(仮確定1)第3話 水鏡の向こう
二人は鳥居をくぐった。
その瞬間、外の通りの音が少し遠くなった気がした。
不自然というほどではない。木々に囲まれた場所なら、音の響き方が変わることはある。けれど悟志は、一歩だけ別の空気に入ったような感覚を覚えた。
朋美も、半歩遅れて振り返る。
「今、少し静かになった?」
「木が多いからかもしれない」
「そうね」
二人はそれ以上、意味をつけなかった。
石段を上る。
足元の石は古く、ところどころ角が丸くなっていた。両側の木々は夜の中で黒く沈み、葉の隙間から満月の光が落ちている。
社は小さかった。
賽銭箱の前には、少しだけ落ち葉が積もっている。けれど荒れてはいない。誰かが定期的に掃除しているのだろう。
悟志と朋美は、並んで手を合わせた。
何かを願ったわけではない。
ただ、ここに来たことを告げるように、短く頭を下げた。
その後、境内の奥へ進んだ。
古びた案内板があった。
水鏡の池。
その文字を見た瞬間、悟志の喉が少しだけ乾いた。
「ここね」
朋美が小さく言った。
「ああ」
短い石畳の先に、小さな池があった。
夢の中で見たものより、現実の池はずっと控えめだった。低い柵があり、古い石灯籠が一つ立っている。池の周囲には木々が寄り添うように枝を伸ばしていた。
ただ、水面は静かだった。
風はある。木の葉も揺れている。
それなのに、池の水だけはほとんど動かず、空をじっと映していた。
空には満月が浮かんでいた。
その月が、池の中央にも映っている。
空の月と、水の月。
二つの月が、静かに向かい合っていた。
悟志は息を止めた。
夢と同じだった。
いや、完全に同じではない。夢よりも現実の方が、ずっと細かい。石の冷たさも、夜の空気も、隣に立つ朋美の気配もある。
それでも、あの夢が指していた場所はここだ。
そう思った。
「似てる?」
朋美が尋ねた。
「似てる」
「どのくらい?」
「夢の方が、もっとぼんやりしていた。でも……ここだと思う」
朋美は何も言わなかった。
二人は、しばらく池の前に立っていた。
何も起こらない。
月はただ水面に映り、木々は静かに揺れている。遠くから車の音が聞こえた。どこかで犬が吠えた。少し離れた住宅から、食器の触れる音がかすかに届いた。
現実の音だった。
朋美が小さく息を吐く。
「綺麗ね」
「ああ」
「これだけでも、来てよかったんじゃない?」
悟志は少しだけ頷いた。
「そうだな」
本当に、それだけで終わってもよかった。
夢に出た場所が実在した。
満月の夜、池に月が映った。
少し不思議だった。
それで済ませることもできた。
悟志は、そう思いかけた。
その時だった。
池の中心に、小さな波紋が広がった。
悟志は目を細めた。
葉が落ちたわけではない。
石が投げ込まれたわけでもない。
風が強くなったわけでもない。
水面に映った満月の中心から、静かに輪が広がっていく。
朋美が、悟志の袖をつかんだ。
「今の……見えた?」
「ああ」
波紋は消えなかった。
むしろ、月の光を水の奥へ引き込むように、ゆっくりと広がっていく。
池の水面が、ただの反射ではなくなっていった。
水の下に、もう一つの月が沈んでいる。
そんなふうに見えた。
悟志の胸の奥が、小さく震えた。
夢で見た、淡い白い光。
それが、水面の奥に灯っていた。
強い光ではない。
呼びつけるような光でもない。
ただ、そこにある。
静かに待っている。
朋美の指先に力が入った。
「これ、私にも見えてる」
「分かってる」
「夢じゃないわね」
「少なくとも、俺一人の夢じゃない」
水面の奥の白い光が、ほんの少し近づいた。
声は聞こえない。
それでも、悟志の胸の奥に、あの言葉が戻ってきた。
急がないでください。
悟志は一歩も動かなかった。
朋美が隣で言う。
「戻れるか、分からないわね」
「分からない」
「それでも行くの?」
悟志はすぐには答えられなかった。
知りたい。
