう。
失われていたのは、世界の真実だけではなかった。
こんな穏やかな時間も、自分は忘れていた。
悟志は喉の奥が少し詰まるのを感じた。
「ノア」
「はい」
「この子たちのことも、俺は忘れていたんだな」
ノアは少し黙った。
「はい」
「そうか」
それ以上、悟志は言葉を続けられなかった。
記憶の中のノアは、木の板にもう一つ丸を描いた。
「これはロキ様です」
ピーコがすぐに反応した。
「ロキ、ねる!」
光体も揺れた。
「ロキ、ねる」
記憶のノアは、きっぱりと言った。
「よく寝ます」
悟志は思わず顔を覆った。
朋美が耐えきれずに笑った。
高原も肩を震わせている。
真人でさえ、少しだけ口元を緩めた。
記憶のノアは続ける。
「ですが、ロキ様は本当に大事な時には必ず起きます」
ピーコが首をかしげた。
「ほんと?」
「本当です」
光体が淡く光る。
「ロキ、まもる?」
ノアは小さく頷いた。
「はい。ロキ様は守る方です」
悟志は、その言葉を聞いて動けなくなった。
本当に自分は、そんな存在だったのか。
怠け者で、面倒くさがりで、それでも大事な時には動く。
ノアが信じていたロキ。
自分は、その期待に応えられるのだろうか。
その時、記憶の庭の奥に、白い石のベンチが現れた。
そこには、一人の男が横になっていた。黒と金の衣をまとい、顔に布をかけている。どう見ても、昼寝をしている姿だった。
記憶の中のロキだった。
ノアが木の机から顔を上げる。
「ロキ様!」
記憶のロキは動かない。
「ロキ様、起きてください。今日は神殿の結界確認をする日です」
記憶のロキは、布を顔にかけたまま片手だけを動かした。
「あと少しだけ」
「その“少しだけ”で、前回は半日過ぎました」
「今日は四半日くらいにしておく」
「短くしたつもりですか?」
悟志は固まった。
高原が小声で言った。
「先生……」
「言うな」
悟志は低く返した。
記憶のロキは、ようやく布を少しずらして片目を開けた。
「ノア、君は真面目すぎる。世界は多少ゆっくり回っても壊れない」
「世界は壊れなくても、周りの人が困ります」
「困ったら助ける」
「困る前に動いてください」
ノアは深くため息をついた。
滑稽なやり取りだった。
だが、悟志の胸には温かさと痛みが同時に広がっていた。
知らないはずなのに、懐かしい。
見たことがないはずなのに、身体の奥が覚えている。
記憶のロキは、ようやくベンチから起き上がった。髪を乱したまま、大きく伸びをする。
「分かった、分かった。ノアがそこまで言うなら働こう」
「私が言わないと働かないのが問題です」
「君がいるから、俺は怠けられるんだ」
「まったく褒め言葉になっていません」
記憶のノアは怒っているように見えた。
けれど、その目はどこか優しかった。
悟志は、隣にいる現在のノアを見た。
ノアは黙って、その光景を見つめていた。
「ノア」
悟志が声をかけると、ノアは少し遅れて振り返った。
「はい」
「昔の俺は、ずいぶん迷惑をかけていたんだな」
ノアは一瞬だけ考えた。
「はい」
「そこは否定しないのか」
「事実ですから」
悟志は苦笑した。
だが、ノアはすぐに続けた。
「でも、ロキ様は本当に大事な時には必ず立ち上がりました。だから皆、ロキ様を信じていたのです」
その言葉に、悟志は何も言えなくなった。
自分の知らない自分を、ノアは知っている。
それは怖かった。
けれど、少し嬉しくもあった。
その時、記憶の庭の光がふいに弱くなった。
木の机の上に描かれていた丸と線が、少しずつ滲み始める。
朋美が気づいた。
「待って。何か変よ」
真人も眉をひそめる。
「記憶が薄くなっている」
高原が木の机を見る。
「さっきまで、もっとはっきり描かれていましたよね」
悟志も見た。
木の板に描かれていた図の一部が、黒く塗りつぶされていた。
インクをこぼしたようではない。
まるで、そこだけ最初から読めないように修正されたかのようだった。
それは、神殿を襲った影とは違っていた。
影は外から押し寄せ、動いて、悟志たちを排除しようとした。
だがこれは違う。
襲ってこない。
ただ、意味だけを静かに閉じていく。
記憶のノアが光体に何かを説明している。
だが、その声が途中から聞こえなくなった。
