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(仮確定1)第4話 封鎖された記憶

送信してから、数十秒もしないうちに、真人から着信があった。


悟志は水鏡の池から少し離れ、通話に出た。


「悟志、何があった」


真人の声は落ち着いていた。


けれど、いつもの軽さはなかった。


悟志は一度、池を振り返った。


満月は、何事もなかったように水面へ映っている。


さっきまで、その奥に別の場所があったとは思えないほど、池はただ静かだった。


「説明が難しい」


「それは分かってる。短く言え」


悟志は息を吸った。


「水鏡を越えた」


電話の向こうで、真人が黙った。


「……比喩か?」


「違う」


悟志は答えた。


「俺と朋美は、池の水面を越えた。向こう側に、別の場所があった」


「朋美さんも一緒に?」


「ああ。全部見ている」


真人の声が少し低くなった。


「今、朋美さんは隣にいるか」


「いる」


「代わってくれ」


悟志は朋美にスマートフォンを渡した。


朋美は少し驚いたが、すぐに受け取った。


「真人さん?」


真人の声は、かすかにスピーカーから漏れていた。


「朋美さん。悟志から詳しく聞く前に、あなたが見たものだけを教えてください」


朋美は悟志を一度見た。


悟志は何も言わなかった。


朋美は池を背にして、静かに話し始めた。


「水面に波紋が出ました。池の奥に白い光が見えて、悟志と一緒に水面へ足を踏み入れたら……神社ではない場所にいました」


真人は遮らなかった。


朋美は続けた。


「白い石畳があって、薄青い空で、大きな樹と白い神殿が見えました。小さな精霊のような子がいて、ノアと名乗りました」


「ノア」


「はい。その子は悟志をロキ様と呼びました。私のことも知っているようでした。でも、今は思い出してはいけないと言われました」


「ほかには?」


「青白い光の塊みたいな子と、ピーコに似た鳥がいました。帰ってきたら、こちらでは数分しか経っていませんでした」


真人はしばらく黙っていた。


そして、短く言った。


「悟志に戻して」


朋美はスマートフォンを悟志に返した。


「聞いたか」


「ああ」


真人の声は、先ほどより慎重になっていた。


「お前たち二人が、同じ場所を見たと言っている。しかも、細部が一致している」


「俺たちが話し合わせた可能性は?」


「当然ある。だから最初に朋美さんから聞いた」


真人は即答した。


「だが、今の話は、例の少年の夢とも重なる」


悟志は池を見た。


「ノアのことは?」


「そこまでは聞いていない。だが、水面、月、白い光、向こうで待つもの。そこは重なる」


真人は少し間を置いた。


「悟志。これは、もうただの夢の相談では済まない」


「分かってる」


「明日、研究所で確認できるものはあるか」


悟志は一瞬考えた。


記憶。

映像。

見たものの再構成。


研究所には、睡眠中や記憶内の視覚イメージを、粗い映像として再構成する試作装置がある。


まだ不完全で、精度も高くない。


それでも、輪郭くらいなら取れる可能性があった。


「完全じゃないが、見た映像の輪郭を拾う装置はある」


「使えるか」


「本来の用途とは少し違う。ただ、俺と朋美が同じものを見たかを確認する程度ならできるかもしれない」


「なら、やれ」


真人の声は静かだった。


「ただし、無理はするな。異常が出たら止めろ」


「分かった」


「それと、俺も行く」


悟志は少し驚いた。


「研究所に?」


「今回は行く。少年の件と重なっている。ここからは、俺も外から見ておく必要がある」


悟志は頷いた。


「明日、連絡する」


通話を切ると、朋美が静かに尋ねた。


「真人さん、何て?」


「明日、研究所で確認する。真人も来る」


朋美は水鏡の池を見た。


そこには、ただ月だけが映っている。


「向こうに戻る前に、こっちで確かめられることを確かめるのね」


「ああ」


悟志は池から目を離した。


「まず帰ろう。ベルとピーコが待ってる」


朋美は小さく頷いた。


二人は鳥居へ向かって歩き出した。


背後で、水鏡の池は何事もなかったように、満月を映し続けていた。


翌朝、研究所の空気はいつも通りだった。


白い廊下。

低い機械音。

職員たちの足音。


何も変わっていない。


けれど悟志の中では、昨日までと同じ場所には見えなかった。


研究室に入ると、高原が顔を上げた。


「おはようございます、小泉先生」


「高原。少し手伝ってほしい」


高原はすぐに姿勢を正した。


「何かありましたか?」


悟志は短く言った。


「昨日、水鏡神社へ行った」


