第6話 帰るべき場所
世界が反転した。
足元にあったはずの水面が空へ昇り、空にあったはずの星が地面へ落ちていく。上下の感覚が失われ、悟志は朋美の手を強く握った。
落ちているのか。
浮かんでいるのか。
それすら分からなかった。
耳の奥で、水が流れるような音が響いていた。けれど身体は濡れていない。息もできる。目を閉じても、青白い光だけがまぶたの裏に焼きついている。
やがて、足の裏に硬い感触が戻った。
悟志は膝をつき、片手を地面についた。
そこにあったのは、土ではなかった。
白く滑らかな石畳だった。ひんやりとしているのに、不思議な温かさがある。まるで長い時間、誰かがここを守り続けてきたかのようだった。
「悟志、大丈夫?」
朋美の声が聞こえた。
悟志は顔を上げた。
朋美はすぐそばにいた。松田真人も、高原彗も無事だった。四人とも息を切らしながら、周囲を確認している。
だが、そこはもう水鏡神社ではなかった。
目の前には、巨大な樹がそびえていた。
幹は建物ほど太く、枝は空の果てまで広がっている。淡い金色に光る葉が風に揺れるたび、遠い鈴のような音が空気に溶けた。
その根元には、白い石で造られた神殿があった。
柱は高く、壁には見たことのない紋様が刻まれている。古代の遺跡のようでもあり、まだ生きている建物のようでもあった。
高原が震える声で言った。
「ここ……どこですか」
誰もすぐには答えられなかった。
真人は自分の腕をつねり、痛みを確かめた。
「夢ではなさそうだな」
「夢だったら、あなたも相当変な夢を見てるわね」
朋美の声は落ち着いていたが、顔色は白かった。
悟志は立ち上がろうとして、ふと自分の手を見た。
服が変わっていた。
さっきまで着ていたはずのシャツとジャケットではない。黒と金を基調にした、見慣れない衣服。軽いのに、身体にぴたりと馴染む。袖口には細かな模様が走り、指先まで薄い光の糸が絡んでいるように見えた。
「なんだ、これ……」
悟志が呟くと、朋美も自分の姿を見下ろした。
彼女の服も変わっていた。白と銀を基調とした長い衣。胸元には淡く光る文様があり、周囲には小さな数式のような光が一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。
高原は背中に手を回し、硬直した。
「先生……僕、背中に何かあります」
悟志が見ると、高原の背中には、未完成の翼のような光の輪郭が浮かんでいた。羽というより、風そのものが形を持ったような、不安定な翼だった。
真人は白い外套のような衣をまとっていた。胸の前には小さな杯の形をした光が浮かび、すぐに身体の中へ溶け込んだ。
真人は眉をひそめた。
「身体感覚はある。意識もはっきりしている。だが、これは……」
「集団幻覚では説明できないわね」
朋美が言った。
悟志は神殿を見上げた。
胸の奥に、妙な懐かしさがあった。
ここを知っている。
この石畳も、巨大な樹も、神殿の光も。
知らないはずなのに、身体のどこかが覚えている。
その感覚が、逆に怖かった。
「ロキ様!」
突然、甲高い声が響いた。
悟志は反射的に振り返った。
神殿の入口から、小さな光の塊がふわふわと飛んでくる。最初は火の玉のように見えたが、近づくにつれて形がはっきりした。
ぬいぐるみのように丸く、白く柔らかそうな身体。小さな手足。大きな瞳。淡い光をまとった、不思議な精霊。
その存在は悟志の前まで飛んでくると、ぴたりと止まった。
そして、頬をふくらませた。
「遅いです!」
悟志は言葉を失った。
小さな精霊は、まるでずっと待たされていたと言わんばかりに、両手を腰に当てている。
「ロキ様、またどこかで怠けていたんですか? 何度も言いましたよね。大事な時に姿を消すのはやめてくださいって」
「えっと……」
悟志は困惑して、朋美たちを見た。
高原はぽかんとしている。真人は目の前の精霊をじっと観察している。朋美だけが、どこか考え込むようにその精霊を見つめていた。
小さな精霊は、悟志の反応を見て不満げに首をかしげた。
「ロキ様?」
悟志は慎重に言った。
「君は……誰だ?」
その瞬間、精霊の表情が変わった。
さっきまでの怒った顔が消え、信じられないものを見るような目になった。小さな身体が、空中でわずかに揺れる。
「……覚えて、いないのですか?」
悟志の胸が痛んだ。
なぜか分からない。
けれど、その声を聞いた瞬間、罪悪感に近いものが込み上げてきた。
「すまない。俺は……君を知っている気がする。でも、思い出せない」
精霊はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと悟志に近づき、顔を見上げた。
