第7話 忘れた力
影は、音もなく神殿へなだれ込んできた。
黒い煙のような輪郭が石畳の上を滑り、いくつもの獣の姿に分かれていく。目も口もない。ただ、そこにあるだけで空気を冷たくし、光を吸い込んでいくような存在だった。
高原が後ずさる。
「先生……あれ、本当に生き物なんですか?」
「分からない」
悟志は右手に集まる金色の光を見つめながら答えた。
光は不安定だった。雷のように弾けては消え、また手のひらに戻ってくる。握ろうとしても、指の間から逃げていく。
まるで、身体の使い方を忘れてしまった筋肉のようだった。
ノアが悟志の横に飛んできた。
「ロキ様、無理に形を決めようとしないでください」
「形を決めない?」
「ロキ様の力は、決まった武器ではありません。混沌の力は、その場に応じて形を変えます」
「そんな便利そうなもの、使い方を忘れてたら意味ないだろ」
「だから、思い出そうとしないでください」
「どういうことだ」
「感じてください。ロキ様は昔から、考えすぎると力が逃げます」
「研究者としては最悪の評価だな」
「戦う時は褒めています」
こんな状況なのに、ノアの真面目な返しに、悟志は一瞬だけ笑いそうになった。
その隙を狙うように、影の一体が跳んだ。
「悟志!」
朋美の声が響く。
悟志は反射的に右手を振った。
金色の光が弧を描き、影の身体をかすめる。影は大きく歪み、煙のように散った。だが完全には消えず、少し離れた場所で再び形を取り戻す。
「効いてはいる。でも浅い……!」
悟志は歯を食いしばった。
ノアが叫ぶ。
「中心を狙ってください! 影の中に、濃い部分があるはずです!」
「見えない!」
「見ようとするから見えないんです!」
「無茶を言うな!」
その時、朋美が一歩前に出た。
彼女の周囲に、白銀の光が浮かび上がる。無数の細い線が空中に広がり、影たちの動きをなぞるように交差していった。
ノアが短く言う。
「ミネルヴァ様は、力を撃つ方ではありません。構造を読む方です」
朋美は返事をしなかった。
ただ、目の前の影を見ていた。
初めて見る異世界。
初めて見る影。
初めて使う力。
それでも彼女は、目の前の現象を観察し、法則を探していた。
「悟志、右前方。三歩先」
「朋美?」
「あの影だけ、動きが遅れている。あなたの光が当たった瞬間、輪郭の一部が収縮した。たぶん、そこが中心よ」
「一点に絞ればいいのか」
「ええ。散らさないで。線にして」
悟志は頷いた。
影が再び跳びかかる。
悟志は右手の光を握り込もうとして、やめた。
槍にしようとしない。
剣にしようとしない。
手の中にある力を、ただ一本の線のように前へ伸ばす。
怖さはあった。
だが、朋美の声が道を示している。ノアがそばにいる。真人と高原も後ろにいる。
一人ではない。
悟志は踏み込んだ。
金色の光が細く鋭く伸び、影の中心を貫いた。
今度は、影がかすかな悲鳴のような音を立てて崩れた。黒い煙は空中でほどけ、石畳に落ちる前に消えた。
高原が息を呑む。
「倒した……」
ノアが小さく拳を握った。
「さすがです、ロキ様!」
「今のは朋美のおかげだ」
「でも、動いたのはロキ様です」
その言葉に、悟志は一瞬だけ黙った。
昔も、こんなふうに言われていた気がした。怠けている時は叱られ、動いた時だけまっすぐ褒められる。
記憶はまだ輪郭を持たない。
けれど、温度だけは確かに残っていた。
しかし、影は一体だけではなかった。
残りの影たちが、四方から一斉に動き出す。
真人が前に出た。
「高原、下がれ。無理に前へ出るな」
「でも、僕だけ何もできていません!」
「焦るな。できないことを無理にする方が危険だ」
真人の声は落ち着いていた。
その瞬間、影の一体が高原の足元へ滑り込んだ。黒い煙が蛇のように伸び、高原の足を絡め取ろうとする。
「うわっ!」
高原の身体が傾く。
真人が即座に手を伸ばした。
彼の胸元から、淡い白い光が広がった。
それは攻撃というより、乱れたものを洗い流すような光だった。高原の足元に触れた影は、じりじりと後退し、形を保てなくなる。
真人は自分の手を見つめた。
「これが……アスクレピオスの力か」
ノアが頷いた。
「アスクレピオス様の力は、傷を癒すだけではありません。乱れたものを、本来の流れへ戻す力です」
真人は静かに息を吐いた。
「なるほど。治療というより、正常化に近い」