その気持ちはあった。
けれど、目の前にあるものは、好奇心だけで踏み込んでいいものではなかった。
これは夢ではない。
朋美にも見えている。
そして、もしこの水面の向こうに何かがあるなら、戻れる保証はどこにもない。
悟志は池を見つめた。
白い光が、静かに揺れている。
初めて見るはずなのに、初めてではない。
その感覚だけが、胸の奥で消えずに残っていた。
「一人なら、行かない」
悟志は言った。
朋美が彼を見る。
「でも、君がいるから行く、という意味でもない」
「じゃあ?」
「ここで帰っても、たぶん俺はもう一度来る」
「でしょうね」
朋美の返事は早かった。
悟志は苦笑した。
「否定してくれないのか」
「できないもの」
朋美は水面を見た。
満月の光が、彼女の横顔を白く照らしている。
「私も、ここで帰ったら、ずっと考えると思う」
「怖くないのか?」
「怖いわよ」
朋美は静かに答えた。
「でも、あなたが一人でこの水面を見て、一人で答えを探しに行く方が、もっと怖い」
悟志は言葉を失った。
朋美は、彼の手を握った。
「約束して」
「何を?」
「向こうで何があっても、一人で奥へ行かない。私の手を離さない」
悟志は、その手の温かさを感じた。
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
朋美はしばらく悟志を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「なら、行きましょう」
「いいのか」
「月を見に来た散歩にしては、だいぶ遠くまで行くことになりそうだけど」
悟志は思わず笑った。
張り詰めていた胸の奥が、少しだけ緩む。
「帰ったら、ベルに怒られるな」
「ピーコにもね」
「ピーコは何て言うかな」
「ピーコ、いいこ、じゃない?」
「それはいつもだ」
その短いやり取りだけが、現実に残された糸のようだった。
悟志は朋美の手を握ったまま、池の縁へ近づいた。
水面は静かに光っている。
普通なら、足を入れれば濡れるだけだ。
だが今、そこにあるのは水ではなく、月の光でできた薄い膜のように見えた。
悟志は深く息を吸った。
走らない。
飛び込まない。
怖さに背中を押されるのでも、好奇心に引きずられるのでもない。
自分の足で、一歩進む。
「行こう」
朋美が頷いた。
「ええ」
二人は同時に一歩を踏み出した。
足が水面に触れた。
沈まなかった。
冷たさもない。
ただ、月の上に立ったような、不思議な浮遊感が足元から広がった。
水面に映る月が、足元で大きくなる。
空の月が、頭上からゆっくり降りてくる。
上下が分からなくなった。
境内の木々が遠ざかる。
鳥居も、社も、石灯籠も、月の光の中で輪郭を失っていく。
悟志は朋美の手を強く握った。
朋美も握り返した。
離れていない。
それだけは分かった。
水面の奥から、淡い白い光が近づいてくる。
悟志の胸の奥で、何かが静かに応えた。
これは、どこかへ向かっているのではない。
戻っている。
忘れていた場所へ。
まだ思い出してはいけない何かがある場所へ。
最後に見えたのは、水鏡の池に映る満月だった。
空の月と、水の月。
二つの月が一つに重なった瞬間、世界が静かに反転した。
足元の感覚が消えた。
水鏡の池も、満月も、境内の木々も、すべてが白い光の中に溶けていく。
耳の奥で、水の音だけが遠く響いている。
落ちているのか、浮かんでいるのかも分からない。
ただ、朋美の手の温かさだけが残っていた。
やがて、光が薄れていく。
足裏に、硬いものが触れた。
水ではない。
石だった。
悟志はゆっくり目を開けた。
そこには、白い石畳が広がっていた。
空は、夜明け前のような薄い青をしていた。
だが、夜明けではない。
太陽は見えない。雲もない。それなのに、空全体が静かに明るく、遠くの方では銀色に近い光が淡く広がっている。