「本当に、忘れてしまったんですね」
その声は責めてはいなかった。
ただ、深く寂しそうだった。
朋美がそっと尋ねた。
「あなたは、悟志の知り合いなの?」
精霊は朋美に目を向けた。
「ミネルヴァ様も……」
朋美は息を呑んだ。
「その名前……さっき水鏡で浮かんだ名前ね」
「はい。あなたはミネルヴァ様。知恵と理を司る方です」
精霊は次に真人を見た。
「アスクレピオス様」
真人は静かに頷いた。
「さっきから、その名前が頭の奥に引っかかっている」
最後に高原を見た。
「イカロス様」
高原は慌てて首を振った。
「いや、僕は高原です。そんな大層な名前じゃ……」
「今は、そうなのですね」
精霊は少しだけ悲しそうに微笑んだ。
悟志は一歩近づいた。
「君の名前は?」
精霊はまっすぐ悟志を見た。
「ノアです」
その名を聞いた瞬間、悟志の中で何かが揺れた。
ノア。
音としては初めて聞いたはずだった。
それなのに、胸の奥が熱くなる。ひどく大切なものを思い出しかけた時のように、呼吸が浅くなった。
断片が浮かぶ。
神殿の庭。
ふわふわと浮かぶ白い影。
怠ける自分を叱る声。
それでも、最後にはそばにいてくれる小さな光。
「ノア……」
悟志がその名を口にすると、ノアの目が少しだけ潤んだように見えた。
「はい。ロキ様の従者、ノアです」
「従者……」
「はい。そして、ロキ様が怠けすぎないように見張る役目です」
その言い方があまりに自然で、高原が思わず小さく笑った。
「先生、異世界でも怠けてたんですか」
「俺に聞くな。覚えてない」
ノアはすぐに悟志をにらんだ。
「覚えていなくても、怠けていた事実は変わりません」
「そこは断言するんだな」
悟志が思わず返すと、ノアは一瞬きょとんとした後、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「その言い方は、少しだけロキ様らしいです」
その言葉は、悟志の胸に静かに残った。
悟志は、水鏡でイリスが言ったことを思い出した。
ロキ。
混沌、変化、策略。
停滞した状況を動かす者。
けれど、目の前のノアが見ているロキは、神話の名よりもずっと近く、生々しい存在に思えた。
「ノア」
「はい」
「イリスは、俺をロキと呼んだ。神話に残るロキに近い名だとも言っていた」
ノアは少しだけ真面目な顔になった。
「はい。ロキ様は、アースガルズの神々の中でも、特に扱いに困る方でした」
「扱いに困る?」
「怠け者で、ひょうきんで、面倒なことからすぐ逃げようとします」
高原がまた笑いそうになった。
悟志は顔をしかめた。
「いきなりひどいな」
「事実です」
ノアはきっぱりと言った。
「ですが、ロキ様は本当に大事な時には必ず動きます。誰も思いつかない方法で道を作り、混沌の中で仲間を守る。それが、私の知っているロキ様です」
悟志は言葉を失った。
怠け者。
ひょうきん者。
混沌の中で道を作る者。
そして、大事な時には必ず動く者。
それは、神話の説明ではなかった。
ノアが長い時間そばで見てきた誰かの話だった。
「俺が……そんな存在だったのか」
「今すぐ信じなくても構いません」
ノアは静かに答えた。
「でも、私は覚えています。ロキ様が、何度も誰かを守ったことを」
悟志の胸の奥に、説明できない痛みが走った。
自分は覚えていない。
けれど、目の前の小さな精霊は覚えている。
その事実だけが、妙に重かった。
「俺はまだ、自分がロキだとは思えない」
「はい」
「でも、君が俺を待っていたことは分かる」
ノアの光が、ほんの少しだけ揺れた。
朋美が周囲を見ながら言った。
「ノア。ここはどこなの?」
ノアは表情を引き締めた。
「ユグドラシル神殿です。アースガルズにある、ロキ様の神殿です。ここは、かつてロキ様が帰る場所だった神殿です」
「アースガルズ……」
高原が小声で繰り返した。
真人が質問した。
「我々は、なぜここに来た?」
ノアは少し困った顔をした。
「本来なら、皆さまは自分の意志でこちらに戻れるはずでした。でも、現実世界での記憶の封印が強くなっていたようです。だからイリス様が、水鏡を使って入口を開いたのだと思います」
「イリス様?」
悟志は、その呼び方に引っかかった。
「ノア。君はイリスを知っているのか」
ノアは少しだけ迷うように目を伏せた。
「はい。イリス様は、こちら側と皆さまをつなぐ役目を持つ方です」
「味方なのか」
悟志が尋ねると、ノアはすぐには答えなかった。
「少なくとも、皆さまをここへ導いたのは、傷つけるためではないと思います」
「思います、か」
「私にも、イリス様のすべてが分かるわけではありません」
真人が静かに言った。
