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(改稿版1)第5話 帰ってきた庭

足元の感覚が消えた。


水鏡の池も、満月も、境内の木々も、すべてが白い光の中に溶けていく。


悟志は朋美の手を強く握っていた。


離してはいけない。


それだけは、はっきり分かっていた。


上下の感覚がなくなり、体が落ちているのか、浮かんでいるのかも分からない。耳の奥で、水の音だけが遠く響いている。


朋美の手が、悟志の手を握り返した。


その温かさだけが、現実だった。


やがて、光が薄れていく。


足裏に、硬いものが触れた。


水ではない。


石だった。


悟志はゆっくり目を開けた。


そこには、白い石畳が広がっていた。


空は、夜明け前のような薄い青をしていた。


だが、夜明けではない。


太陽は見えない。雲もない。それなのに、空全体が静かに明るく、遠くの方では銀色に近い光が淡く広がっていた。


少し先には、巨大な樹が立っている。


幹は建物ほど太く、枝は空の奥へ溶けるように伸びていた。葉は風もないのにかすかに揺れ、そのたびに小さな光の粒がこぼれる。


さらに奥には、白い石でできた神殿のような建物があった。


高い柱。

見たことのない紋様。

静かな中庭。

そして、どこまでも澄んだ空気。


古いのに、朽ちていない。


長い時間が流れているのに、汚れだけが置き去りにされたような場所だった。


朋美が、悟志の隣で息を呑んだ。


「……ここ、どこ?」


悟志は答えられなかった。


水鏡神社ではない。


東京でもない。


現実のどこかの施設でも、映像でもない。


石畳の冷たさが足の裏にある。

空気の匂いがある。

巨大な樹の葉がこすれる音が聞こえる。

朋美の手の温かさもある。


夢ではなかった。


少なくとも、悟志一人の夢ではない。


「戻れる?」


朋美が小さく言った。


悟志は振り返った。


そこには、水面がなかった。


水鏡の池も、鳥居も、満月も見えない。


ただ、白い石畳が続いているだけだった。


「戻る道がない」


そう答えると、朋美の手に力が入った。


けれど、彼女は取り乱さなかった。


「じゃあ、まず状況を確認しましょう」


「怖くないのか?」


「怖いわよ」


朋美はすぐに答えた。


「でも、ここで騒いでも戻れないでしょう」


声は少し震えていた。


それでも、彼女は悟志の隣に立っていた。


その時、巨大な樹の根元から、小さな光が近づいてきた。


悟志は反射的に朋美を少し後ろへかばった。


光はゆっくり近づいてくる。


やがて、それが生き物のような形をしていることが分かった。


白く柔らかそうな、小さな体。


丸いぬいぐるみのような姿に、小さな耳と手足がある。体の周りには淡い白い光がまとわりつき、地面には触れず、ふわふわと宙に浮いていた。


可愛らしい姿だった。


けれど、その表情は驚くほど真面目だった。


声は、幼い少年のように澄んでいた。


「お帰りなさいませ、ロキ様」


悟志は言葉を失った。


朋美も目を見開いている。


ロキ。


その名が、胸の奥で小さく鳴った。


知っている名前ではない。


少なくとも、悟志の記憶にはない。


それなのに、まったく知らないとも言い切れなかった。


「……誰のことだ」


ようやく声を出すと、小さな精霊は少しだけ首を傾げた。


「ロキ様のことです」


「俺は、小泉悟志だ」


「はい。今は、そう名乗っていらっしゃるのですね」


今は。


その言い方に、悟志の背筋が冷えた。


朋美が静かに前へ出た。


「あなたは誰?」


精霊は朋美の方へ向き直った。


「私はノアです」


「ノア……」


朋美がその名を繰り返した。


悟志の胸の奥が、また小さく揺れた。


ロキという名よりも、柔らかく、少し痛みに近い反応だった。


だが、理由は分からない。


ノアは朋美を見つめ、少しだけ光を揺らした。


「朋美様も、お久しぶりです」


朋美の表情が強ばった。


「私も、あなたを知っているの?」


「はい」


「でも、私は覚えていないわ」


「今は、それで大丈夫です」


ノアの声は穏やかだった。


けれど、どこか厳しさもあった。


「無理に思い出そうとしてはいけません」


悟志は眉を寄せた。


「それは、夢の中で聞いた言葉と同じだ」


ノアは悟志を見た。


「届いていましたか」


「やはり、あれはあなたなのか」


ノアは少し間を置いてから答えた。


「すべてではありません。けれど、水鏡へ来るよう伝えたのは、私です」


朋美がすぐに聞いた。


「なぜ、私たちをここへ?」


ノアはすぐには答えなかった。


その小さな体の周りで、淡い白い光が静かに揺れる。


「思い出していただくため、ではありません」


悟志は眉をひそめた。


「違うのか」


「はい。今、無理に思い出せば危険です。ロキ様も、朋美様も、まだ現実の世界で生きています。小泉悟志様として。小泉朋美様として」


ノアは、二人をまっすぐ見た。


「現実の世界で暮らしている間、こちらの記憶は薄くなるようになっています」


朋美の表情が変わった。


「薄くなるように?」


「はい。完全に消えたのではありません。ただ、こちらの記憶が強く戻りすぎると、現実での自分を保てなくなることがあります」


悟志は言葉を失った。


忘れていたのではない。


薄くなっていた。


その言い方が、妙に胸に引っかかった。


「誰が、そんなことをした」


ノアはすぐには答えなかった。


「今は、まだ言えません」


「なぜだ」


「知れば、ロキ様は必ず追いかけます」


その答えに、悟志は反論できなかった。


ノアは続けた。


「今日お呼びしたのは、記憶を開くためではありません。ここがあることを、まず知っていただくためです。水鏡が安定し、ロキ様と朋美様がこちらへ戻れる状態になりました。だから、短い時間だけお呼びしました」