「この状況で納得できるのが先生らしいです……」
高原が震えながらも苦笑した。
その背後で、もう一体の影が高原へ迫る。
悟志が動こうとした。
だが、間に合わない。
その時、高原の背中の光の翼が突然大きく広がった。
「え?」
高原自身が一番驚いていた。
風が巻き起こり、彼の身体がふわりと浮く。影の攻撃は空を切り、石畳を黒く染めた。
高原は数歩分だけ宙に浮いたまま、慌てて手足をばたつかせる。
「ちょ、ちょっと待ってください! 飛び方なんて知りません!」
ノアが叫ぶ。
「イカロス様、風に逆らわないでください!」
「無理です! 風に乗るとか、今まで一度もやったことありません!」
「昔はできていました!」
「昔の僕に言ってください!」
高原は必死だった。
だが、その混乱の中でも、彼の身体は落ちなかった。翼はまだ不完全だったが、逃げたいと思いながらも踏みとどまる彼を、確かに支えていた。
朋美がすぐに声をかけた。
「高原さん、右に流れて。そこなら影の動きから外れる」
「右ですね!」
高原はぎこちなく身体を傾けた。翼が風を受け、彼の身体は横へ滑る。その勢いで、影の背後に回り込む形になった。
「先生、今です!」
悟志は高原の声に反応した。
手の中の光を再び伸ばす。朋美が動きを読み、真人が足元の影を押し返し、ノアが中心の位置を叫ぶ。
「ロキ様、左下です!」
悟志は迷わず光を放った。
二体目の影が崩れる。
続けて、三体目。
四体目。
戦いは長くは続かなかった。
最初は圧倒されていた四人だったが、それぞれの力が少しずつ噛み合い始めると、影たちは神殿の中で動きを封じられていった。
朋美が見抜く。
真人が守る。
高原が引きつける。
ノアが導く。
悟志が撃つ。
まだ未熟だった。危なっかしく、無駄も多い。
けれど、確かに連携が生まれていた。
最後の影が神殿の入口へ逃げようとした時、悟志の手の中の光が急に形を変えた。
細い雷が集まり、一本の短い槍のようになる。
完全な武器ではない。
けれど、先ほどまでの不安定な光とは違った。
悟志はそれを投げた。
槍は空気を裂き、影の中心を貫く。
黒い輪郭がはじけ、淡い粒子となって消えた。
神殿に静けさが戻った。
高原は空中でふらつき、そのまま石畳に尻もちをついた。
「痛っ……」
真人がすぐに近づく。
「怪我は?」
「たぶん大丈夫です。心臓はすごく痛いですけど」
「それは恐怖だ」
「診断が早いですね」
朋美は膝に手を当て、深く息をしていた。冷静に見えていたが、額には汗が浮かんでいる。
悟志は彼女に近づいた。
「大丈夫か?」
「ええ。でも、正直に言うと怖かったわ」
「俺もだ」
朋美は少しだけ笑った。
「あなたがそう言うなら安心した」
その時、ノアが悟志の前にふわりと降りてきた。
「ロキ様」
「何だ?」
ノアは真剣な顔で言った。
「今の戦い、無茶が多すぎます」
悟志は思わず肩を落とした。
「勝った直後に説教か」
「勝ったから言えるのです。負けていたら説教もできません」
真人が静かに頷いた。
「正論だな」
「松田まで」
ノアは小さな身体で胸を張った。
「力が戻り始めているのは確かです。でも、今のロキ様は以前のようには戦えません。記憶も、感覚も、まだほとんど戻っていません」
「それは分かってる」
「分かっていません。分かっていたら、最初から一人で前に出たりしません」
悟志は返す言葉を失った。
確かにそうだった。
影が来た瞬間、彼は前に出た。朋美たちを守ろうとした。それは間違いではないかもしれない。だが、自分がどれほど戦えるか分からない状態で飛び出すのは、無謀でもあった。
ノアは少し声を柔らかくした。
「ロキ様。守ろうとしてくださるのは嬉しいです。でも、ロキ様が倒れたら、皆が困ります」
悟志はノアを見つめた。
その小さな精霊は、ただ彼を叱りたいわけではなかった。
心配しているのだ。
ずっと待っていた相手が、記憶を失ったまま目の前に戻ってきた。そしてまた、危険に飛び込もうとしている。
ノアにとって、それがどれほど不安なことなのか、悟志にも少し分かった。
「悪かった」
悟志は素直に言った。
ノアは目を丸くした。
「ロキ様が、素直に謝りました」
「そんなに珍しいのか」
「はい。かなり珍しいです」
高原が小さく笑った。
朋美も口元を緩める。