「つまり、ノアにとっても完全に説明できる相手ではない、ということだな」
ノアは小さく頷いた。
「はい。ただ、イリス様は皆さまが思い出すために必要な道を開く方です」
朋美は少し目を細めた。
「必要な道を開く人。でも、全部は教えない人」
「……そうです」
悟志は池の上に現れた青白い姿を思い出した。
信じろとは言わなかった。
けれど、答えもすべては渡さなかった。
「分かった。今は、イリスを完全には信じない。でも、無視もしない」
ノアは真面目な顔で頷いた。
「それが良いと思います」
悟志は改めてノアを見た。
「記憶の封印というのは?」
ノアは静かに頷いた。
「現実世界に戻ると、異世界での記憶は薄れていきます。そういう仕組みになっています。普通の人間なら、ほとんど忘れてしまいます」
その言葉に、悟志の手が止まった。
忘れる仕組み。
また、その言葉だった。
「誰がそんな仕組みを作った」
悟志の声が低くなる。
ノアはすぐには答えなかった。
「私は、全てを知っているわけではありません」
「でも、何かは知っているんだな」
ノアは視線を落とした。
「ロキ様。今、全部を知ろうとすると、たぶん壊れてしまいます」
その言葉に、真人が反応した。
「精神的に、という意味か?」
「はい。記憶はただ戻せばいいものではありません。忘れていた時間が長いほど、戻る時に痛みを伴います」
真人は静かに頷いた。
「それは理解できる」
高原は不安そうに自分の胸を押さえた。
「僕たちは、本当に昔ここにいたんですか?」
ノアは高原の前にふわりと移動した。
「はい。イカロス様も、ここで何度も空を飛ぶ訓練をしていました」
「僕が……空を?」
高原は自分の背中の光の翼に触れようとした。だが、その手は空を切った。翼はあるようで、まだ完全には存在していない。
「今はまだ、思い出していないだけです」
ノアは優しく言った。
「でも、焦らなくて大丈夫です」
その時、神殿の奥から低い音が響いた。
鐘の音に似ていた。
けれど、どこか警告のようにも聞こえる。
ノアの表情が一変した。
「結界が揺れています」
「結界?」
悟志が聞く前に、神殿の外の空がわずかに暗くなった。
先ほどまで金色に輝いていた巨大な樹の葉が、ざわりと震える。遠くの空に、黒い染みのようなものが広がり始めていた。
高原が青ざめた。
「あれは……何ですか」
ノアの声が硬くなった。
「影です」
「影?」
「詳しいことは、まだ分かりません。ただ、記憶が戻りかけた方に反応します」
朋美が聞き返した。
「私たちに?」
ノアは小さく頷いた。
「はい。今は、説明より離れてください」
黒い染みは、少しずつ形を変えながら神殿へ近づいていた。
鳥のようにも、獣のようにも見える。輪郭は定まらず、煙のように揺れている。だが、こちらに向かっていることだけは分かった。
真人が低く言った。
「歓迎されているわけではなさそうだな」
悟志は無意識に右手を伸ばした。
何かを握る感覚があった。
だが、そこには何もない。
代わりに、手のひらの中で金色の火花が小さく弾けた。
ノアが目を見開いた。
「ロキ様……」
「何だ、今の」
「力が、少し戻り始めています」
悟志は自分の手を見つめた。
怖さはあった。
分からないことだらけだった。
けれど、それ以上に、不思議な感覚があった。
ここは知らない場所ではない。
自分は、ここで何かをしていた。
誰かを守り、誰かに叱られ、誰かと笑っていた。
その記憶はまだ遠い。
でも、完全には消えていない。
黒い影が、神殿の結界に触れた。
空気が震え、青白い火花が走る。
ノアは悟志の前に出ようとした。
「ロキ様、下がってください。今のあなたはまだ――」
「ノア」
悟志は静かに言った。
ノアが振り返る。
「俺はまだ何も思い出していない。自分がロキなのかも分からない」
手のひらの中で、再び金色の火花が揺れた。
「でも、君を置いて逃げる人間にはなりたくない」
ノアの瞳が揺れた。
悟志は一歩、影の方へ踏み出した。
「だから、ここで逃げるわけにはいかないだろ」
その瞬間、彼の右手に光が集まり始めた。
まだ槍の形にはならない。
ただ、不安定な雷のような光が、手の中で揺れているだけだった。
それでも、ノアは確かに見た。
そこに、かつてのロキの面影が戻り始めていることを。
黒い影が、結界を破ろうと大きく膨れ上がる。
悟志は息を吸った。
怖い。
分からない。
それでも、進むしかない。
幼い頃から追い続けてきた問いの答えは、どうやら安全な場所にはないらしい。
悟志は光を握りしめ、影を見据えた。
「来るなら来い」
ノアが小さく呟いた。
「やっぱり、ロキ様です」
そして、影が神殿へなだれ込んできた。