口は動いている。
表情も見える。
けれど、肝心な言葉だけが聞こえない。
悟志は一歩前に出た。
「ノア、今、何を説明しているんだ?」
記憶のノアは答えようとした。
その瞬間、口元に黒い修正痕のようなものが走った。
声が消える。
言葉が消える。
意味だけが、黒く塗りつぶされる。
悟志の背筋に冷たいものが走った。
「何だ、これは……」
朋美の周囲に白銀の線が浮かぶ。
「記憶が壊れているんじゃない。見えないようにされている」
真人が低く言った。
「上書きというより、封鎖に近いな」
高原が震えた声で言う。
「誰かが、見せたくない部分を隠しているんですか?」
誰も答えられなかった。
ノアの表情が険しくなる。
「この記憶は、ここで欠けるはずではありません」
「ノアにも分からないのか」
「はい。ただ……」
ノアは、黒く塗りつぶされた木の板を見つめた。
「これは、外から襲ってくる影とは違います。もっと深い場所に、最初から組み込まれていたもののように感じます」
悟志の胸の奥がざわついた。
最初から組み込まれていた。
それはつまり、誰かがこの記憶に蓋をしたということなのか。
何のために。
誰が。
記憶の中のピーコが、黒く塗りつぶされた木の板を覗き込んだ。
「ここ、みえない」
光体も不安そうに揺れた。
「みえない……」
記憶のノアが、二人を守るように前へ出る。
その姿を見た瞬間、悟志は強く思った。
この日常を、失いたくない。
自分は忘れていた。
けれど、ノアは覚えていた。
光体も、ピーコも、あの木の机も、穏やかな庭の光も。
全部、あったはずなのだ。
悟志は黒い修正痕に向かって手を伸ばそうとした。
しかし、現在のノアが叫んだ。
「ロキ様、触れてはいけません!」
悟志は足を止めた。
「なぜだ」
「あれに触れれば、記憶の閉じられた部分に引き込まれます。今のロキ様では戻れなくなるかもしれません」
悟志は拳を握った。
「じゃあ、見ているだけなのか」
ノアは悔しそうに小さな手を握った。
「今は、戻るしかありません」
黒い修正痕は、ゆっくり広がっていく。
木の机。
記憶の中のノア。
光体。
ピーコ。
ロキの姿。
全部が少しずつ薄くなる。
消えるのではない。
閉じられていく。
悟志には、そう見えた。
朋美が言った。
「悟志、今は離れた方がいい。ここに留まるほど、私たちの記憶も曖昧になる」
真人も高原の肩を支えた。
「戻ろう。無理に開けるべきではない」
高原は悔しそうに唇を噛んだ。
「でも……せっかく見えたのに」
「だからこそだ」
真人は静かに言った。
「壊してしまえば、二度と見えないかもしれない」
ノアが両手を広げた。
淡い金色の光が悟志たちを包み込む。
「皆さま、戻ります!」
悟志は最後にもう一度、記憶の庭を見た。
木の机の前で、ノアが立っている。
光体が揺れている。
ピーコが机の端で羽を膨らませている。
記憶のロキは、どこか困ったように笑っていた。
その全てが、黒い修正痕の向こうへ閉じられていく。
悟志は手を伸ばした。
届かないと分かっていても、伸ばした。
最後に聞こえたのは、ピーコの片言だった。
「ノア、まじめ!」
そして、それに答えるノアの声。
「真面目なのは、大事なことです」
光が弾けた。
次に目を開けた時、悟志たちはユグドラシル神殿の扉の前に戻っていた。
高原は膝をつき、荒い息をしている。朋美も額に汗を浮かべていた。真人はすぐに全員の様子を確認し、ノアは光を弱めながらも空中に浮かんでいた。
悟志は右手を押さえた。
まだ、あの黒い修正痕が脳裏に焼きついている。
読もうとすると、黒く塗りつぶされる。
思い出そうとすると、形が崩れる。
「ノア」
悟志は低い声で言った。
「今の黒いものは何だ」
ノアはしばらく黙っていた。
やがて、首を横に振った。
「分かりません」
「敵なのか」
「それも分かりません。ただ、影とは違います。あれは襲ってきたのではなく、記憶を閉じていました」
朋美が静かに言った。
「つまり、誰かが私たちに見せたくないものがある」
真人が続ける。
「あるいは、見せられない理由がある」
悟志は拳を握った。
忘れていたのではない。
忘れさせられている。
その感覚だけが、胸の奥にはっきりと残っていた。




