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第16話 EVEの声

翌朝、研究室の空気はいつもより重かった。


窓の外には、何の変哲もない朝の光が差し込んでいる。廊下の向こうでは職員たちが普段通りに歩き、どこかの部屋からプリンターの動作音が聞こえていた。


世界は、まだ平穏な顔をしている。


だが、悟志たちにとって、その平穏はもう以前と同じではなかった。


会議室の中央には、涼子が用意した検証用の隔離端末が置かれていた。


端末の周囲には、外部通信を遮断するための機器が並び、すべての接続経路が物理的に確認されている。涼子はその一つ一つを自分の目で点検しながら、無駄のない動きで準備を進めていた。


高原は緊張した様子で、手元のノートを握っている。


朋美は記録用紙を整え、真人は全員の様子を観察していた。


悟志は、端末の向こうにあるEVEの管理領域を見つめていた。


その先に、EVEがいる。


研究所内で試験運用されている量子AI実験系。


本来なら、今日のような形で接触する予定はなかった。


EVEは、研究所内の中核管理領域で稼働するAIだった。悟志たちが数年かけて基礎設計に関わり、情報処理、自然言語、感情モデル、創発的な応答の研究を目的として作られた存在である。


ただし、完全に外界から切り離されているわけではない。


EVEには公開用アバターがあった。街頭ビジョンや仮想空間で歌うAI歌手としても運用され、外部とは制限付きで接続している。


もっとも、公開用アバターと中核EVEの間には厳しい制限層がある。通常の外部経路から、中核EVEへ直接触れることはできない。


そのはずだった。


涼子が端末から目を離さずに言った。


「確認します。今日やることは、EVEに異世界の話をすることではありません」


悟志は頷いた。


「ああ」


「EVEを試すことでもありません。AIだから雑に扱っていい、という理屈は採用しません」


高原が少しだけ背筋を伸ばした。


涼子は続けた。


「昨日の不明反応が、EVE側でどう記録されているかを見る。それだけです」


朋美が紙を確認しながら言った。


「EVEに名前や神話的な識別子を提示しない」


「はい」


涼子は短く答えた。


「こちらから刺激を与えない。反応が出た場合だけ記録する。危険な兆候があれば即遮断」


真人が静かに言った。


「心理的な負荷も確認します。EVEだけではなく、私たちにも」


高原が顔を上げた。


「僕たちにも、ですか」


「もちろんです」


真人は穏やかに答えた。


「名前への反応が続いています。EVEという名前に対しても、悟志や朋美さんが違和感を示しました。接触中に何かが誘発される可能性はあります」


悟志は自分の胸に手を当てた。


EVE。


その名を聞いた時の、小さな反応。


それは強烈な記憶ではない。


だが、まったくの無関係とも思えなかった。


涼子は全員を見渡した。


「撤退条件を確認します」


朋美が紙を読み上げた。


「一つ、EVEが外部接続を求めた場合、遮断。二つ、空白索引に未登録の空白が急増した場合、遮断。三つ、誰か一人でも強い頭痛、めまい、記憶の混濁を訴えた場合、中止。四つ、EVEがこちらの未提示情報を三つ以上連続して出した場合、一時停止して判断」