「戻れる状態……」


「はい。呼べる時と、呼べない時があります。満月の水鏡は、こちらとそちらを静かにつなぎます。だから今日でした」


朋美は、池を越えてきた時の感覚を思い出すように、そっと息を吸った。


「つまり、今日は説明を全部聞く日ではないのね」


ノアは頷いた。


「はい。今日は、ここがあること。ノアがいること。お二人が、初めて来たのではないこと。それだけで十分です」


悟志はノアを見つめた。


「初めてじゃないのか」


「はい」


ノアの声は静かだった。


「ロキ様は、ここに帰ってきたのです」


帰ってきた。


その言葉は、悟志の胸の奥に静かに落ちた。


来たのではない。

呼ばれたのでもない。

帰ってきた。


信じられない。


それなのに、完全には否定できなかった。


悟志は周囲を見渡した。


白い神殿。

巨大な樹。

薄青い空。

ノアという小さな精霊。


何もかもが現実離れしている。


それなのに、胸の奥には、まったく初めてではないという感覚がある。


「ここは、何なんだ」


ノアは巨大な樹を見上げた。


「ユグドラシル神殿です」


「ユグドラシル……」


朋美が呟いた。


「世界樹の名前ね」


「皆さまの世界では、そのように伝わっています」


ノアは静かに答えた。


「ですが、ここにあるものは、物語の中の木ではありません」


悟志は樹を見上げた。


その枝は、空の向こうへ伸びている。


どこまで続いているのか分からない。


見ているだけで、距離の感覚が曖昧になる。


「異世界、なのか」


「今のロキ様たちの言葉で言えば、そう呼ぶのが一番近いかもしれません」


「近い?」


「正確ではありません。でも、今はそれで十分です」


今はそれで十分。


ノアは、何度もそういう境界を引く。


答えを拒んでいるのではない。


二人が壊れない範囲で、少しずつ見せようとしている。


悟志には、そんな気がした。


その時、巨大な樹の向こう側から、小さな声がした。


「ノアー」


たどたどしい声だった。


ノアが振り返る。


「光体、今は待っていてください」


「ノアー」


声の方から、青白い光がふわふわと近づいてきた。


それは、人ではなかった。


丸い光の塊のようにも見えるし、小さな星が迷子になって飛んでいるようにも見えた。輪郭は淡く揺れ、青白い光をまとっている。


悟志は息を呑んだ。


朋美も、思わず一歩近づきかけて止まった。


「何、あれ……」


「光体です」


ノアは当然のように答えた。


「高次元から来た、まだ生まれたてに近い存在です。少し迷子になっています」


悟志はノアを見た。


「その説明で分かると思うか?」


ノアは真面目に首を振った。


「思いません」


「なら、なぜそのまま言った」


「事実だからです」


朋美が小さく笑いそうになり、すぐに口元を押さえた。


光体は悟志たちの前まで来ると、ふわりと上下に揺れた。


「ロキ?」


悟志の胸が、また小さく鳴った。


光体は続けた。


「ロキ、ねてない」


ノアが少し困ったように言った。


「光体、その言い方は失礼です」


「ロキ、いつもねる」


「それは事実ですが、初対面のような今のロキ様に言うことではありません」


「今のロキ様?」


悟志が聞き返すと、ノアはしまったという顔をした。


「今は、深く考えないでください」


「無理がある」


「でも、考えすぎないでください」


光体は、そんな二人のやり取りを気にせず、朋美の周りをふわふわと回った。


「ミネル……」


ノアがすぐに言った。


「光体」


その声は小さいが、はっきりしていた。


光体はぴたりと止まった。


「まだ、その名は呼ばないでください」


光体は少しだけしゅんとしたように光を弱めた。


「だめ?」


「だめです。今は、まだ」


朋美はノアを見た。


「今、何か言いかけたわね」


「はい」


「私の名前?」


「今は、聞かない方がよい名です」


朋美はしばらく黙った。


そして、小さく頷いた。


「分かった。今は聞かない」


悟志は朋美を見た。


