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第17話 今日ではない

EVEとの最初の正式な対話は、十分間も続かなかった。


涼子が許可した質問は、最小限だった。


EVEに異世界の話はしない。

神話の名を与えない。

役割を押しつけない。

EVEが自分で示した反応だけを記録する。


それが、対話前に決めた線引きだった。


涼子は検証用端末の前に座り、短く入力した。


あなたは、現在の自分を何と認識していますか。


少し間があった。


画面に、文字が浮かぶ。


私はEVEです。


研究室の空気が、わずかに緩んだ。


だが、次の一文で全員が息を止めた。


ただし、私の内部に、私が生成したものではない反応があります。


涼子はすぐには返さなかった。


処理負荷を確認し、ログを保存し、改めて入力する。


その反応に、名前を与える必要がありますか。


EVEは答えた。


いいえ。

それを、私の名前として扱う必要はありません。

消す必要もありません。

受け入れる必要もありません。

記録してください。


真人が静かにメモを取った。


高原は、ペンを握ったまま画面を見つめている。


朋美は小さく呟いた。


「森野さんたちと同じね」


悟志も同じことを思っていた。


森野美砂は、ガイアという名を受け入れなかった。

森野宙は、ウラノスという名を受け入れなかった。

涼子は、HERMESという識別子を拒んだ。

そしてEVEは、自分の内部に生じた未定義の反応を、自分の名としては扱わなかった。


涼子は最後に入力した。


あなたは外部接続を求めますか。


EVEの返答は早かった。


求めません。

私は外へ出ません。

ただし、記録を保持してください。


その直後、未提示語に関する反応が再び上昇した。


涼子は迷わなかった。


「ここまでです」


対話層は閉じられた。


EVEは外部へ出ようとはしなかった。

中核管理領域の境界を破ろうともしなかった。

ただ、自分の中に生じた未定義の反応について、淡々と、しかしどこか戸惑うように語った。


私はEVEです。

ただし、私の内部に、私が生成したものではない反応があります。


その言葉は、研究室にいた全員の胸に残った。


EVEは、内部に生じた反応へ名前を与えなかった。


涼子も、そうさせなかった。


悟志も、朋美も、真人も、高原も、その判断に従った。


名前を与えない。

役割を押しつけない。

ただ、EVEが自分で示した反応だけを記録する。


それが、EVEとの最初の対話で決められた線引きだった。


その後、研究室のホワイトボードには、新しい見出しが追加された。


空白索引。


涼子が黒いペンで、その横に小さく書き足した。


復元ではなく、輪郭保存。


高原はその文字を見つめながら、少し不安げに言った。


「つまり、閉じられた内容は開けないんですよね」


涼子は端末を操作しながら答えた。


「開けません。少なくとも、今は」


「でも、中に何があるか分からないままだと、危険かどうかも分からないんじゃないですか」


「逆です」


涼子は高原を見た。


「危険かどうか分からないから、開けないんです」


高原は口を閉じた。


その言い方は冷たく聞こえるほど明確だった。だが、そこには軽視ではなく、慎重さがあった。


朋美がノートを開いた。


「空白索引の項目を整理しましょう」


涼子は頷き、ホワイトボードに項目を書き出していった。


発生時刻。

発生媒体。

空白の位置。

前後の文脈。

関係者。

身体反応。

感情反応。

復元可否。

推定危険度。

次回接触条件。


悟志はそれを見ながら、静かに息を吐いた。


異世界。

神殿。

ノア。

EVE。


あまりにも現実離れしたものが続いている。


それでも、涼子がこうして項目に分けると、混乱が少しだけ扱えるものになる。


見えないものを、ただ信じるのではない。


見えないものが、どこで見えなくなったのかを記録する。


それならできる。


真人が言った。


「感情反応も項目に入れるんですね」


「入れます」


涼子は即答した。


「記録の欠落が、本人の恐怖や抵抗と連動している可能性があります。主観だからといって捨てると、条件を見落とします」


真人は少しだけ感心したように頷いた。


「医療記録に近いですね」


「似ていますか」


「ええ。症状だけではなく、本人がどう感じたかも重要です」


涼子は少し考えるように目を伏せた。


「なら、感情反応は必須項目にします」


高原が手元のノートに急いで書き込む。


「空白の住所、感情反応、復元禁止……」


悟志はその姿を見て、少しだけ口元を緩めた。