少し先には、巨大な樹が立っていた。
幹は建物ほど太く、枝は空の奥へ溶けるように伸びている。葉は風もないのにかすかに揺れ、そのたびに小さな光の粒がこぼれた。
さらに奥には、白い石でできた神殿のような建物があった。
高い柱。
見たことのない紋様。
静かな中庭。
どこまでも澄んだ空気。
古いのに、朽ちていない。
長い時間が流れているのに、汚れだけが置き去りにされたような場所だった。
朋美が、悟志の隣で息を呑んだ。
「……ここ、どこ?」
悟志は答えられなかった。
水鏡神社ではない。
東京でもない。
現実のどこかの施設でも、映像でもない。
石畳の冷たさが足の裏にある。
空気の匂いがある。
巨大な樹の葉がこすれる音が聞こえる。
朋美の手の温かさもある。
夢ではなかった。
少なくとも、悟志一人の夢ではない。
「戻れる?」
朋美が小さく言った。
悟志は振り返った。
そこには、水面がなかった。
水鏡の池も、鳥居も、満月も見えない。
ただ、白い石畳が続いているだけだった。
「戻る道がない」
そう答えると、朋美の手に力が入った。
けれど、彼女は取り乱さなかった。
「じゃあ、まず状況を確認しましょう」
「怖くないのか?」
「怖いわよ」
朋美はすぐに答えた。
「でも、ここで騒いでも戻れないでしょう」
声は少し震えていた。
それでも、彼女は悟志の隣に立っていた。
その時、巨大な樹の根元から、小さな光が近づいてきた。
悟志は反射的に朋美を少し後ろへかばった。
光はゆっくり近づいてくる。
やがて、それが生き物のような形をしていることが分かった。
白く柔らかそうな、小さな体。
丸いぬいぐるみのような姿に、小さな耳と手足がある。体の周りには淡い白い光がまとわりつき、地面には触れず、ふわふわと宙に浮いていた。
可愛らしい姿だった。
けれど、その表情は驚くほど真面目だった。
声は、幼い少年のように澄んでいた。
「お帰りなさいませ、ロキ様」
悟志は言葉を失った。
朋美も目を見開いている。
ロキ。
その名が、胸の奥で小さく鳴った。
知っている名前ではない。
少なくとも、悟志の記憶にはない。
それなのに、まったく知らないとも言い切れなかった。
「……誰のことだ」
ようやく声を出すと、小さな精霊は少しだけ首を傾げた。
「ロキ様のことです」
「俺は、小泉悟志だ」
「はい。今は、そう名乗っていらっしゃるのですね」
今は。
その言い方に、悟志の背筋が冷えた。
朋美が静かに前へ出た。
「あなたは誰?」
精霊は朋美の方へ向き直った。
「私はノアです」
「ノア……」
朋美がその名を繰り返した。
悟志の胸の奥が、また小さく揺れた。
ロキという名よりも、柔らかく、少し痛みに近い反応だった。
だが、理由は分からない。
ノアは朋美を見つめ、少しだけ光を揺らした。
「朋美様も、お久しぶりです」
朋美の表情が強ばった。
「私も、あなたを知っているの?」
「はい」
「でも、私は覚えていないわ」
「今は、それで大丈夫です」
ノアの声は穏やかだった。
けれど、どこか厳しさもあった。
「無理に思い出そうとしてはいけません」
悟志は眉を寄せた。
「それは、夢の中で聞いた言葉と同じだ」
ノアは悟志を見た。
「届いていましたか」
「やはり、あれはあなたなのか」
「すべてではありません」
ノアは少しだけ間を置いた。
「けれど、水鏡へ来るよう伝えたのは、私です」
朋美がすぐに聞いた。
「なぜ、私たちをここへ?」
ノアはすぐには答えなかった。
その小さな体の周りで、淡い白い光が静かに揺れる。
「思い出していただくため、ではありません」
悟志は眉をひそめた。
「違うのか」
「はい。今、無理に思い出せば危険です。ロキ様も、朋美様も、まだ現実の世界で生きています。小泉悟志様として。小泉朋美様として」
ノアは、二人をまっすぐ見た。
「現実の世界で暮らしている間、こちらの記憶は薄くなるようになっています」
朋美の表情が変わった。