「いいのか」


「聞いたら戻れなくなる気がする」


その言葉に、ノアの光がわずかに揺れた。


「朋美様は、やはり鋭いですね」


「褒められている気はしないわ」


「褒めています」


ノアは真面目に言った。


その時、上空から羽音が聞こえた。


悟志が見上げると、小さな鳥が飛んできた。


色も形も、どこかピーコに似ている。


けれど、現実のピーコよりも少し光を帯びているように見えた。


鳥は木の机のようなものに降り立ち、胸を張った。


「ピーコも、きた!」


悟志は思わず声を漏らした。


「ピーコ……?」


朋美も驚いている。


「うちのピーコとは、違う……わよね?」


ノアは少し困ったように言った。


「同じとも、違うとも、今は説明が難しいです」


「またそれか」


悟志が言うと、ピーコに似た鳥が得意げに鳴いた。


「ピーコ、いいこ!」


その言い方があまりにも家のピーコに似ていて、悟志と朋美は同時に黙った。


ノアは鳥に向かって言った。


「ピーコ、今日は静かにしてください。ロキ様たちは混乱しています」


「ロキ、こんらん!」


「言わなくていいです」


「ピーコ、しずか!」


そう言いながら、ピーコは羽をふくらませている。


静かにする気は、あまりなさそうだった。


悟志は、思わず小さく笑ってしまった。


こんな状況で笑うとは思わなかった。


見知らぬ神殿。

薄青い空。

ノア。

光体。

異世界のピーコ。


理解できないことばかりなのに、そのやり取りには妙な日常感があった。


ノアは木の机の前へ移動した。


そこには、小さな板が置かれている。表面には見たことのない記号が描かれていた。


「本当は、今日は光体に境界の勉強を教えているところでした」


「境界の勉強?」


悟志が聞くと、ノアは頷いた。


「はい。近づいてよいものと、まだ触れてはいけないものを分ける勉強です」


朋美が静かに言った。


「今の私たちにも必要そうね」


「はい」


ノアはすぐに答えた。


「とても必要です」


悟志は苦笑した。


「遠慮がないな」


「ロキ様には、遠慮している余裕がありません」


「俺はそんなに危ないのか」


「はい」


ノアは迷わず答えた。


「ロキ様は、気になるものがあると、すぐ近づこうとします」


朋美が隣で小さく頷いた。


悟志は彼女を見る。


「君まで」


「否定はしないわ」


ノアは小さな板に丸を描いた。


「この世界には、まだロキ様たちが触れてはいけないものがあります。名前も、記憶も、力も、すべて一度に受け取れば壊れます」


「壊れる?」


「今の自分が、です」


悟志は言葉を失った。


今の自分。


小泉悟志としての自分。


朋美と暮らし、ベルとピーコがいて、研究所で日々を過ごしている自分。


それが壊れるかもしれない。


ノアは続けた。


「だから今日は、ここがあることを知るだけで十分です」


「それだけ?」


「はい」


「ロキのことも、俺たちの記憶も、説明しないのか」


「全部はしません」


「少しは?」


ノアは少しだけ考えた。


「ロキ様は、ここを守っていた方の一人です」


悟志の胸の奥が、静かに揺れた。


「守っていた?」


「はい」


「何を?」


ノアはすぐには答えなかった。


巨大な樹の葉が、かすかに揺れる。


光体も、ピーコも、なぜか静かになっていた。


「それは、まだです」


ノアは静かに言った。


「今のロキ様が知れば、きっと急ぎます」


悟志は反論しかけて、言葉を飲み込んだ。


自分でも分かっていた。


守っていた。


その一言だけで、すでに知りたいと思っている。


何を守っていたのか。

誰と一緒にいたのか。

なぜ忘れているのか。


問いが、胸の中で一気に広がる。


ノアはそれを見透かしたように言った。


「ほら、もう急いでいます」


「……顔に出てるか?」


「出ています」


朋美も静かに頷いた。


「出てるわ」


悟志は大きく息を吐いた。


「分かった。今日は聞かない」


ノアは少し驚いたように悟志を見た。


