(仮確定1)第5話 境界を教える庭
ユグドラシル神殿の庭は、静かだった。
薄青い空の奥に、銀色に近い光が淡く広がっている。風はないのに、巨大な樹の葉だけがかすかに揺れ、そのたびに小さな光の粒が白い石畳へ落ちていった。
庭の片隅には、小さな木の机が置かれていた。
その前に、ノアが浮かんでいる。
白く柔らかそうな小さな体。丸いぬいぐるみのような姿。淡い白い光をまとい、地面から少しだけ離れている。
机の向こうには、青白い光体がふわふわと揺れていた。
生まれたての迷子のような、小さな高次元の光。
輪郭はまだ安定せず、明るくなったり薄くなったりしている。何かを覚えようとするたび、体全体がゆっくり瞬いた。
ノアは木の板に、丸を二つ描いた。
「これは、こちら側です」
青白い光体が揺れる。
「こちら」
「はい。そして、これは向こう側です」
ノアはもう一つの丸を指した。
「むこう」
「そうです」
光体は、二つの丸をじっと見つめた。
しばらくして、二つの丸の間へふわふわと近づこうとした。
ノアはすぐに言った。
「光体、まだ触ってはいけません」
光体はぴたりと止まった。
「まだ?」
「はい。だめ、ではありません。まだ、です」
「まだ」
光体はその言葉を覚えるように、小さく明滅した。
ノアは木の板に、二つの丸をつなぐ細い線を引いた。
「こちらと向こうを分ける場所を、境界と言います」
「きょうかい」
「はい。境界は、ただの壁ではありません。通ってよい時と、通ってはいけない時があります」
光体は首をかしげるように揺れた。
「とおる?」
「通れる時もあります。でも、急いで通ってはいけません」
「ロキ、通った」
ノアの手が止まった。
光体は、悪気のない声で続けた。
「ロキ、きた。ともみ、きた」
ノアは少しだけ光を弱めた。
「はい。来ました」
「また、くる?」
「来ると思います」
「いつ?」
「急がせてはいけません」
ノアの声は穏やかだった。
けれど、その奥にははっきりとした厳しさがあった。
「ロキ様は、気になるものがあるとすぐ近づこうとします。だから、こちらが急がせてはいけないのです」
光体は少し考えるように揺れた。
「ロキ、すぐくる?」
「来ようとするかもしれません」
「だめ?」
「だめではありません。まだ、です」
「まだ」
光体はまた、その言葉を繰り返した。
その時、上から羽音がした。
小さな鳥が、机の端に降り立つ。
ピーコだった。
現実世界のピーコによく似ているが、羽の輪郭に淡い光をまとっている。胸を張り、いかにも自分も授業に参加するつもりの顔をしていた。
「ピーコも、べんきょう!」
ノアはすぐに振り返った。
「ピーコ、今は静かに見ていてください」
「ピーコ、わかる!」
「何が分かるのですか」
「きょうかい!」
ピーコは得意げに言って、木の板をつつこうとした。
ノアはその小さなくちばしの前に、すっと手を出した。
「触ってはいけません」
「ちょっとだけ!」
「ちょっとでも駄目です」
「ピーコ、いいこ!」
「いい子なら、授業の邪魔をしません」
ピーコは一瞬だけ黙った。
そして、小さく羽をふくらませた。
「ピーコ、しずか」
そう言いながら、机の上を一歩歩いた。
ノアはため息をつくように光を揺らした。
「歩く音も静かにしてください」
「しずか!」
ピーコは胸を張った。
光体は、そのやり取りを見て楽しそうに明滅している。
「ピーコ、しずか」
「はい。ピーコは静かにしています」
ノアがそう言った瞬間、ピーコはまた木の板をつつこうとした。
「ピーコ」
ノアの声が少し低くなった。
ピーコはぴたりと止まる。
「……しずか」
「はい」
ノアは木の板へ視線を戻した。
「境界は、守るためにあります」
光体が揺れた。
「まもる」
「はい。こちらにいるものを守るため。向こうにいるものを守るため。そして、まだ受け取ってはいけないものから、その人自身を守るためです」
「ロキ、まもる?」
ノアは少し黙った。
巨大な樹の葉が、静かに揺れる。
「ロキ様も、守られています」
「ロキ、つよい」
「強いからこそ、守られなければならない時があります」
光体は不思議そうに明滅した。
「つよい、でも?」
「はい」
ノアは木の板に描いた線を、小さな手でなぞった。
「強い方ほど、遠くまで行けてしまいます。遠くまで行ける方ほど、戻れなくなることがあります」
光体は、ゆっくりと線を見つめた。
「もどれない」
「だから、止まる練習が必要です」
「とまる」
「はい。近づく力より、止まる力の方が大切な時があります」
ピーコが小さく鳴いた。
「ロキ、とまる?」
ノアは即答しなかった。
少しだけ考えてから、真面目な顔で言った。
「これから練習します」
ピーコは羽をふくらませた。
「ロキ、たいへん!」
「言わなくていいです」
「たいへん!」
「ピーコ」
「しずか!」
ノアはまた少しだけため息をついた。
その時だった。
庭の中央に、薄い水面のような光が一瞬だけ揺れた。
ノアの表情が変わった。
光体も、ピーコも、同時にそちらを見た。