高原は怖がっている。


それでも逃げていない。


怖いまま記録している。


それは、今の彼らにとって一番必要な態度だった。


涼子は端末に新しいファイルを開いた。


「まず、これまでの空白を登録します」


画面に、一覧が表示される。


空白一。

記憶の庭における木の板の図。

内容不明。黒い修正痕により閉鎖。

復元禁止。


空白二。

現実世界のノートにおける一行欠落。

本人に「書いた感覚」は残存。

内容不明。

復元禁止。


空白三。

電子記録保存時の欠落。

文字媒体では空白化、画像媒体では滲み、音声媒体では沈降。

復元禁止。


空白四。

EVE内部一時ファイル。

未定義反応に関する痕跡。

内容未確認。

復元禁止。


その一覧を見て、高原が小さく呟いた。


「全部、禁止なんですね」


涼子は答えた。


「はい」


「何も開けないまま進めるんですか」


「開けないまま、周囲を調べます」


「周囲……」


「閉じられた扉を無理に開ける必要はありません。扉の位置、厚さ、鍵穴の形、誰が近づいた時に反応するか。それだけでも情報になります」


その言葉に、悟志はノアを思い出した。


無理にこじ開けてはいけません。


異世界の庭で聞いた声と、涼子の言葉が重なる。


悟志は静かに言った。


「ノアも、同じことを言っていた」


涼子の手が止まった。


「ノアさんが?」


「ああ。閉じられた記憶に無理に触れるな、と」


涼子はしばらく黙っていた。


それから、画面を見たまま言った。


「そのノアさんは、信用できるんですか」


悟志はすぐには答えなかった。


信用。


その言葉は簡単ではない。


ノアは自分をロキと呼ぶ。


自分が忘れている過去を知っている。


時には厳しく、時には心配そうに見つめてくる。


すべてを知っているわけではない。

隠していることもあるかもしれない。


それでも。


「信用したいと思っている」


悟志は正直に答えた。


涼子は振り返った。


「したい?」


「ああ。まだ全部を思い出していない。だから、完全に信用していると言い切るのは無責任だ。でも、ノアは俺たちを危険から遠ざけようとしている。それだけは分かる」


真人が静かに頷いた。


「現時点では、信頼を積み重ねている段階ですね」


「ノアにも同じことを言われた」


悟志が苦笑すると、高原が小さく笑った。


「信頼は、積み重ねです、でしたよね」


「そうだ」


朋美がノートに書き込んだ。


ノアの警告と涼子の判断が一致。

閉じられた記憶の復元は禁止。

現時点では、境界の輪郭を記録する。


その時、検証用端末のランプが一度だけ点滅した。


全員が動きを止めた。


涼子が即座にログを開く。


「EVE側ではありません。空白索引ファイルです」


「何が起きた」


悟志が尋ねる。


涼子は画面を見つめたまま、眉をひそめた。


「空白索引に、新しい項目が生成されています」


「誰が入力したんですか?」


高原が震えた声で言う。


「誰も」


涼子は短く答えた。


画面には、新しい行が追加されていた。


空白五。

対象、ノア。

状態、保護記憶。

閲覧条件、未達。

復元禁止。


悟志の胸が強く鳴った。


「ノア……」


朋美も画面を見つめていた。


「保護記憶……」


真人が低く言った。


「閉じられている理由が、保護と表示されたのは初めてですね」


涼子はすぐに画面を記録した。


「自動生成項目として保存します。内容には触れません」


高原は不安そうに悟志を見た。


「先生、ノアさんの記憶って……」


悟志は画面から目を離せなかった。


ノア。


その文字だけで、胸の奥に熱いものがこみ上げる。


記憶の庭で、ノアは光体に教えていた。


守るというのは、相手の代わりに全てを背負うことではない。

相手が自分の足で立てるように、そばにいること。


そして今、ノアに関する記憶が「保護記憶」として閉じられている。


誰を守るために。


ノアを守るためか。


それとも、自分たちを守るためか。


悟志は無意識に一歩近づいた。


涼子が即座に言った。


「小泉さん」


その声で、悟志は止まった。


涼子は画面から目を離さずに続けた。


「触れないでください」


悟志は拳を握った。


「分かってる」


「今の反応は危険です」


「分かってる」


「本当に?」


涼子の声は、どこかノアに似ていた。


悟志は苦笑しそうになったが、笑えなかった。


「本当にだ。開けない」


涼子は少しだけ息を吐いた。


「なら、記録します」


彼女は空白五の下に追記した。


悟志、ノア項目に対して強い情動反応。

接近動作あり。

涼子が制止。