「薄くなるように?」
「はい。完全に消えたのではありません。ただ、こちらの記憶が強く戻りすぎると、現実での自分を保てなくなることがあります」
悟志は言葉を失った。
忘れていたのではない。
薄くなっていた。
その言い方が、妙に胸に引っかかった。
「誰が、そんなことをした」
ノアはすぐには答えなかった。
「今は、まだ言えません」
「なぜだ」
「知れば、ロキ様は必ず追いかけます」
その答えに、悟志は反論できなかった。
ノアは続けた。
「今日お呼びしたのは、記憶を開くためではありません。ここがあることを、まず知っていただくためです。水鏡が安定し、ロキ様と朋美様がこちらへ戻れる状態になりました。だから、短い時間だけお呼びしました」
「戻れる状態……」
「はい。呼べる時と、呼べない時があります。満月の水鏡は、こちらとそちらを静かにつなぎます。だから今日でした」
朋美は、池を越えてきた時の感覚を思い出すように、そっと息を吸った。
「つまり、今日は説明を全部聞く日ではないのね」
ノアは頷いた。
「はい。今日は、ここがあること。ノアがいること。お二人が、初めて来たのではないこと。それだけで十分です」
悟志はノアを見つめた。
「初めてじゃないのか」
「はい」
ノアの声は静かだった。
「ロキ様は、ここに帰ってきたのです」
帰ってきた。
その言葉は、悟志の胸の奥に静かに落ちた。
来たのではない。
呼ばれたのでもない。
帰ってきた。
信じられない。
それなのに、完全には否定できなかった。
その時、巨大な樹の向こう側から、小さな声がした。
「ノアー」
たどたどしい声だった。
ノアが振り返る。
「光体、今は待っていてください」
声の方から、青白い光がふわふわと近づいてきた。
それは、人ではなかった。
丸い光の塊のようにも見えるし、小さな星が迷子になって飛んでいるようにも見えた。輪郭は淡く揺れ、青白い光をまとっている。
「何、あれ……」
朋美がつぶやいた。
「光体です」
ノアは当然のように答えた。
「高次元から来た、まだ生まれたてに近い存在です。少し迷子になっています」
悟志はノアを見た。
「その説明で分かると思うか?」
ノアは真面目に首を振った。
「思いません」
「なら、なぜそのまま言った」
「事実だからです」
朋美が小さく笑いそうになり、すぐに口元を押さえた。
光体は悟志たちの前まで来ると、ふわりと上下に揺れた。
「ロキ?」
悟志の胸が、また小さく鳴った。
光体は続けた。
「ロキ、ねてない」
ノアが少し困ったように言った。
「光体、その言い方は失礼です」
「ロキ、いつもねる」
「それは事実ですが、初対面のような今のロキ様に言うことではありません」
「今のロキ様?」
悟志が聞き返すと、ノアは少しだけ目を伏せた。
「今は、深く考えないでください」
「無理がある」
「でも、考えすぎないでください」
光体は、そんな二人のやり取りを気にせず、朋美の周りをふわふわと回った。
「ミネル……」
ノアがすぐに言った。
「光体」
その声は小さいが、はっきりしていた。
光体はぴたりと止まった。
「まだ、その名は呼ばないでください」
光体は少しだけしゅんとしたように光を弱めた。
「だめ?」
「だめです。今は、まだ」
朋美はノアを見た。
「今、何か言いかけたわね」
「はい」
「私の名前?」
「今は、聞かない方がよい名です」
朋美はしばらく黙った。
そして、小さく頷いた。
「分かった。今は聞かない」
その時、上空から羽音が聞こえた。
悟志が見上げると、小さな鳥が飛んできた。
色も形も、どこかピーコに似ている。
けれど、現実のピーコよりも少し光を帯びているように見えた。
鳥は木の机のようなものに降り立ち、胸を張った。
「ピーコも、きた!」
悟志は思わず声を漏らした。
「ピーコ……?」
朋美も驚いている。
「うちのピーコとは、違う……わよね?」
ノアは少し困ったように言った。