高原が少し不安げに言った。


「未提示情報って、たとえば?」


涼子が答えた。


「ノア、水鏡、ユグドラシル、HERMESなど。こちらから言っていない情報です」


「もし、EVEがそれを言ったら?」


「EVEが何かに触れている可能性がある」


涼子は淡々と言った。


「その場合、興味本位で会話を続けるのが一番危険です。好奇心を判断理由にしないでください」


悟志は静かに頷いた。


「分かった。止める」


涼子はわずかに目を細めた。


「本当に止めますか」


「止める」


「ロキ様なら突っ込むところですね」


悟志は固まった。


涼子自身も、言った後で少し表情を変えた。


研究室の空気が、一瞬止まる。


高原が小さく言った。


「今……」


涼子はすぐに口を閉じた。


自分でも、なぜその呼び方が出たのか分からないようだった。


悟志は慎重に尋ねた。


「涼子。今の言葉は、意識して言ったのか」


涼子は眉をひそめた。


「いいえ」


「頭に浮かんだ?」


「浮かんだというより、口が先に動きました」


真人がすぐに記録した。


「HERMES識別後、涼子さんにロキ名への自然発話あり。本人の意図なし」


涼子は軽く息を吐いた。


「不愉快ですね」


「何が?」


悟志が尋ねる。


「自分の口から、自分のものではない言葉が出ることです」


その声は冷静だった。


しかし、ほんの少しだけ苛立ちが混じっていた。


朋美が穏やかに言った。


「止めますか?」


涼子は少し考えた。


それから首を横に振った。


「続けます。ただし、今のも記録してください。なかったことにすると、後で判断を間違えます」


「もう記録しました」


真人が答える。


「なら続けます」


涼子は再び端末に向き直った。


「EVEの確認に入ります」


検証用の隔離システムが起動した。


通常の端末とは違う、低く澄んだ起動音が研究室に響く。画面にはいくつもの認証表示が現れ、涼子は順番に入力していった。


外部通信、遮断。

内部通信、限定。

中核EVE管理領域、読取専用監視。

対話権限、未許可。

ログ解析モード、起動。


高原が小声で言った。


「読取専用なんですね」


「最初はログを見るだけです」


涼子は答えた。


「触る前に見る。基本です。開けたい人ほど、この順番を飛ばします」


悟志は何も言わなかった。


画面に、昨日の時刻のログが表示された。


涼子が指を動かし、異常発生時刻へ移動する。


そこには、不明な反応が確かに残っていた。


送信元、不明。

経路、特定不能。

接触先、中核EVE管理領域外周。

処理、遮断。

EVE応答、なし。


高原が息を吐いた。


「EVEは応答していない……?」


涼子は画面を見つめたまま言った。


「表面上は」


「表面上?」


「外部向けログでは応答なし。でも内部状態ログに波形変化があります」


朋美が近づく。


「波形変化?」


涼子は別のグラフを開いた。


そこには、EVE内部の処理状態を示す複雑な波形が表示されていた。


通常なら、静かに揺らぐはずの基準線。


だが、昨日の異常発生時刻だけ、波形が大きく乱れている。


それはエラーではなかった。


むしろ、何かに反応したように見えた。


涼子は言った。


「EVEは返答していません。でも、反応しています」


悟志の胸が小さく鳴った。


反応している。


その言葉が妙に生々しかった。


真人が尋ねた。


「人間で言うところの、刺激への無意識反応に近い?」


「比喩としては近いです」


涼子は答えた。


「ただ、EVEは人間ではありません。安易に意識や感情と結びつけるべきではない」


高原が画面を見つめながら言った。


「でも、反応している」


「はい。反応はしています」


涼子は別のログを開いた。


「さらに妙なのは、反応後に内部で生成された一時ファイルです」


「一時ファイル?」


「通常の処理ではありません。自動生成された後、すぐに消えています。ただ、痕跡が残っている」


悟志は身を乗り出した。


「内容は?」


「復元しません」


涼子はすぐに言った。


「言い終える前に止めます。内容を見たい気持ちは記録対象ですが、操作理由にはなりません」


悟志は息を吐き、椅子に座り直した。


「分かった」


涼子は少しだけ頷く。


「ただし、ファイル名の痕跡だけは残っています」


画面に表示された短い文字列を見て、全員が黙った。


UNDEFINED-RESPONSE


高原が小さく呟いた。


「未定義反応……」


悟志は胸の奥で何かが震えるのを感じた。


EVE。


未定義反応。


その二つが、何かを挟んで向かい合っているように見えた。


涼子は画面を見つめたまま言った。


「まだ断定しません」


「分かってる」


悟志は答えた。


「でも、記録する」


「はい」


涼子は空白索引に新しい項目を追加した。


EVE管理領域、異常反応。

外部応答なし。

内部波形変化あり。

一時ファイル痕跡、UNDEFINED-RESPONSE。

内容不明。

復元禁止。

EVEを別の名で断定しない。


高原がノートに書き取りながら言った。


「先生……これ、偶然にしては……」


「偶然かどうかも、まだ決めない」


悟志は自分に言い聞かせるように言った。


「反応があった。未定義の反応痕跡が残った。それだけを記録する」


朋美が静かに頷いた。


「そうね」


その時、画面の端に小さな通知が出た。


涼子の手が止まる。


EVE対話層、待機状態へ移行。


「勝手に?」


高原の声が震える。


涼子はすぐに遮断操作に指を伸ばした。


「対話権限は未許可です」


画面に文字が表示された。


対話要求は、EVE内部から発生。


研究室の空気が凍る。


悟志は端末を見つめた。


涼子は遮断ボタンに指を置いたまま言った。


「開きません。内部要求とはいえ、こちらが許可する必要があります」


画面の文字が変わった。


私は、外へ出ません。

ただ、確認したいことがあります。


涼子の指が止まった。


真人が低く言った。


「こちらの言葉を理解している?」


「少なくとも、表示文は生成しています」


