第二十六話:帰路と凱旋
第632環、黒曜月の週四巡目、地律の朝。ローガン村の冒険者用宿舎に、心地よい涼風が静かに流れ込んでいた。木組みの天井の下、広々とした部屋でゆっくりと朝食のパンと温かいスープを胃に流し込みながら、チヅルは小さく息を吐いた。ほんの少しだけ瞼が重い。鏡を見ていないが、きっと目の下にはうっすらと隈ができているはずだ。昨夜は二度目の奇妙な夢を見てベッドから転げ落ちて以来、結局夜明けまで一睡もできなかった。だが、チヅルはそのことを口に出すつもりは毛頭なかった。無用な心配をかけたくないというのもあるが、何より、今日からマーレンへの帰路につくという前向きな活力が、寝不足による倦怠感を上回っていたからだ。
地律の陽4刻。荷物をまとめ、隠密スーツに身を包んだ三人が宿舎の外に出ると、そこには大勢の村人たちが見送りに集まっていた。
「お姉ちゃん、行かないで……!」
小さな女の子が、ラズベルの腰にすがりついて泣きじゃくっている。周囲の子供たちも、名残惜しそうに三人を囲んでいた。
「泣かないで。あたしたちは冒険者だもの、ずっとここにはいられないわ。でも……ええ、また美味しいものを作りに来るわね。約束よ」
ラズベルはしゃがみ込み、女の子の頭を優しく撫でて微笑んだ。その温かな声に、子供たちは少しだけ泣き止み、力強く頷いた。そこへ、黒髭を蓄えた自警団長ガストンが歩み出て、チヅルの前で深く頭を下げた。
「ほんとうに……助かった。村を守ってくれて、ありがとう」
飾り気のない、しかし心の底からの重みがある感謝の言葉。チヅルはいつものように快活な笑みを浮かべた。
「みんながそれぞれの役割を全うしてくれましたから。自警団の防衛が的確だったおかげで、あたしたちも調査に専念できたんですよ」
「冒険者の方々、どうかお達者で」
白髪の村長が穏やかに声をかけ、村人たちが一斉に頭を下げる。
ギルドが手配した四人乗りの馬車が、三人を待つように静かに嘶いた。
(……帰ろうか)
チヅルは内心で静かに呟き、馬車のステップに足をかけた。全員が乗り込み、御者が手綱を振るう。ゆっくりと車輪が回り始め、一昨日のゴブリン集団の襲撃で無残にも砕け散った南門の跡を通り抜けると、ローガン村の丸太防壁が少しずつ遠ざかっていく。チヅルは窓から一度だけ振り返り、朝日に照らされた村の景色を網膜に焼き付けた。
(……守れた、かな)
答えは、村人たちの笑顔が証明している。チヅルは小さく息を吐き、まっすぐに前を向いた。
***
帰路の馬車は、往路の大型馬車とは違う四人乗りの小ぶりなもので、車内にはチヅル、ラズベル、ユイの三人だけのプライベートな空間が広がっていた。この時期特有の色彩を放つ植物が両脇に広がる街道を、馬車は一定のリズムで進んでいく。車輪の規則的な振動が心地よい。
「……なんか、疲れたな」
座席に深く背中を預け、ユイがポツリと最初の沈黙を破った。それは弱音ではなく、張り詰めていた緊張がようやく解けた証拠だった。
「ふふ、よく頑張ったわ。あなたたち二人とも」
ラズベルが向かいの席から、慈しむような笑顔を向ける。
「うん。三人ともよくやったと思うよ。本当に」
チヅルも素直に同意し、シートの背もたれに身を任せた。三人だけの空間に、穏やかで柔らかな空気が満ちていく。しばらくぼんやりと窓の外の丘陵地帯を眺めていたユイが、誰に聞かせるわけでもない、独り言のような口調で呟いた。
「……魔族ってのが本当に関わってたとして、なんでローガン村なんかに目をつけたんだろうな」
その疑問は、昨日から三人の胸の奥底に澱のように沈んでいたものだ。
「……分からないけど、あたしたちにできることはもうないわ。調査団の皆さんに任せましょう」
ラズベルが静かにそう答えた。彼女の視線は、窓の外――はるか北東の空に薄く霞む、ルミナス山脈の稜線へと一瞬だけ向けられた。魔力の残滓が続いていた、彼女の故郷の方向。だが、ラズベルはそれ以上言葉を紡ぐことはなかった。
馬車の揺れと温かな日差しに、チヅルの瞼が限界を迎えつつあった。寝不足の目が半開きになり、とろんとした意識の中で、ふと思い浮かんだ言葉を口にする。
「……北の森の件、どうなってるのかなぁ」
「竜だっけ。ライアン団長が直々に対応してんだろ、問題ないんじゃないか」
ユイが軽く応じると、チヅルは「(うん……そうだね)」と内心で頷いた。あれだけの騎士団が動いているのだ、自分たちが今すぐどうこうする問題ではない。
「……そういえばさ、ゼッペルたちもう店を押さえてるかな」