高原の表情が変わった。


「夢に出てきた場所ですよね」


「ああ」


「何か、あったんですか」


「ありすぎた」


高原は言葉を失った。


その時、研究室の扉が開いた。


真人が入ってきた。


「邪魔するぞ」


高原は驚いて立ち上がる。


「松田先生?」


真人は軽く頷いた。


「今日は外部からの見届け役だと思ってくれ」


高原は悟志を見た。


悟志は説明を短く済ませた。


水鏡を越えたこと。

朋美も同じ場所を見たこと。

ノアという精霊に会ったこと。

現実では数分しか経っていなかったこと。


高原は最初、信じていいのか分からない顔をしていた。


それでも、途中から表情が変わっていった。


「先生と朋美さんが、同じものを見たんですよね」


「ああ」


「記録は?」


「ない。スマートフォンも何も撮れていない」


「なら、記憶映像の再構成を試しますか」


悟志は頷いた。


「そのつもりだ」


高原はすぐに端末を立ち上げた。


研究室の奥にある装置は、大きな椅子と半透明のスクリーンで構成されていた。細かな計測器が並んでいるが、見た目ほど大掛かりなものではない。


脳内に残った視覚イメージを拾い、粗い光の配置として映し出す試作機だった。


高原が準備を始める。


「まず先生からでいいですか」


「ああ」


真人が言った。


「無理を感じたらすぐ止めろ」


「分かってる」


悟志は椅子に座った。


頭部に軽いセンサーが取り付けられる。


高原が端末の前で確認する。


「昨日見た場所を思い浮かべてください。細部まで無理に思い出そうとしなくていいです。最初に浮かぶ景色で」


悟志は目を閉じた。


白い石畳。


薄青い空。


巨大な樹。


白い神殿。


ノア。


小さな、真面目な声。


お帰りなさいませ、ロキ様。


スクリーンに、ぼんやりとした映像が浮かび始めた。


最初は灰色の乱れだった。


やがて、白い線が現れる。


石畳のような格子。


その奥に、縦に伸びる巨大な影。


高原が息を呑んだ。


「出ています」


真人はスクリーンを見つめた。


「これは……樹か?」


悟志は目を開けなかった。


巨大な樹の輪郭が、少しずつ濃くなる。


その向こうに、白い柱のようなものが揺れた。


神殿。


映像は粗い。


だが、見間違えようがなかった。


高原が小さく言った。


「先生、次にノアを思い出せますか」


悟志の胸が、わずかにざわついた。


ノア。


白く柔らかそうな小さな体。


ふわふわと浮かぶ姿。


真面目な顔。


その輪郭が、スクリーンの端に現れかけた。


その瞬間だった。


画面が真っ白に弾けた。


「え?」


高原が声を上げた。


端末から短い警告音が鳴る。


スクリーンが乱れ、白い石畳も巨大な樹も一瞬で崩れた。


次の瞬間、研究室の照明が一度だけ揺れた。


悟志は反射的にセンサーを外そうとした。


真人がすぐに近づく。


「止めろ、高原」


「止めてます!」


高原の指がキーボードを叩く。


だが、端末は反応しない。


警告音が途切れ、焦げたような匂いがかすかに漂った。


「電源を落とせ」


悟志が言った。


高原は主電源を切った。


スクリーンは黒くなった。


研究室に沈黙が落ちた。


真人が悟志の顔を確認する。


「気分は?」


「大丈夫だ」


「めまいは?」


「ない」


高原は青ざめた顔で端末を見ていた。


「先生……今の、普通のエラーじゃありません」


「分かるのか」


「分かります。少なくとも、単純な負荷停止じゃないです。ノアの輪郭が出かけた瞬間に、外から何かが割り込んだ」


「外から?」


「ネットワークは切ってあったはずだろ」


真人が言った。


高原は画面を見ながら答える。


「切ってありました。だからおかしいんです」


その時、研究室の扉が勢いよく開いた。


入ってきたのは涼子だった。


黒い髪を後ろでまとめ、片手にタブレットを持っている。目つきは鋭く、研究室に入った瞬間から、誰にも遠慮する気配がなかった。


「高原くん」


第一声から、棘があった。


「朝から研究棟の一部だけ変なログ吐いてるんだけど。あなた、また何か余計なことしました?」


高原が慌てる。


「僕じゃありません」


「だいたいそう言う人が一番怪しいのよ」


涼子は悟志を見た。


「小泉先生もいる。なるほど、面倒の中心はこっちですね」


「ひどい言い方だな」


「事実確認です」


涼子は端末の前に立った。


「触らないで。下手に再起動したら痕跡が消えます」


高原が少しむっとした。


「もう主電源は落としました」


「それ以上余計なことをする前でよかった」


「涼子さん、相変わらず言い方がきついです」