「同じとも、違うとも、今は説明が難しいです」
「またそれか」
悟志が言うと、ピーコに似た鳥が得意げに鳴いた。
「ピーコ、いいこ!」
その言い方があまりにも家のピーコに似ていて、悟志と朋美は同時に黙った。
ノアは鳥に向かって言った。
「ピーコ、今日は静かにしてください。ロキ様たちは混乱しています」
「ロキ、こんらん!」
「言わなくていいです」
「ピーコ、しずか!」
そう言いながら、ピーコは羽をふくらませている。
静かにする気は、あまりなさそうだった。
悟志は、思わず小さく笑ってしまった。
こんな状況で笑うとは思わなかった。
見知らぬ神殿。
薄青い空。
ノア。
光体。
異世界のピーコ。
理解できないことばかりなのに、そのやり取りには妙な日常感があった。
ノアは水鏡の方へ視線を向けた。
いつの間にか、白い石畳の上に、薄い水面のような光が浮かんでいた。
「今日は、戻ってください」
悟志は驚いた。
「もう?」
「はい。長くいると、記憶が揺れます」
朋美がすぐに言った。
「戻れるのね」
「はい。水鏡が開いている間なら」
悟志は安堵した。
同時に、少しだけ名残惜しさを感じた。
来たばかりなのに。
まだ何も分かっていないのに。
戻らなければならない。
「また来られるのか」
悟志が聞くと、ノアは頷いた。
「はい。ただし、準備して来てください」
「準備?」
「思い出す準備。受け止める準備。止まる準備です」
「止まる準備か」
「ロキ様には特に必要です」
朋美が隣で小さく笑った。
悟志は反論しなかった。
たぶん、反論しても負ける。
光体がふわふわと近づいてきた。
「また、くる?」
悟志は少しだけ屈み、光体を見る。
「たぶん、来る」
「たぶん?」
「今は、そう言っておく」
光体は小さく揺れた。
「まつ」
ピーコも羽を広げた。
「またね!」
ノアは小さく頭を下げた。
「ロキ様、朋美様。今日見たことを、すぐに答えにしないでください」
朋美が頷いた。
「分かったわ」
悟志も、ゆっくり頷いた。
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
ノアはまだ少し疑っているようだった。
だが、それ以上は言わなかった。
悟志と朋美は、水面の光の前に立った。
向こう側には、水鏡神社の池が揺れているように見える。
来る時よりも、戻る方が怖かった。
こちらが夢ではないと、もう分かってしまったからだ。
朋美が悟志の手を取った。
「帰りましょう」
「ああ」
二人は水面へ足を踏み入れた。
薄青い空が遠ざかる。
巨大な樹も、白い神殿も、ノアの小さな姿も、光の中に溶けていく。
最後に、ノアの声が届いた。
「急がないでください」
次に目を開けると、二人は水鏡神社の池の前に立っていた。
満月は、まだ水面に映っていた。
風が吹き、木の葉が揺れる。
遠くから車の音が聞こえた。
現実の音だった。
朋美は悟志の手を離さず、時計を見た。
「……ほとんど時間が経っていない」
悟志もスマートフォンを確認した。
水鏡に入る前から、数分しか経っていなかった。
あれだけのことがあったのに。
あの場所でノアと話し、光体とピーコに会い、神殿を見たのに。
こちらでは、数分。
朋美が静かに言った。
「これは、散歩では済まなくなったわね」
悟志は池を見た。
もう波紋はない。
ただの池に戻っている。
満月を映す、静かな水面。
「そうだな」
悟志は答えた。
「でも、まだ答えにしない」
朋美は頷いた。
「まず真人さんに連絡した方がいいわ。約束していたでしょう」
「ああ」
悟志はスマートフォンを取り出した。
何もなければ、何もなかったと教えろ。
何かあったなら、その時は聞く。
真人の言葉を思い出す。
悟志は短くメッセージを打った。
何かあった。今から話せるか。
送信してから、悟志は水鏡の池を見た。
そこにはもう、ただの月だけが映っていた。




