表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
14/24

第14話 境界が閉じています

ノアが開いた光の水面を抜けると、悟志たちは水鏡神社の池の前に戻っていた。


境内には、夕方の光が差し込んでいる。


鳥居の外からは車の音が聞こえ、木々の葉が風に揺れていた。池の水面には、いつもの空だけが映っている。


ユグドラシル神殿の庭は、もうどこにも見えなかった。


高原はすぐに腕時計を確認した。


「今回も、現実世界ではあまり時間が経っていません」


真人も自分の時計を見た。


「主観時間との差は、前回と同じ傾向ですね」


朋美はすぐにノートを開いた。


「今のうちに、覚えていることだけ書きましょう」


悟志も頷いた。


四人は境内の端に移動し、それぞれ記録を取り始めた。


悟志はまず、ノアの言葉を書いた。


力が戻ることと、記憶が戻ることは同じではない。

力だけが先に戻れば危険。

なぜ使うのか、何を守るのかを思い出さないまま力を振るえば、間違える。


そこまで書いて、手が止まった。


この言葉は、はっきり残っている。


だが、結界石に金色の槍が触れた時の響きは、もう少し遠くなっていた。


鐘のような音だった。

それとも、風が鳴ったような音だったか。


曖昧になり始めている。


悟志はすぐに書き足した。


結界石の反応音は、すでに曖昧。

鐘に近いが、風の響きにも似ていた。


高原は少し焦ったように書いていた。


「先生、翼の感覚がもう薄れてます」


「どんな感覚だった」


「背中が開くような……でも、筋肉じゃなくて、空気に支えられる感じです」


「そのまま書け」


「はい」


朋美も、白銀の線の構造を図にしようとしていた。


だが、途中で眉をひそめる。


「補正線の一部が思い出せない」


真人が言った。


「思い出せないことも記録しましょう」


「ええ」


朋美は図の一部に空白を作り、そこに書いた。


補正線の一部、不明。

見た感覚はあるが、形が再現できない。


悟志はそれを見て頷いた。


「空白も記録する、だな」


「ええ。分からないことも、消えたことも残す」


四人はしばらく境内で記録を続けた。


現実世界に戻ったばかりの記憶は、まだ温かい。


けれど、指の間から水がこぼれるように、細部が少しずつ薄れていく。


それを、言葉で引き止める。


完全ではない。


だが、何もしないよりはずっといい。


研究所へ戻ると、四人はすぐに記録の照合作業に入った。


ホワイトボードには、新しい項目が追加されていく。


結界石。

ロキの金色の槍。

ミネルヴァの白銀の構造線。

アスクレピオスの杯状の光。

イカロスの光の翼。

黒い修正痕の小規模反応。

ノアの警告。

力と記憶の違い。


高原は自分のノートと録音データを照らし合わせながら言った。


「先生、今回は前回より記録が残っています」


「準備したからだろうな」


朋美も頷いた。


「それに、今回は閉じられた記憶に踏み込まなかった。だから大きな欠落が少ないのかもしれない」


真人が静かに言った。


「ただ、完全ではありません。全員、細部の再現に揺れがあります」


「分かってる」


悟志はノートを見た。


ノアとの約束。

力の確認。

黒い修正痕の反応。


それらは残っている。


だが、結界石に刻まれていた細かな紋様や、朋美が見た補正線の一部、高原が感じた風の流れの細部は、すでに曖昧になっていた。


現実世界では、やはり記憶が薄れる。


その仕組みはまだ分からない。


だが、確かに起きている。


高原が端末を操作していた手を止めた。


「先生」


「何だ」


「記録データを、研究室の記録検証用サーバーに保存しようとしたんですが、一部が保存できません」


悟志は顔を上げた。


「保存できない?」


「はい。エラーは出ていません。でも、保存後に確認すると、空白記録の一部だけが欠けています」


朋美がすぐに近づいた。


「どの部分?」


高原は画面を開いた。


そこには、今日の記録が並んでいた。


だが、一箇所だけ空白がある。


本来なら、訓練中に現れた黒い修正痕についての記録が入っているはずだった。


悟志は自分のノートを確認した。


紙の記録には残っている。

朋美のノートにも残っている。

真人のメモにも残っている。


だが、保存したデータだけ、その部分が空白になっていた。


高原が困惑した声で言う。


「紙には残ってるのに、データにすると抜けます」


真人が眉をひそめた。


「電子記録だけに反応しているのか?」


朋美は首を振った。


「これまでは紙の記録にも空白が出た。でも今回は、電子保存時に先に出ている」


悟志は画面を見つめた。


記憶が薄れる。

記録が抜ける。

紙と電子媒体で反応が違う。


これは、単なる心理的な現象では説明できない。


高原はログをさらに確認した。


「アクセス履歴はありません。外部からの操作もないです。保存処理は正常に完了しています。でも、保存された内容だけが欠けています」


悟志は短く息を吐いた。


「涼子に見てもらう必要があるな」


朋美が顔を上げた。


「秋葉さん?」


「ああ。こういう記録媒体や保存系の異常なら、俺たちだけで判断しない方がいい」


真人も頷いた。


「賛成です。専門家を入れるべきでしょう」


高原は少し緊張したように言った。


「秋葉涼子さんって、情報システムの?」


「そうだ」


悟志は答えた。


「以前、研究所のセキュリティ設計で協力してもらった。保存環境や記録媒体の扱いにも強い」


朋美が少し考え込む。


「ただ、どこまで話すの?」


悟志はすぐには答えなかった。


異世界。

神殿。

ノア。

神の力。

黒い修正痕。


すべてを話せば、普通は信じない。


だが、記録データの異常だけなら、涼子に見てもらう理由になる。


「最初は、電子記録の欠落だけでいい」