「優しい言い方でログは直りません」


真人は少しだけ眉を上げた。


悟志は短く説明した。


「記憶映像の再構成中に装置が停止した。ネットワークは切っていた。表示された映像の一部だけが崩れた」


涼子は端末のログを確認し始めた。


「何を再構成していたんですか」


悟志は一瞬だけ迷った。


「昨日見た場所だ」


「曖昧ですね」


「白い石畳、巨大な樹、白い神殿。あと、ノアという存在」


涼子の指が止まった。


「ノア?」


「そう名乗った」


「その名前を表示した瞬間?」


高原が答えた。


「表示しかけた瞬間です。輪郭が出る直前に落ちました」


涼子は画面を睨んだ。


「……嫌な落ち方ですね」


「故障か?」


悟志が尋ねる。


涼子は即答した。


「違います」


「早いな」


「故障なら、もっと雑に壊れます」


涼子はタブレットを操作しながら続けた。


「これは壊すための動きじゃない。見ようとした部分だけを潰してる。装置全体じゃなく、対象データに触れたところだけを切っている」


高原が呟く。


「読ませないため……」


涼子はちらりと高原を見た。


「たまにはまともなこと言うじゃない」


「褒めてます?」


「今日のところは」


高原は複雑な顔をした。


涼子は黒くなったスクリーンを見つめたまま、低く言った。


「攻撃というより、封鎖です」


研究室の空気が変わった。


真人が静かに聞く。


「封鎖?」


「見せたくないものを見ようとした時だけ閉じる。そういう止め方です」


「外部からか」


「普通の外部ではありません」


涼子はログの一部を拡大した。


そこには、意味を成さない文字列が並んでいた。


だが、ある一点だけ、不自然に空白があった。


「接続元がない」


高原が言った。


涼子は頷いた。


「ないんじゃない。消されてる。でも、消し方が綺麗すぎる」


「綺麗すぎる?」


「人間が慌てて消したログじゃない。最初から、存在してはいけない経路として処理されている」


悟志は背筋に冷たいものを感じた。


存在してはいけない経路。


真人が悟志を見た。


「昨日の話と、繋がるのか」


悟志はすぐには答えなかった。


ノアは言っていた。


現実の世界で暮らしている間、こちらの記憶は薄くなるようになっている。


誰がそうしたのかと聞いた時、ノアは答えなかった。


知れば、ロキ様は必ず追いかけます。


悟志は黒くなったスクリーンを見つめた。


「俺たちが思い出すことを、止めている何かがある」


涼子が即座に言った。


「先生、その言い方は抽象的すぎます」


「では、どう言う」


「現時点で言えるのは、記憶映像の再構成を妨害する未知の処理が入った、です」


「そっちの方が硬いな」


「硬い方が安全です」


涼子は端末から目を離さなかった。


「ただし、ひとつだけ言えます」


「何だ」


「これ、普通の研究所レベルで相手にしていいものじゃありません」


高原の顔がさらに青くなる。


「それ、どういう意味ですか」


「そのままの意味。高原くんの手には余る。私でも、余るかもしれない」


涼子は、珍しく軽口を挟まなかった。


「でも、逃げるにはもう遅いです。向こうは、こちらが何を見ようとしたか知っている」


研究室の空調音が、妙にはっきり聞こえた。


悟志は椅子から立ち上がった。


足元はしっかりしている。


だが、胸の奥には、水鏡の向こうで感じたものとは別の冷たさがあった。


向こうには、ノアがいた。


だが、こちら側にも何かがいる。


見せないために、閉じるもの。


思い出させないために、止めるもの。


涼子は黒い画面を指で軽く叩いた。


「小泉先生」


「何だ」


「次にこれをやるなら、先に言ってください。勝手に未知の封鎖に触られると、こっちの心臓に悪いので」


「心配しているのか?」


涼子は冷たい目で悟志を見た。


「研究所の機器の心配です」


高原が小さく言った。


「人の心配ではないんですね」


「人は自分で歩けます。機器は壊れたら私が直す羽目になります」


その棘のある言い方に、ほんの少しだけ空気が緩んだ。


だが、黒くなったスクリーンは沈黙したままだった。


そこに映りかけた白い石畳も、巨大な樹も、ノアの輪郭も、もう見えない。


悟志は思った。


水鏡の向こうで見たものは、幻ではない。


少なくとも、何かはそれを見られることを拒んだ。


涼子は最後に、低く呟いた。


「封鎖された場所には、必ず封鎖した理由があります」


悟志は答えなかった。


その言葉だけが、研究室の中に重く残った。

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