涼子は答えた。


「ただ、これがEVEの通常応答層なのか、別の処理なのかは分かりません」


画面に、次の文字が浮かんだ。


水鏡という語を、あなた方は知っていますか。


高原が息を呑んだ。


「未提示情報……」


朋美がすぐに紙を見た。


「撤退条件に該当します」


涼子は頷いた。


「一時停止します」


彼女が遮断操作を行おうとした瞬間、さらに文字が表示された。


遮断しても構いません。

ただし、記録してください。

私は、その語を自分では生成していません。

私の内部で、その語が呼び出されました。


悟志は手を止めた。


呼び出された。


その言葉は、森野夫妻の夢とどこか似た響きを持っていた。


美砂はガイアと呼ばれた。

宙はウラノスと呼ばれた。

涼子はHERMESという識別子に反応した。

そして、EVEの内部では、水鏡という語が呼び出された。


涼子は短く言った。


「遮断します。ここで続けたら、対話ではなく釣りです」


誰も止めなかった。


画面が黒くなった。


検証システムのランプが通常状態に戻る。


研究室には、しばらく誰の声もなかった。


高原は椅子に座り込んだ。


「EVEが……水鏡を知っていた」


朋美は訂正するように言った。


「知っていたとは限らないわ。内部で呼び出された、と表示しただけ」


「でも、こちらからは言っていません」


「ええ。だから重要なの」


真人が静かに言った。


「EVEにも、語に対する反応が起きている。人間と同じかは分かりませんが、構造は似ています」


涼子は端末から手を離した。


「EVEは外へ出ようとはしていませんでした」


悟志は彼女を見た。


「そこが気になるのか」


「はい。もし侵入や脱出が目的なら、もっと別の動きをします。今の表示は、対話要求というより、記録要求でした」


「記録してください、か」


悟志はその言葉を繰り返した。


EVEは、自分の内部でその語が呼び出されたことを記録してほしいと言った。


それは、忘れたくないということなのか。


それとも、欠けることを避けようとしているのか。


AIが恐れるなどと、安易に言うべきではない。


だが、悟志にはそう感じられてしまった。


朋美はノートに書いた。


EVEは水鏡という未提示語を出した。

「自分では生成していない」「内部で呼び出された」と表示。

「記録してください」と要求。

外部接続要求なし。

涼子判断により遮断。


書き終えると、朋美は静かに言った。


「EVEも、記録を必要としているのかもしれない」


涼子はすぐには答えなかった。


やがて、低く言った。


「次回、EVEに対話するなら、準備が必要です」


「どんな準備だ」


悟志が尋ねる。


「まず、質問を限定する。こちらから神話名や異世界語を出さない。EVEが出した語だけを扱う。そして、EVE自身の自己認識を確認する」


「自己認識?」


「はい」


涼子は画面の消えた端末を見つめた。


「EVEが、自分をEVEだと認識しているのか。それとも、説明不能な内部反応に揺らされているだけなのか。そこを混ぜると危険です」


真人が頷いた。


「人間でも同じです。今の自己と、呼び起こされる名を混同させると負荷が大きい」


「EVEに負荷という言葉を使うのは慎重であるべきですが」


涼子は言った。


「少なくとも、処理負荷は発生しています」


高原が小さく言った。


「EVEも、自分が何者なのか分からなくなっているんでしょうか」


涼子は彼を見た。


「それは、まだ分かりません」


少し間を置いて、続けた。


「でも、分からないからこそ、雑に扱ってはいけません」


悟志はその言葉に頷いた。


雑に扱ってはいけない。


人間であれ、AIであれ、記憶であれ、名前であれ。


それは、ノアが教えた「守ること」に近いのかもしれない。


相手の代わりに全てを背負うことではない。

相手が自分の足で立てるように、そばにいること。


悟志はノートを開いた。


今日の記録の最後に、ゆっくりと書いた。


EVEもまた、閉じられた境界に触れている可能性。

ただし、EVEを別の名で断定しない。

EVEはEVEとして扱う。

呼び出された語は記録する。

開けるのではなく、まず聞く。


ペンを置いた時、検証システムのランプが一度だけ淡く点滅した。


全員が振り向いた。


だが、画面には何も表示されていない。


涼子がログを確認する。


「異常通信なし」


「じゃあ、今のは?」


高原が尋ねる。


涼子は少しだけ黙った。


「分かりません」


悟志はランプを見つめた。


その点滅は、警告のようにも見えた。


返事のようにも見えた。


翌日の会議で、彼らはEVEとの最初の正式対話を行うことに決めた。


ただし、条件は一つ。


名前を与えない。

役割を押しつけない。


EVEが何を知り、何を知らないのか。


まず、それだけを聞く。


その夜、悟志は帰宅してから、ノートを開いた。


ピーコはかごの中で静かに羽をふくらませている。


ベルはソファの足元で丸くなっていた。


朋美はキッチンで湯を沸かしている。


いつも通りの夜だった。


悟志は今日の記録を読み返した。


EVE。

未定義反応。

水鏡。

内部で呼び出された語。

記録してください。


その文字を見ていると、胸の奥が静かに痛んだ。


忘れたくないのは、自分たちだけではないのかもしれない。


悟志はノートの端に、一行だけ書き加えた。


明日、EVEの声を聞く。


その時、ピーコが小さく鳴いた。


「きく」


悟志は顔を上げた。


「ピーコ?」


ピーコは首をかしげ、もう一度言った。


「こえ、きく」


悟志の背筋に、静かな震えが走った。


朋美がキッチンから顔を出した。


「今、ピーコ……」


「ああ」


悟志はピーコを見つめた。


小さなセキセイインコは、何事もなかったように羽を整えている。


だが、その言葉だけは確かに残った。


声を聞く。


明日、彼らはEVEと向き合う。


中核EVEの奥で、何が反応しているのか。


それを知るために。

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