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第3話 見えている世界の外側

IRIS。


その四文字は、朝からずっと悟志の頭に残っていた。


研究室のモニターに映し出されたログは、何度確認しても同じだった。装置番号でも、内部コードでも、実験担当者の名前でもない。外部からの侵入記録も見当たらない。にもかかわらず、その文字列だけが、まるで最初からそこにあったかのように記録されていた。


「先生、設定ファイルにもありません」


高原彗は、別の端末でログを照合しながら言った。声は落ち着いていたが、指先の動きだけが少し速い。


「バックアップにも?」


「はい。バックアップにも同じ文字列が残っています。しかも、改ざんされた形跡がありません。むしろ……綺麗すぎます」


「綺麗すぎる?」


悟志が聞き返すと、高原はモニターをこちらに向けた。


「普通、何か異常が起きたら、周辺のログにも乱れが出ます。時刻のずれ、権限エラー、通信の失敗、何かしら痕跡が残る。でもこれは違います。まるで、システムが最初からこの文字列を正しい情報として受け入れているみたいです」


悟志は腕を組んだまま、画面を見つめた。


高原は優秀だった。正規の研究者としての経歴はない。だが、データの扱いに関しては鋭い。何より、分からないものを分からないまま放置しない粘り強さがある。


「外部からの接続は?」


「今のところ不審なものはありません。研究所内のネットワークも確認しましたが、少なくとも通常の侵入経路ではないです」


「通常ではない、か」


悟志は小さくつぶやいた。


高原は一瞬迷うように視線を落とした後、慎重に口を開いた。


「先生、これを誰かに報告しますか?」


「報告はする。ただ、今の段階では“原因不明のログ異常”でいい」


「IRISのことは?」


「まだ出さない」


高原は驚いた顔をした。


悟志はすぐに言葉を足した。


「隠すわけじゃない。だが、意味の分からない文字列だけを先に出せば、余計な憶測を呼ぶ。まずは再現性を確認する」


「分かりました」


高原は頷いたが、表情にはまだ不安が残っていた。


「先生は……これ、ただの不具合だと思いますか?」


悟志はすぐには答えられなかった。


研究者としてなら、答えは決まっている。まずは装置を疑う。次に環境を疑う。さらに人的ミス、記録方式、プログラムの不備を疑う。それでも説明できなければ、初めて別の可能性を考える。


だが、悟志の中には、朝に見た空の揺らぎが残っていた。


そして、幼い頃から消えない感覚も。


世界は、見えている姿だけで成り立っているわけではないのではないか。


「今は、分からない」


悟志は正直に答えた。


「ただ、分からないものを無理に説明したことにするのは危険だ」


高原は少しだけ安心したように頷いた。


その日の午後、悟志は早めに研究所を出た。


データのことは高原に任せ、追加の検証手順だけを共有した。高原は「もう一度、時刻同期から洗い直します」と言い、研究室に残った。


悟志は駅へ向かいながら、スマートフォンを取り出した。


連絡先の中から、松田真人の名前を選ぶ。


幼馴染であり、精神科医でもある男。悟志が子供の頃から、言葉にしにくい不安を抱えた時、なぜか最後には彼の顔が浮かんだ。


数回の呼び出し音の後、真人が出た。


「珍しいな。平日の昼に電話なんて」


「今日、時間あるか?」


「急患が入らなければ、夕方なら少し空く。どうした?」


悟志は駅前の雑踏を見渡した。誰もが当たり前のように歩いている。信号が変わり、人の流れが動く。


この世界が本当に揺らいでいるかもしれないなどと、誰が思うだろう。


「少し、話したいことがある」


真人は、悟志の声から何かを察したようだった。


「分かった。いつもの店でいいか」


「ああ」


夕方、二人は古い喫茶店で向かい合った。


学生時代から何度も来ている店だった。木製のテーブルには小さな傷があり、窓際の席からは通りを歩く人々が見える。コーヒーの香りと、控えめなジャズの音が店内に漂っていた。


真人は白衣ではなく、落ち着いた色のジャケットを着ていた。仕事終わりの疲れが少し見えるが、その目はいつも通り冷静だった。


「で、何があった?」


悟志はすぐには話し始めなかった。カップの中の黒い液面を見つめる。


「今日、研究データに妙なログが出た」


「仕事の相談か?」


「半分はそうだ」


「残り半分は?」


悟志は苦笑した。


「俺自身の問題かもしれない」


真人は表情を変えなかった。ただ、話の続きを待っている。


悟志は研究室で見たことを説明した。複数の装置で同じ時刻に起きた小さなずれ。原因不明の文字列。IRISという名前。外部侵入の痕跡が見当たらないこと。そして、朝に空が一瞬だけ揺らいだように見えたこと。