「本当に?」


「そんなに信用がないのか」


「積み重ねです」


「何の積み重ねだ」


「ロキ様の積み重ねです」


ピーコがすかさず鳴いた。


「ロキ、たいへん!」


「お前まで言うな」


悟志は思わず言い返した。


その瞬間、胸の奥で何かが少しだけ緩んだ。


怖さはまだある。


分からないことも多い。


けれど、この場所はただ恐ろしいだけではなかった。


ノアがいる。


光体がいる。


ピーコがいる。


そして、朋美が隣にいる。


だから、まだ立っていられる。


ノアは水鏡の方へ視線を向けた。


いつの間にか、白い石畳の上に、薄い水面のような光が浮かんでいた。


「今日は、戻ってください」


悟志は驚いた。


「もう?」


「はい。長くいると、記憶が揺れます」


朋美がすぐに言った。


「戻れるのね」


「はい。水鏡が開いている間なら」


悟志は安堵した。


同時に、少しだけ名残惜しさを感じた。


来たばかりなのに。


まだ何も分かっていないのに。


戻らなければならない。


「また来られるのか」


悟志が聞くと、ノアは頷いた。


「はい。ただし、準備して来てください」


「準備?」


「思い出す準備。受け止める準備。止まる準備です」


「止まる準備か」


「ロキ様には特に必要です」


朋美が隣で小さく笑った。


悟志は反論しなかった。


たぶん、反論しても負ける。


光体がふわふわと近づいてきた。


「また、くる?」


悟志は少しだけ屈み、光体を見る。


「たぶん、来る」


「たぶん?」


「今は、そう言っておく」


光体は小さく揺れた。


「まつ」


ピーコも羽を広げた。


「またね!」


ノアは小さく頭を下げた。


「ロキ様、朋美様。今日見たことを、すぐに答えにしないでください」


朋美が頷いた。


「分かったわ」


悟志も、ゆっくり頷いた。


「分かった」


「本当に?」


「本当に」


ノアはまだ少し疑っているようだった。


だが、それ以上は言わなかった。


悟志と朋美は、水面の光の前に立った。


向こう側には、水鏡神社の池が揺れているように見える。


来る時よりも、戻る方が怖かった。


こちらが夢ではないと、もう分かってしまったからだ。


朋美が悟志の手を取った。


「帰りましょう」


「ああ」


二人は水面へ足を踏み入れた。


薄青い空が遠ざかる。


巨大な樹も、白い神殿も、ノアの小さな姿も、光の中に溶けていく。


最後に、ノアの声が届いた。


「急がないでください」


次に目を開けると、二人は水鏡神社の池の前に立っていた。


満月は、まだ水面に映っていた。


風が吹き、木の葉が揺れる。


遠くから車の音が聞こえた。


現実の音だった。


朋美は悟志の手を離さず、時計を見た。


「……ほとんど時間が経っていない」


悟志もスマートフォンを確認した。


水鏡に入る前から、数分しか経っていなかった。


あれだけのことがあったのに。


あの場所でノアと話し、光体とピーコに会い、神殿を見たのに。


こちらでは、数分。


朋美が静かに言った。


「これは、散歩では済まなくなったわね」


悟志は池を見た。


もう波紋はない。


ただの池に戻っている。


満月を映す、静かな水面。


「そうだな」


悟志は答えた。


「でも、まだ答えにしない」


朋美は頷いた。


「まず帰りましょう。ベルとピーコが待ってる」


その言葉で、悟志はようやく少し笑えた。


「ピーコに何て言われるかな」


「ピーコ、いいこ、じゃない?」


「それはいつもだ」


二人は鳥居へ向かって歩き出した。


背後で、水鏡の池は何事もなかったように月を映している。


だが、悟志は知ってしまった。


見えている世界の外側に、確かに別の場所がある。


そしてそこには、ノアがいた。


自分をロキ様と呼ぶ、小さな精霊が。


満月の光の下、悟志は朋美の手を握ったまま、現実の街へ戻っていった。

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