悟志は言った。


「異世界の話はしない。まず、保存時にデータが空白になる現象として見てもらう」


真人が頷く。


「妥当です。相手に過剰な情報を渡さず、専門的判断を求める」


高原が、もう一度保存処理を試そうとした。


その瞬間、画面が一度だけ暗くなった。


研究室の照明は変わっていない。


端末だけが、一瞬暗転した。


すぐに画面は戻った。


だが、そこには見慣れない表示が出ていた。


保存できません。

境界が閉じています。


高原の指が止まった。


「先生……これ、僕は入力してません」


悟志は画面を見つめた。


境界が閉じています。


その言葉だけが、画面の中で妙に冷たく残っていた。


朋美が低く言った。


「これ以上、この端末で試すのはやめた方がいい」


真人も同意した。


「未知の反応が出ています。今は切断しましょう」


高原は慎重に端末をネットワークから切り離した。


画面の文字は消えた。


だが、悟志の胸の奥には残った。


保存できません。

境界が閉じています。


その夜、悟志は秋葉涼子に連絡を取った。


涼子は短く、無駄のない返事をした。


「電子記録が保存時に欠落する?」


「ああ。外部アクセスの痕跡はない。だが、保存後のデータだけが抜ける」


「ログは?」


「ある」


「検証用の端末は?」


「用意できる」


「明日行く」


「助かる」


通話を切る直前、涼子は少しだけ間を置いた。


「小泉さん」


「何だ」


「普通のデータ破損じゃないのね」


悟志は一瞬黙った。


「まだ分からない」


「あなたが“まだ分からない”と言う時は、大抵普通じゃない」


「否定はしない」


「分かった。余計なことは聞かない。見てから判断する」


涼子はそこで一度、声を低くした。


「ただし、想像や仮説を先に混ぜないでください。最初に欲しいのは事実です。あなたの物語ではありません」


悟志は少しだけ黙った。


「分かっている」


「なら、明日確認します」


通話が切れた。


悟志はスマートフォンを見つめた。


相変わらず、遠慮のない言い方だった。


だが、その遠慮のなさが今は必要だった。


記録媒体や保存系の異常を読める者が必要になる。


まだ彼女が何者なのかは分からない。


だが、記録が電子媒体で閉じられ始めた以上、ここからは避けて通れない。


翌朝。


秋葉涼子は、予定より十五分早く研究室に現れた。


黒いジャケットに、薄いグレーのシャツ。手には小型の端末ケースを持っている。表情は冷静で、無駄な挨拶を好まない雰囲気があった。


「おはようございます」


悟志が言うと、涼子は軽く頷いた。


「挨拶は後でいいです。問題の端末は?」


高原が少し身を固くした。


「こちらです」


涼子は端末の前に座ると、すぐにログを確認し始めた。


操作は速かった。


画面に複数のウィンドウが開き、保存履歴、アクセス履歴、ファイル差分、検証環境のログが次々と表示されていく。


しばらくして、涼子の眉がわずかに動いた。


「変ですね」


「何が?」


悟志が尋ねる。


涼子は画面から目を離さずに答えた。


「壊れているわけじゃない。消されたわけでもない。保存処理も正常。なのに、特定部分だけ最初から存在しなかった形になっている」


高原が小さく言った。


「僕たちの記録と同じです……」


涼子は高原を見た。


「同じ?」


悟志は高原に視線で止めるよう合図した。


まだ話しすぎない方がいい。


涼子はその視線に気づいた。


そして、追及する代わりに短く言った。


「隠すなら徹底してください。中途半端に漏らすと、調査の邪魔です」


高原は顔を赤くした。


「すみません」


「謝罪より、次から黙ることです」


涼子はそれだけ言うと、端末を検証用の隔離モードに切り替えた。


「もう一度、同じ内容を保存してください。ただし、ネットワークから完全に切り離した状態で」


高原が操作する。


紙の記録から、黒い修正痕に関する部分を入力する。


保存。


画面は正常に完了を示した。


涼子が保存ファイルを開く。


そこには、また空白があった。


涼子の表情が初めて少し変わった。


「オフラインでも同じ……」


朋美が尋ねる。


「つまり、外部から操作されているわけではない?」


「少なくとも、通常の通信ではありません」


涼子は端末に指を置いたまま、画面を見つめる。


しばらくして、空白部分を拡大した。


「完全な空白じゃない」


「何か残っているのか?」


悟志が尋ねる。


「残っているというより、構造があります」


「構造?」


涼子は少しだけ言葉を探した。


「比喩ですが……鍵穴みたいに見えます」


研究室の空気がわずかに変わった。


鍵穴。


その言葉は、ただの技術的な表現には聞こえなかった。


涼子自身も、自分の口から出た言葉に戸惑っているようだった。


その瞬間、端末の画面が一瞬だけ揺れた。


黒い背景に、白い文字が浮かぶ。


鍵は、逃げるためではなく、守るために使え。


涼子の手が止まった。


誰もすぐには声を出せなかった。


悟志は画面を見つめた。


その言葉は、誰かに向けられている。


涼子に。


そう感じた。


涼子はゆっくりと息を吐いた。


「小泉さん」


「何だ」


「ここから先は、ただのデータ破損ではないという前提で聞きます」


「ああ」


涼子は画面を見たまま言った。


「あなたたち、何を記録しようとしているんですか」


悟志はすぐには答えなかった。


だが、もう隠し続ける段階ではない。


少なくとも、涼子はこの異常を見てしまった。


悟志はノートを開いた。


「信じなくていい。ただ、聞いてほしい」


涼子は頷いた。


「信じるかどうかは、聞いてから決めます」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