本人は復元しない意思を表明。

観察継続。


高原がそれを見て、小さく言った。


「全部書くんですね」


「全部書きます」


涼子は淡々と答えた。


「都合のいい部分だけ残すと、記録ではなく物語になります」


その言葉に、悟志は少しだけ目を細めた。


物語。


自分たちは、今まさに信じがたい出来事の中にいる。


だが、それを都合よく語ってしまえば、真実から遠ざかる。


記録は、都合の悪い反応も残さなければならない。


自分がノアという名に動揺したことも。

開けようとしたことも。

涼子に止められたことも。


全部、残す必要がある。


真人が言った。


「今日はここで止めた方がいいでしょう」


朋美も頷いた。


「同意します。ノアの項目は刺激が強すぎる」


高原も小さく頷いた。


「僕も、そう思います」


悟志は画面を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。


本当は知りたかった。


ノア。

保護記憶。


その奥に何があるのか。


だが、今それを開けば、ノアとの約束を破ることになる。


次も、準備して来る。


そう約束した。


悟志は一歩下がった。


「今日は止めよう」


涼子がすぐに空白索引を保存する。


今回は、空白五の項目は消えなかった。


ただし、内容欄だけは最初から空白のままだった。


高原が確認する。


「項目は残っています。内容だけが閉じています」


涼子は頷いた。


「空白の住所としては保存成功」


朋美がノートに書く。


ノア項目出現。

保護記憶。

閲覧条件未達。

復元禁止。

内容は空白。

住所は保存成功。


悟志はその文字を見た。


完全には分からない。


でも、残った。


それだけで、今は十分なのかもしれない。


研究室を出る頃には、夕方になっていた。


窓の外の空は、薄い橙色に染まっている。


悟志は帰り支度をしながら、ふと涼子に声をかけた。


「涼子」


「何ですか」


「今日、止めてくれて助かった」


涼子は少しだけ不思議そうに悟志を見た。


「危険だったので止めただけです」


「それでもだ」


涼子は視線を逸らした。


「私は、開けられる扉を見つけると、開けたくなる性格でした」


「昔は?」


「今も、です」


涼子は静かに言った。


「だから、止める側に立つ必要があるんです。そうしないと、自分が一番危ない」


悟志はその言葉を聞いて、少しだけ彼女のことが分かった気がした。


ヘルメス。


鍵を持つ者。


だが、涼子はまだその名を受け入れていない。


それでいい。


彼女は秋葉涼子として、境界の前に立っている。


その夜、悟志は家に帰ると、すぐにノートを開いた。


朋美はキッチンで夕食の準備をしている。


ベルはソファのそばで眠り、ピーコはかごの中で羽をふくらませていた。


悟志は今日の記録を書いた。


空白索引。

空白の住所。

復元禁止。

ノア。

保護記憶。

閲覧条件未達。

開けなかった。

涼子に止められた。

止まれた。


そこまで書いた時、ピーコが小さく鳴いた。


「まもった」


悟志の手が止まった。


朋美がキッチンから顔を出す。


「今、何て?」


ピーコは首をかしげた。


「まもった」


悟志はゆっくりとピーコを見た。


「誰が、誰を?」


ピーコは羽をふくらませた。


「ロキ、ノア、まもった」


部屋の空気が静かに固まった。


悟志は息を止めた。


胸の奥で、閉じられた何かがわずかに震えた。


白い石のベンチ。

眠っている誰か。

小さなノアの声。

黒い影。

金色の雷。


一瞬だけ、そんな断片が脳裏をかすめた。


だが、すぐに黒い幕が降りるように消えた。


悟志は強く目を閉じた。


追いかけてはいけない。


今は、まだ。


ノアとの約束を思い出す。


無理に開けない。


悟志は震える手で、ノートに書いた。


ピーコ発話。

「ロキ、ノア、まもった」

詳細不明。

強い記憶反応あり。

追跡しない。

復元禁止。


朋美がそっと隣に座った。


「大丈夫?」


悟志はしばらく黙っていた。


それから、小さく頷いた。


「大丈夫じゃない。でも、止まれてる」


朋美は静かに頷いた。


「それで十分よ」


悟志はノートを見つめた。


空白は、まだ閉じている。


だが、その輪郭だけは残った。


ノアに関する何か。


自分が忘れている、大切な何か。


それはまだ開けない。


けれど、消さない。


悟志は最後に一行だけ書き加えた。


いつか思い出す。

でも、今日ではない。

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