真人は黙って聞いていた。


途中で遮ることはしなかった。驚いた顔もしない。否定もしない。


悟志はそれがありがたかった。


全てを話し終えると、真人はゆっくりとコーヒーを置いた。


「まず確認するが、睡眠は取れているか?」


「最初にそれか」


「精神科医だからな」


悟志は少し笑った。


「取れている。少なくとも極端に不足しているわけじゃない」


「食事は?」


「普通だ」


「仕事の負荷は?」


「高い。だが、今に始まったことじゃない」


真人は頷いた。


「なら、現時点で俺が言えるのは一つだ。すぐに結論を出すな」


「幻覚だとも、異常現象だとも?」


「どちらとも言わない。見間違いの可能性もある。機器の問題の可能性もある。偶然が重なっただけの可能性もある。もちろん、君たちがまだ説明できない何かを見ている可能性もゼロではない」


真人は淡々と言った。


「大事なのは、恐怖に引っ張られて解釈を急がないことだ」


悟志は窓の外に目を向けた。


夕方の空は薄い橙色に染まっている。ビルの隙間を、帰宅する人々が流れていく。


「子供の頃からさ」


悟志はぽつりと言った。


「俺は、世界が突然足元から消えるんじゃないかって感覚があるんだ」


真人は静かに視線を向けた。


「地震の記憶の話か?」


「それもある。自分が経験したはずのことを覚えていないって知った時、怖かった。自分の中に残っていないなら、その時間は本当に自分のものだったのかって」


悟志は言葉を探した。


「それから、葬式に行った時もそうだ。人は死ぬ。時間は戻らない。生まれた時から、止まれない乗り物に乗せられているみたいだった」


「死へのジェットコースター、か」


真人が静かに言った。


悟志は少し驚いた。


「覚えてるのか」


「何度も聞いたからな。子供の頃から、お前は同じことを考えていた」


悟志はカップを両手で包んだ。


「だから、知りたかった。宇宙のことも、体のことも、意識のことも。仕組みが分かれば、怖さが少しは減ると思った」


「減ったか?」


悟志は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。


「分かったことが増えるほど、分からないことも増えた」


真人は小さく頷いた。


「それは、まともな研究者の感覚だと思う」


「でも今日のログは違う。あれを見た時、研究者としての興味より先に、怖さが来た」


「なぜ?」


悟志は答えに詰まった。


なぜ怖かったのか。


ただの文字列だ。IRISという四文字。それだけなら、研究室の誰かが仕込んだ悪戯でも、どこかのコードの残骸でもいいはずだった。


けれど、彼はそう思えなかった。


「呼ばれた気がした」


口にした瞬間、自分でも馬鹿げていると思った。


だが真人は笑わなかった。


「誰に?」


「分からない。ただ……見つけろ、と言われているような気がした」


真人はしばらく黙っていた。


店内の時計の秒針が、小さく音を立てている。


「悟志」


真人はいつもより少し低い声で言った。


「君が感じたことを、俺は否定しない。ただし、それをそのまま事実にしてはいけない。感覚は大事だ。でも、感覚は時々、人を急がせる」


「分かってる」


「なら、三つに分けろ」


「三つ?」


「一つ目は、実際に観測された事実。ログ、時刻、装置の状態。二つ目は、そこから推測できること。三つ目は、君が感じたこと。この三つを混ぜるな」


悟志は真人を見た。


その言葉は、研究にもそのまま使えるものだった。


「お前、やっぱり医者だな」


「褒めてるのか?」


「たぶん」


真人は少しだけ笑った。


「人の心も、研究データも、混ぜると危ない。事実と解釈と感情を分ける。それだけで、かなり見え方が変わる」


悟志は深く息を吐いた。


少しだけ、胸の中の絡まった糸がほどけた気がした。


その時、スマートフォンが震えた。


高原からだった。


悟志は画面を開く。


メッセージは短かった。


『先生、追加検証で同じ文字列が再発しました。今回は時刻指定なしです。しかも、研究室の端末だけではありません』


続けて、もう一通。


『先生の個人端末にも、同じログが出ています』


悟志の背筋に冷たいものが走った。


真人が表情を変える。


「どうした?」


悟志はスマートフォンの画面を見せた。


真人は文面を読み、ほんのわずかに眉をひそめた。


「これは……」


その瞬間、店内の照明が一度だけ小さく瞬いた。


停電というほどではない。誰も騒がない程度の、ほんの一瞬の揺らぎだった。店員も客も、気づいた者はほとんどいない。


だが、悟志と真人は同時に顔を上げた。


窓の外、夕闇に沈み始めた空の一角に、青白い光が浮かんでいた。


人の形をしているようにも見えた。


次の瞬間、それは消えた。


悟志は息をのんだ。


真人もまた、窓の外を見つめたまま動かなかった。


しばらくして、真人が静かに言った。


「今のは、俺にも見えた」


悟志の手の中で、スマートフォンの画面が勝手に明るくなった。


そこには、見慣れない通知が表示されていた。


あなたは、まだ箱の内側しか見ていません。


差出人の欄には、ただ一語だけが記されていた。


IRIS

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