第二十七話:山の麓の邂逅
ついに最終話・エピローグです。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございます!
第632環、黒曜月の週四巡目、地律の夜。
東の丘陵地帯のさらに東、天を突くようにそびえ立つルミナス山脈の麓には、重く冷たい静寂が横たわっていた。
人里から遠く離れ、獣の通る獣道すらも途絶えるような未踏の領域。巨大な岩塊が乱雑に転がり、針葉樹の深い緑が複雑に入り組むその場所は、外界から完全に隔絶された孤絶の空間であった。
黒曜月特有の、底冷えこそしないものの肌を粟立たせるような涼やかな夜気が、岩の隙間を縫うようにして音もなく吹き抜けていく。上空には薄い雲が幾重にも棚引いていたが、その切れ間から差し込む青白い月明かりだけが、この漆黒の世界における唯一の光源となっていた。
その月光が丸く切り取った岩場の中央に、二つの人影が対峙していた。
片方は、全身を黒いフードとローブでゆったりと包み込んだ、大柄な人型の影だった。
顔の輪郭は深く被ったフードの奥底にある濃密な闇に沈み込み、どのような相貌をしているのか、そもそもヒト族であるのかすらも窺い知ることはできない。ただ、その背中には、分厚い布で厳重に何重にも巻き上げられた長柄の物体が斜めに背負われていた。
もう片方は、夜の闇の中で自ら淡い光を放っているかのように錯覚させるほど、鮮やかで美しい銀色の長い髪を持つ女性だった。
女性としてはかなり背が高く、その立ち姿には、周囲の荒涼とした岩肌とはおよそ不釣り合いなほどの、洗練された優雅さと余裕が満ち溢れている。一陣の風が吹き抜け、彼女の銀髪をふわりと持ち上げても、その姿勢は微動だにしない。ただ静かに、圧倒的な存在感をそこに定着させていた。
黒いローブの男は、その銀髪の女性に向かって、必死に両腕を振り動かしていた。
一歩踏み出しては身を乗り出し、激しい身振り手振りを交えながら、何かを懸命に訴えかけている。ローブの裾が男の激しい動作に合わせて翻り、背中の長柄の物体が微かに揺れる。月明かりに照らされたそのシルエットからは、狂気にも似た焦燥と、切羽詰まったような熱が滲み出ているように見えた。
しかし、その男の必死の訴えに対し、銀髪の女性はまるで羽虫の羽音でも聞かされているかのような、極めて冷淡な態度を崩さなかった。
彼女は組んだ腕を解くこともなく、ただ静かに、見下ろすような角度で男の方へ顔を向けている。時折、退屈を隠しきれないというように小さく首を傾げたり、あるいは鬱陶しいものを払いのけるように片手を僅かに動かしたりするだけで、男の激しい動作に同調する素振りは一切見せなかった。
それでも男は諦めず、ついに大きく一歩を踏み出した。
両手を女性の方へ伸ばし、さらに何か強い言葉を投げかけようと、上半身を大きく前へと傾ける。足元の枯れ枝が踏み折られ、微かな破砕音が夜の空気に吸い込まれた。
その瞬間だった。
銀髪の女性が、ゆっくりと、しかし流れるような滑らかさで右手を虚空へと差し伸べた。
彼女の細く白い指先が、何もない夜の空気を掴むように軽く曲げられる。
空間が、一瞬だけ音もなく歪んだ。
次の刹那、女性の右手に、彼女の背丈を遥かに超える巨大な武器が顕現していた。
それは、漆黒の長い柄と、恐ろしいほどの鋭さを感じさせる三日月型の大きな刃を持った大鎌――デスサイズであった。
青白い月明かりが、突如として空間から引きずり出されたその巨大な刃の表面を舐めるように滑り、鈍く、そして冷酷な光を反射する。
女性は、その身の丈に合わない巨大な大鎌を、まるで羽毛を扱うかのような軽やかさと優雅さで振るった。
一切の風切り音を立てることなく空を滑った三日月型の刃が、鬱陶しいものを払いのけるかのように、男の眼前でぴたりと静止した。
大鎌の穂先を突きつけられた男の動きが、完全に凍りついた。突き出そうとしていた両手は宙を泳いだまま硬直し、フードの奥の闇が、目の前に突きつけられた凶刃に釘付けになっているのが傍目にも分かった。
静まり返ったルミナス山脈の麓に、銀髪の女性の、冷徹で、凛とした声が響き渡った。
「私は戻る気はないわ! 貴方こそこんなところでくだらないことを企んでないで、さっさと魔大陸なり魔界なり、おかえりなさい!」
その言葉は、一切の妥協も、交渉の余地も許さない、完全なる拒絶の刃であった。
言い放つと同時、女性は右手の力をスッと抜いた。
すると、つい先程まで圧倒的な質量と威圧感を放っていた大鎌が、夜霧が晴れるかのように虚空へと溶け込み、瞬く間に完全に消失してしまった。彼女がどこかへ収納したのか、あるいは魔法によって次元の彼方へ消し去ったのか、その動作はあまりにも自然で、軌跡すら残さなかった。
女性は男の返答を待つこともなく、そのまま優雅に身を翻した。
空中に美しい銀色の弧を描いた長い髪が、月明かりを乱反射してきらきらと輝く。彼女はそのまま、一切の躊躇いも迷いも感じさせない、規則正しく洗練された足取りで、ルミナス山脈の麓に広がる、さらに深い闇の奥へと歩き出していった。
彼女の背中が、やがて木々の影に紛れ、完全にその姿を消すまで、振り向くことは一度もなかった。
あとに残されたのは、黒いフードの男だけであった。
男は、大鎌を突きつけられていた時の、宙に手を浮かせた中途半端な姿勢のまま、まるで石像のように立ち尽くしていた。
銀髪の女性が消え去った深い森の奥を、フードの奥の闇でじっと見つめ続けている。
月明かりが雲に遮られ、男の足元に広がる影が濃さを増していく。その沈黙の中で、彼が何かを強く噛みしめているかのように、ローブの肩のあたりが微かに上下に震えていた。
どのくらいの時間が経過しただろうか。
再び雲が流れ、月明かりが岩場を照らし出した頃。男はようやく張り詰めていた身体の力を抜き、両手をゆっくりと下ろした。
そして、女性が消え去ったのとは全く別の方角へ向けて、重い足取りで歩き始めた。背負った長柄の物体が、彼の歩みに合わせて鈍く揺れる。
男の黒い影もまた、やがて夜の暗がりの中へと完全に飲み込まれ、見えなくなった。
二つの人影が消え去った後の岩場には、再び元の、重く冷たい静寂だけが戻ってきた。木々の間を縫うように吹き抜ける風が、針葉樹の葉を微かに揺らす「ざわ、ざわ」という音だけが、虚空に響いている。人知れぬルミナス山脈の麓では、世界の裏側で交差した影たちが、それぞれの道へと歩を進めていた。
次の物語は、誰にも知られることなく、既に静かに動き始めていた。
完結までお読みいただき、本当にありがとうございました!
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チヅルたちの次の冒険で、またお会いしましょう!