悟志は気まずそうに頭をかいた。
「昔の俺、相当ひどくないか?」
ノアは少し考えてから言った。
「怠け者でした。でも、いざという時は必ず動く方でした」
その言葉に、悟志の胸が静かに痛んだ。
自分の知らない自分を、ノアは知っている。
それが不思議で、怖くて、少し嬉しかった。
神殿の外では、空の色が元に戻り始めていた。巨大な樹の葉も、先ほどのような金色の光を取り戻している。
だが、完全に安心できる空気ではなかった。
真人が神殿の入口を見つめて言った。
「さっきの影は、また来るのか?」
ノアの表情が曇る。
「おそらく」
「目的は?」
ノアは少し迷った。
「詳しいことは分かりません。ただ、記憶が戻りかけた方に反応していました」
朋美が眉をひそめた。
「記憶を消すというより、近づく者を押し戻すように見えたわ」
真人も頷いた。
「少なくとも、さっきの影は記憶を塗りつぶしてはいない。動いて、排除しようとしていた」
悟志は神殿の外を見た。
黒い影はもういない。
だが、何かが彼らを拒んでいる。
それだけは分かった。
「それは、イリスが言っていた“境界”と関係しているのか」
ノアは小さく頷いた。
「関係していると思います。でも、私は全てを知りません。詳しいことは、イリス様から聞くべきです」
「イリスはどこにいる」
悟志が聞くと、ノアは神殿の奥へ視線を向けた。
「今はこの神殿にはいません。ただ、皆さまが最初の影を退けたことで、次の道は開くはずです」
「次の道?」
その瞬間、神殿の奥の扉が静かに光り始めた。
白い石でできた大きな扉。さっきまで何もなかったはずの表面に、金色と銀色の文様が浮かび上がる。
そこには、槍、宝珠、杯、翼のような紋章が並んでいた。
高原が立ち上がりながら言った。
「これ、僕たちの力に対応してるんですか?」
ノアは頷いた。
「おそらく、記憶の間です」
「記憶の間?」
悟志が尋ねる。
「かつての皆さまの記憶が封じられている場所です。ただし、すべてを一度に思い出すわけではありません。今の皆さまに必要な断片だけが示されるはずです」
真人が慎重に言った。
「精神的な負荷は?」
「あります。だから、無理に進む必要はありません」
ノアは悟志を見た。
「特にロキ様は、さっき力を使ったばかりです。少し休んでからでも――」
悟志は扉を見つめた。
身体は重かった。さっきの戦いで使った力が、自分の中から何かを削ったような感覚がある。手のひらはまだじんじんと痺れていた。
だが、あの扉の向こうに、自分たちが忘れたものがある。
忘れていた時間。
忘れていた名前。
ノアとの関係。
そして、この世界の真実につながる何か。
幼い頃から恐れていた忘却が、今、形を持って目の前にある。
逃げることはできなかった。
悟志は扉へ向かって一歩踏み出した。
ノアが慌てて言う。
「ロキ様、だから休んでから――」
「ノア」
悟志は振り返った。
「俺はまだ、自分がロキだなんて実感はない。だけど、忘れているものがあるなら、知りたい」
ノアは黙った。
「怖いけどな」
悟志がそう付け加えると、ノアは少しだけ表情を和らげた。
「怖いと言えるなら、大丈夫です」
朋美が悟志の隣に立った。
「私も行くわ」
真人も続いた。
「ここまで来て、観察をやめる理由はない」
高原は少し遅れて立ち上がった。
「正直、怖いです。でも……僕も、自分が何を忘れているのか知りたいです」
四人は扉の前に並んだ。
ノアは小さく息を吸い、悟志の肩の近くに浮かんだ。
「では、開きます」
扉の文様が強く輝く。
金色の槍。
銀色の宝珠。
白い杯。
風の翼。
それぞれの光が重なり合い、扉の隙間からまばゆい光が漏れ出した。
悟志は目を細める。
扉の向こうから、遠い声が聞こえた。
笑い声。
誰かを叱る声。
研究室ではない場所で交わされた会話。
神殿の庭を吹き抜ける風。
そして、幼い頃からずっと感じていた、降りられない時間とは違う、もう一つの時間の流れ。
悟志は息を呑んだ。
その声の中に、自分の声があった。
今より少し軽く、ひょうきんで、けれど確かに自分のものだと分かる声。
「ノア、少しだけ休ませてくれ。ほんの少しだけだ」
それに答える、ノアの呆れた声。
「ロキ様の“少し”は信用できません」
扉が開いた。
光が四人を包み込む。
悟志は、失われた記憶の最初の扉へ足を踏み入れた。