重い話題を切り捨てるように、ユイが急に身を乗り出して話題を変えた。
「ふふ、押さえてくれてたら嬉しいわね。何を食べようかしら」
「お肉! 絶対お肉!」
チヅルは半開きの目を見開き、自分でも驚くほどの勢いで身を乗り出した。寝不足の頭でも、美味しいものの気配には内なる『天稟の才』が鋭く反応するらしい。その現金な様子に、ユイとラズベルが堪えきれずに吹き出した。馬車の中は、肉の種類や部位、焼き加減やつけ合わせの野菜の話で持ちきりになり、死線を潜り抜けた冒険者たちの乗る車室は、すっかり年相応の明るい笑い声に包まれていった。
***
地律の昼過ぎ。三叉路の要衝、宿場村リロに到着した三人は、往路でも世話になった宿を押さえ、遅めの昼食をとった。
「それじゃ、あたしは市場を見てくるわね。この時期のリロは、珍しい根菜が手に入るかもしれないから」
昼食後、ラズベルは旅先の習慣である買い出しへと、楽しそうな足取りで出かけていった。
「あたしも、ちょっと街ぶらぶらしてくるわ。ずっと馬車に揺られてると体が鈍るしな」
ユイも腰に白綱を差し、ウェストポーチを提げて、ふらりと外へ出ていく。
「あたしは宿でちょっと休むよ」
チヅルがそう言うと、二人は特に理由を問うこともなく「ゆっくりしててね」と手を振った。一人になった部屋で、チヅルはベッドに倒れ込むように横になった。シーツの冷たい感触が心地よい。目を閉じた瞬間、二日分の疲労と強烈な睡魔が一気に押し寄せ、彼女の意識は深い泥のような眠りの底へと、音もなく沈んでいった。
夕刻。市場から戻ったラズベルと、散策を終えたユイが部屋に戻ってきた物音で、チヅルはすっきりと目を覚ました。その後、三人で宿の温かい夕食を囲み、共同の湯浴み場でゆっくりと汗と埃を洗い流す。清潔な寝着に着替えた三人は、誰からともなくベッドに潜り込み、その夜は三人とも、夢一つ見ることなくぐっすりと熟睡した。
***
翌、木律の陽1刻。初明けの鐘とともにリロを出発した馬車は、順調に西へと街道を進んでいった。
そして木律の夕刻。馬車がマーレンの東門に差し掛かると、南に広がる海から、夕暮れの潮風が窓の隙間をすり抜けてふわりと入り込んできた。チヅルが窓から前方へと視線を向ける。石造りの街並みの向こう側、はるか西の空へと、沈みゆく太陽がオレンジ色の残光を引いている。空は深い群青と赤紫のグラデーションに染まり、どこからかカモメの鳴き声がかすかに聞こえてきた。
「……帰ってきたわね」
ラズベルが、しみじみとした口調で景色を見つめる。
「……おう」
ユイは短く応じ、背もたれに深く寄りかかった。
(……ただいま、マーレン)
チヅルは声には出さず、心の中でそっと呟いた。
東門を抜け、馬車が石畳の街路へと入る。車輪の規則的なガタガタという音が、懐かしい子守唄のように響く。夕食の準備をする民家から漂う匂い、家路を急ぐ人々の賑やかな話し声。リロでの宿泊やローガン村での滞在は心地よいものであったが、やはりこの都市の喧騒こそが、自分たちの帰るべき「日常」の場所なのだと、潮の香る空気が教えてくれていた。
***
ギルド「潮鳴りの鉄錨」の前に、馬車が静かに停車した。御者に礼を言い、三人が石畳に降り立つ。見慣れた歴史を感じさせる木の看板が、夕闇の中で灯されたランタンの光に照らされて揺れていた。ギルドの重いオーク材の扉を、チヅルが両手で押し開ける。夕刻のギルド内は、一日の報告を終えた冒険者たちや、これから夜の警備へ向かう者たちで適度な活気に満ちていた。カウンターの奥では、受付嬢のマリアが、羽ペンを片手に書類の山と格闘している。
ふと扉の開く音に気づいたマリアが、顔を上げて扉のほうに視線を向ける。無傷の三人。いつもの衣装ではなく、ダークグリーンの隠密スーツ姿。その姿を視界に捉えた瞬間、有能な受付嬢は、手元の羽ペンを止めて一瞬だけ呆けたように固まった。
チヅルは革製チョーカーに軽く触れ、いつものように、ニッコリと満面の笑みを浮かべた。
「ごきげんよう、マリアさん! 夕焼けがとっても綺麗ですね!」
その快活で、少しだけ誇らしげな声がホールに響く。マリアは一瞬の空白の後、張り詰めていた糸がふっと切れたように目を細めた。そして、安堵と、隠しきれないほどの深い嬉しさが混ざり合った、最高に美しい笑顔を咲かせた。
「……おかえりなさい」
過酷な調査任務は、その温かな一言をもって、ついに完全なる終わりを告げたのだった。
いよいよ明日19時過ぎ、最終話の更新です。
最後までお見逃しなく!




