第1話 死へのジェットコースター
四歳の小泉悟志は、母の手を握りしめたまま、黒い服を着た大人たちの間に立っていた。
部屋の中には、いつもと違う匂いがしていた。花の匂いと、線香の匂い。誰も大きな声を出さない。大人たちは小さな声で話し、時々、目元を押さえていた。
悟志には、その静けさが怖かった。
母の知り合いの女性が亡くなったのだと聞かされても、最初はよく分からなかった。眠っているのとは違うのか。遠くへ行ったのとは違うのか。あとでまた会えるのではないのか。
悟志は母を見上げ、小さな声で尋ねた。
「亡くなったら、どうなるの?」
母はすぐには答えなかった。
少しだけ困ったように目を伏せ、悟志の手を握り返した。その手は温かかった。けれど、母の声はいつもより少しだけ寂しそうだった。
「もう、会えなくなるの」
その言葉を聞いた瞬間、悟志の中で何かが止まった。
もう会えない。
それがどれほど長い時間なのか、彼には分からなかった。けれど、取り返しがつかないということだけは分かった。
もう一度話すこともできない。
もう一度笑ってもらうこともできない。
どれだけ会いたいと思っても、会えない。
悟志は母の手を強く握った。
「お母さんも?」
母は驚いたように悟志を見た。
悟志は続けた。
「僕も?」
母は答えに詰まった。
その沈黙だけで、悟志には十分だった。
その日の夜、悟志は布団の中で眠れなかった。
部屋は暗く、窓の外から街灯の薄い光が差し込んでいた。天井の木目がぼんやりと見える。家の中は静かで、母も兄も眠っている。
けれど、悟志だけは目を閉じられなかった。
人はいつか死ぬ。
母も、兄も、自分も。
今日まで当たり前のように続いていたものが、いつか突然終わる。
そう考えた瞬間、悟志は自分が大きな乗り物に乗せられているような感覚に襲われた。
それは、降りることのできないジェットコースターだった。
生まれた時から、もう動き出している。
途中で止めることはできない。
怖くなっても、戻りたいと思っても、時間は前にしか進まない。
楽しい日も、悲しい日も、何も分からないまま過ぎていく。
そして、その先には誰もはっきり説明してくれない終点がある。
悟志は布団をぎゅっと握りしめた。
「どうして……生きてるんだろう」
声に出したつもりはなかった。
けれど、その言葉は暗い部屋の中に小さく落ちた。
その恐怖には、前触れがあった。
悟志が三歳の頃、母と兄が食卓で前年の大きな地震について話していたことがある。
「棚の上のものが落ちてきて、大変だったよね」
兄がそう言うと、母は頷いた。
「悟志を抱っこして外に出たのよ。あなたも怖がっていたわね」
悟志はスプーンを持ったまま、二人の顔を見比べた。
「僕もいたの?」
母は少し驚いて、それから優しく笑った。
「いたわよ。まだ小さかったけどね」
悟志は何も思い出せなかった。
揺れたことも。
母に抱かれたことも。
怖がったことも。
外に出たことも。
自分はそこにいたはずなのに、自分の中には何も残っていない。
そのことが、たまらなく怖かった。
昨日の自分。
去年の自分。
小さかった自分。
確かに生きていたはずの時間が、いつの間にか消えている。
それから悟志は、何かを見るたび、何かを聞くたび、心の中で繰り返すようになった。
忘れない。
これは、僕が見たことだ。
これは、僕がここにいた証拠だ。
けれど、忘れないようにしようと思えば思うほど、彼は気づいてしまった。
人は、全部を覚えてはいられない。
時間は、手の中からこぼれていく。
そして最後には、自分自身さえ、この世界からいなくなる。
忘れること。
死ぬこと。
その二つは、幼い悟志の中で、同じ暗闇につながっていた。
ある日、母が悟志を本屋に連れて行った。
「今日は好きな本を一冊選んでいいわよ」
店内には、色とりどりの表紙が並んでいた。恐竜の本、電車の本、動物の本。兄ならきっと迷わず好きな本を選べるのだろうと思った。
けれど、悟志の足は絵本の棚では止まらなかった。
少し奥に、子供向けの科学の本が並んでいた。
一冊の表紙には、青い地球と星々が描かれていた。
もう一冊には、心臓や骨、血管の絵が描かれていた。
悟志は二冊を手に取った。
宇宙の本。
人間の体の本。
母のところへ戻ると、母は少し困った顔をした。
「一冊って言ったでしょう?」
悟志は二冊を胸に抱えたまま、黙って首を振った。
「どっちも知りたい」
母はしばらく悟志を見つめていた。
怒られるかもしれないと思った。
けれど、母は小さくため息をつき、それから笑った。
「仕方ないわね。今日は特別よ」
その夜、悟志は布団の中で、買ってもらった本を開いた。
宇宙のページには、地球が小さな青い星として描かれていた。太陽があり、月があり、もっと遠くには数えきれないほどの星がある。自分の家も、街も、地球の上にあって、その地球さえ宇宙の中では小さな存在なのだと知った。
人体の本には、心臓や脳の仕組みが描かれていた。心臓は休まず動き、血液は体を巡り、脳は考え、感じ、記憶すると書かれていた。
悟志は自分の胸に手を当てた。
とくん、とくん、と心臓が動いている。
自分の体の中で、何かが働いている。
自分が怖がっているこの命にも、仕組みがある。
空の向こうに広がる宇宙にも、きっと理由がある。
知れば、少しは怖くなくなるかもしれない。
悟志はそう思った。
死を消すことはできない。
時間を戻すこともできない。
忘れた記憶をすべて取り戻すこともできない。
それでも、知ることはできる。
なぜ生きているのか。
体はどうやって動いているのか。
宇宙はどこまで続いているのか。
自分が見ているこの世界は、本当にすべてなのか。
その問いは、悟志の中で消えなかった。
小学生になっても、中学生になっても、大人になっても、夜になると時々、あの感覚が戻ってきた。
降りられないジェットコースターに乗っているような、時間に運ばれていく感覚。
けれど、もうただ震えるだけではなかった。
怖いからこそ、知りたかった。
分からないからこそ、確かめたかった。
やがて小泉悟志は、物理学者になった。
誰かに命じられたからではない。
名声が欲しかったからでもない。
幼い夜に胸を締めつけた、あの問いの続きを追いかけているだけだった。
世界はどうできているのか。
人はなぜ意識を持つのか。
記憶とは何なのか。
見えている現実は、本当に現実なのか。
三十五歳になった今も、その問いは彼の中に残っていた。
そして、ある初夏の朝。
東京のマンションで、目覚まし時計が鳴った。
悟志はゆっくりと目を開けた。
窓の向こうには、いつもと変わらない朝の光が差し込んでいる。
隣では、妻の朋美が静かに眠っていた。
リビングからは、セキセイインコのピーコの小さな鳴き声が聞こえる。
愛犬のベルが廊下を歩く爪音もした。
平穏な朝だった。
悟志は布団から起き上がり、窓の外の空を見た。
青く澄んだ、何の変哲もない空。
けれど彼はまだ知らなかった。
その空の向こうにあるものが、幼い頃から追い続けてきた問いの答えへとつながっていることを。
そして、その答えが、彼の大切な日常を静かに揺らし始めることを。