水鏡ではない。
けれど、水鏡に似た揺れだった。
庭の空気の中に、白い石畳と巨大な樹の輪郭が一瞬だけ映り、それがすぐに乱れる。
まるで、遠くから誰かがこの場所を見ようとして、途中で視界を閉じられたようだった。
光体が小さく震えた。
「いまの、なに?」
ノアは答えなかった。
庭の中央に浮かんだ揺らぎは、すぐに消えた。
だが、消え方が自然ではなかった。
水面が閉じるのではない。
映っていたものだけが、きれいに消された。
ピーコが羽を縮めた。
「ロキ?」
ノアは静かに言った。
「ロキ様が、こちらを見ようとしたのかもしれません」
「くる?」
「いいえ。まだ来ていません」
光体は不安そうに揺れた。
「だれか、とめた?」
ノアは、木の板に描いた境界の線を見た。
その線の上に、ほんのわずかに白い光が残っている。
「……そうですね」
ノアの声は、いつもより低かった。
「誰かが、見せないようにしました」
ピーコが小さく鳴いた。
「だめ?」
「だめ、ではありません」
ノアは、ゆっくりと答えた。
「ただ、危ないのです」
「ロキ、あぶない?」
「ロキ様だけではありません」
ノアは水面が消えた場所を見つめた。
「現実の世界で記憶に触れすぎると、向こう側の仕組みが動きます。まだ、こちらの名を正しく見てはいけない。まだ、ここをはっきり映してはいけない。そう判断されたのでしょう」
光体はよく分からないというように、ふわふわと揺れた。
「だれ?」
ノアは首を横に振った。
「今は、名前にしてはいけません」
「なまえ、だめ?」
「名前は、道になります。呼べば、つながります。つながれば、向こうもこちらに気づきます」
ピーコは小さく羽を震わせた。
「こわい」
ノアはピーコを見た。
「怖いものもあります」
そして、光体の方へ向き直る。
「でも、怖いから目を閉じるのではありません。近づく時を選ぶのです」
光体は、ゆっくり明滅した。
「ときを、えらぶ」
「はい」
ノアは木の板にもう一度、境界の線を引いた。
「今日の勉強は、ここまでです」
「もう?」
光体が揺れた。
「はい。今の揺れで、庭の境界が少し乱れました。整えなければなりません」
「ロキ、またくる?」
ノアは巨大な樹を見上げた。
薄青い空の奥で、銀色の光が静かに揺れている。
「来ます」
ノアは小さく答えた。
「今度は、きっと一人ではありません」
ピーコが首をかしげた。
「ともみ?」
「朋美様も来るでしょう」
「ほか?」
ノアはすぐには答えなかった。
光体が近づく。
「ほか、くる?」
ノアは、少しだけ困ったように光を揺らした。
「水鏡が開けば、来るかもしれません」
「だれ?」
「まだ、言いません」
ピーコが羽を広げた。
「ないしょ!」
「はい。内緒です」
「ピーコ、ないしょ、できる!」
ノアはじっとピーコを見た。
「本当ですか?」
「ほんとう!」
「では、今から静かにできますね」
ピーコは一瞬黙った。
そして、小さく言った。
「……ちょっとだけ」
「ちょっとだけでは困ります」
光体が楽しそうに明滅した。
ノアも、ほんの少しだけ表情を和らげた。
だが、庭の中央には、先ほどの揺らぎの気配がまだ薄く残っていた。
誰かが見ようとした。
そして、誰かが閉じた。
こちらと向こうを分ける境界は、静かに揺れている。
ノアは木の板を閉じ、光体の前に立った。
「光体」
「なに?」
「次にロキ様たちが来た時、急がせてはいけません」
「うん」
「知っている名前を、勝手に呼んではいけません」
光体は少しだけ光を弱めた。
「ミネル……だめ?」
「だめです」
「アス……?」
「それも、まだです」
「イカ……?」
「まだです」
ピーコが横から口を挟んだ。
「ロキは?」
ノアは少し考えた。
「ロキ様は……もう呼んでしまいましたから」
ピーコは得意げに胸を張った。
「ロキ!」
「何度も呼ばなくていいです」
「ロキ、たいへん!」
「ピーコ」
「しずか!」
ノアは、やはり小さくため息をついた。
けれど、その目は優しかった。
光体は、ノアのそばにふわりと寄った。
「ノア」
「はい」
「まもる?」
ノアは、光体の淡い青白い輪郭を見つめた。
それから、静かに頷いた。
「守ります」
「ロキも?」
「はい」
「ともみも?」
「はい」
「ピーコも?」
ピーコが胸を張った。
「ピーコ、まもる!」
ノアは少しだけ笑った。
「ピーコは、まず授業中に木の板をつつかないことからです」
「ピーコ、できる!」
「本当ですね?」
「たぶん!」
「たぶんでは困ります」
光体はまた楽しそうに明滅した。
庭には、しばらく穏やかな時間が戻った。
けれどノアは、もう一度だけ水鏡の方を見た。
そこには何も映っていない。
ただ、白い石畳の上に、薄い光が静かに眠っているだけだった。
次に開く時、ロキ様は何を連れて来るのだろう。
そして、何を思い出しかけるのだろう。
ノアは胸の前で小さな手を重ねた。
「急がないでください」
その言葉は、誰に向けたものでもなく、庭の薄青い空へ静かに溶けていった。




