第2話 平穏な朝に走るノイズ
朝の光は、すでにリビングの床まで届いていた。
悟志は寝室の入口で一度だけ振り返った。隣では、妻の朋美がまだ静かに眠っている。起こさないように扉をそっと閉めると、廊下の先からセキセイインコの小さな鳴き声が聞こえた。
愛犬のベルも、その声に反応したのか、軽い爪音を立てながら悟志の足元へ近づいてくる。
昨日までと何も変わらない、いつもの朝のはずだった。
「おはよう、ピーコ」
かごの中で、セキセイインコのピーコが首をかしげていた。悟志を見るなり、羽をふくらませて短く鳴く。
「ピーコ、おはよ!」
その隣で、愛犬のベルが尻尾を振りながら近づいてきた。悟志はしゃがみ込み、ベルの頭を撫でる。
「お前たちは朝から元気だな」
いつもと同じ朝だった。
コーヒーメーカーのスイッチを入れる。豆の香りがゆっくりと部屋に広がっていく。その匂いを吸い込むと、悟志は少しだけ落ち着いた。
リビングの窓を開けると、初夏の空気が流れ込んできた。街はまだ完全には目覚めていない。けれど、遠くの道路には少しずつ車が増え始めていた。誰かが会社へ向かい、誰かが学校へ向かい、誰かが今日の生活を始めようとしている。
平穏だった。
けれど悟志は、なぜかその平穏を見ていると、胸の奥にかすかな不安を覚えた。
自分が幼い頃から恐れていた、あの感覚。
目に映るものが、いつか消えてしまうかもしれないという不安。
記憶も、日常も、人の命も、何ひとつ永遠ではないという感覚。
悟志は窓の外の空を見上げた。
青くなる直前の空に、白い雲が薄く伸びている。どこにでもある朝の空だった。
それなのに、一瞬だけ、空の色が不自然に揺れたように見えた。
悟志は眉をひそめた。
「……気のせいか」
そうつぶやいた時、背後から朋美の声がした。
「朝から空とにらめっこ?」
振り返ると、朋美が眠そうな顔で立っていた。肩に薄いカーディガンを羽織り、髪を軽くまとめている。
「おはよう。起こした?」
「ううん。ピーコの声で起きたの」
ピーコは自分の名前を呼ばれたことが分かったのか、かごの中で得意げに鳴いた。
朋美はキッチンに立ち、朝食の準備を始めた。悟志はコーヒーカップを二つ並べる。特別な会話はない。卵を焼く音、皿を置く音、ピーコの鳴き声、ベルの足音。それらが混ざり合い、日常の音になっていた。
「今日は研究所?」
「うん。昨日のログをもう一度見たい」
「また何か気になるデータ?」
朋美はそう言いながらも、驚いた様子はなかった。悟志が小さな違和感を放っておけない性格だと、彼女はよく知っていた。
「大きな発見ってほどじゃない。ただ、観測時刻の一部が少しずれている」
「機器の問題じゃなくて?」
「その可能性が一番高い。でも、複数の装置で同じずれが出ている」
朋美は少し考えてから、皿をテーブルに置いた。
「なら、焦らず確認した方がいいわね。結論を急ぐと、見えるものも見えなくなるから」
悟志は苦笑した。
「数学者らしい言い方だな」
「あなたがすぐ遠くまで考えすぎるからよ」
朋美の声には、からかうような柔らかさがあった。
悟志はその言葉に救われることがあった。彼女は悟志の探究心を否定しない。けれど、彼が考えすぎて現実から離れそうになると、そっと引き戻してくれる。
朝食を終えた悟志は、ノートパソコンと資料を鞄に入れた。玄関で靴を履いていると、朋美が後ろから声をかけた。
「悟志」
「ん?」
「何か分かったら、ちゃんと話してね。一人で抱え込まないで」
悟志は一瞬だけ黙った。
幼い頃から、彼は分からないことを一人で考える癖があった。死のことも、記憶のことも、宇宙のことも、誰かにうまく説明できないまま、自分の中で抱え込んできた。
だが今は違う。
「分かった。ちゃんと話すよ」
朋美は小さく頷いた。
悟志はベルの頭を撫で、ピーコに「行ってくる」と声をかけて家を出た。
外に出ると、朝の光はさっきよりも強くなっていた。街は完全に目覚め始めている。駅へ向かう人々、自転車で通り過ぎる学生、コンビニの前で缶コーヒーを開ける会社員。
誰も空の揺らぎになど気づいていない。
悟志は自転車に乗り、研究所へ向かった。
研究所に着くと、受付を通り、いつもの廊下を歩いた。白い壁、静かな照明、機械の低い稼働音。ここに来ると、悟志の意識は自然と研究者のものに切り替わる。
研究室の扉を開けると、高原彗がすでにモニターの前に座っていた。
「おはようございます、小泉先生」
「早いな、高原」
「昨日のログが気になって、先に見ていました」
高原は二十五歳だった。大学は経済的な事情で途中で離れたが、その後も独学で学び続け、データ処理や実験補助に関しては研究室の誰よりも手が早い。正規の道を歩いてきたわけではない。そのことを本人も気にしていたが、悟志は彼の観察眼を評価していた。
高原はモニターに表示されたグラフを指差した。
「先生、やっぱり変です。三つの装置で同じ時間帯にずれが出ています。誤差にしては揃いすぎています」
「ノイズの可能性は?」
「最初はそう思いました。でも、環境ログには異常がありません。温度も振動も電源も安定しています」
悟志は椅子に座り、画面を見つめた。
データの上では、ほんの小さなずれだった。普通なら、調整ミスとして処理されてもおかしくない。しかし、悟志にはそのわずかなずれが妙に引っかかった。
高原が言った。
「先生、こういう時って、普通はまず装置を疑うべきですよね」
「そうだな」
「でも、もし装置が正常なら……何を疑うべきなんでしょうか」
悟志はすぐには答えなかった。
研究室の空調音が静かに響いている。モニターの光が二人の顔を照らしていた。
「まず、私たちの見方を疑う」
高原は少し驚いた顔をした。
「見方、ですか」
「世界は、見えている通りに存在しているとは限らない。少なくとも、研究者はそう考える余地を残しておくべきだ」
高原は画面に視線を戻した。
「それは……科学というより、哲学に近いですね」
「境界はそんなにはっきりしていないよ」
悟志はそう言って、昨日のデータを別の形式で表示した。時刻、座標、信号の強度。何度見ても、ずれは一定のパターンを持っているように見えた。
その時、高原が小さく声を上げた。
「先生、これ……変な文字列が混じっています」
「文字列?」
高原はログの一部を拡大した。通常なら装置番号や記録形式が並ぶはずの場所に、意味の分からない短い記号が残っていた。
悟志は画面に顔を近づける。
そこには、こう表示されていた。
IRIS
高原が不安げに言った。
「アイリス……ですか? 装置名にはありませんよね」
「ない」
悟志の声は、自分でも分かるほど低くなっていた。
その瞬間、彼の脳裏に、朝の空が一瞬だけ揺らいだ光景がよみがえった。
偶然かもしれない。
機器の誤作動かもしれない。
誰かのいたずらかもしれない。
そう考えるべきだった。
だが、悟志の胸の奥では、幼い頃から消えなかった問いが、静かに目を覚まし始めていた。
世界は、本当に見えている通りなのか。
モニターの光の中で、IRISという四文字だけが、妙に冷たく輝いていた。




