第二十一話:夢の中の大鎌
第632環、黒曜月の週四巡目、水律の深夜。魔物の脅威が完全に払拭されたローガン村の夜は、死んだように静かだった。村人たちに提供された粗末だが清潔な宿舎のベッドで、チヅルは深い、泥のような眠りの底へと意識を沈めていた。死線を超えた確かな達成感。エマの涙と、それを包み込んだ自分の腕の感触。ラズベルが作ってくれた、芯から温まる夜食のスープ。そして、ユイと肩を並べて見上げた満天の星空。それらすべてが心地よいまどろみとなって、極度の緊張から解放されたチヅルの身体を優しく解きほぐしていたはずだった。
――しかし。
ふと気がつくと、チヅルは「そこ」に立っていた。
どこまでも続く、広大な暗闇。足元に硬い地面の感触はあるが、土なのか石なのか、材質はまったく分からない。見上げても星一つない虚空が広がり、手を伸ばしても壁や木々に触れることはない。光の届かない完全な漆黒が、上下左右、あらゆる方向へ無限に広がっているような、絶対的な孤独の空間だった。
(……ここ、どこだろう)
チヅルは眉をひそめ、周囲を見渡した。声を出そうとしたが、喉から音が生まれない。空気が震える感覚がなく、自分の呼吸音すら鼓膜に届かなかった。
(夢……? それとも、何かの幻術の類かな)
チヅルは冷静に状況を分析しようと試みる。腰のあたりを探るが、そこにあるはずのミスリル製短刀も、マジックポーチもない。衣服の感触もなく、自分が今どんな服を着ているのかすら、この暗闇の中では確かめる術がなかった。普段であれば、どんな窮地に陥ろうとも彼女の頭脳は回転を止めず、内なる『幸運の羅針盤』が次の一手を指し示してくれる。だが、この空間ではその直感すらも、分厚い布を被せられたようにひどく鈍く、頼りなく感じられた。
ぽつり、と。世界にただ一人、取り残されたような感覚。
その時だった。
漆黒の空間のずっと奥から、静かな気配が近づいてくるのを感じた。足音はない。だが、間違いなく「何か」が、ゆっくりと、こちらに向かって歩みを進めてきている。チヅルは咄嗟に身構えようとしたが、不思議なことに、指先一つ動かすことができなかった。まるで目に見えない重い水の中に全身を沈められているかのように、神経の命令が筋肉へと伝わらない。やがて、その「何か」の輪郭が、暗闇の中からぬらりと浮かび上がってきた。それは、全身をすっぽりと黒いフードとローブで覆った、人型の影だった。身長はチヅルよりも遥かに高く、足元はローブの裾が暗闇に溶け込んでいて判然としない。その手には、不釣り合いなほど巨大な武器――大鎌が握られていた。鈍い光を放つ長い柄と、チヅルの背丈ほどもありそうな三日月型の刃。それは、生命を刈り取るためだけに存在する、無慈悲な道具の形をしていた。
影が立ち止まる。深く被った黒いフードの奥には顔の造形はなく、ただ、赤く燃える二つの光だけが、双眸のように静かにチヅルを見つめ下ろしていた。
(……っ!)
チヅルの全身の産毛が逆立つ。オークの野卑な威圧感や、ゴブリンの群れが放つおぞましい悪気とはまったく違う。あの洞窟の最奥から漂ってきた、重く粘つくような不浄な魔力とも異なっていた。
(敵意じゃない――でも、なんだろう、これ)
殺意はない。悪意も感じない。だが、ただその存在が「在る」だけで、空間の質が根底から変質してしまうような、絶対的で圧倒的なプレッシャー。ヒト族や獣人、あるいは自分が知るいかなる魔物とも次元が違う。格が違う。対峙しているだけで魂がすり減っていくような、理不尽なまでの「上位の存在感」が、そこにはあった。
動けない。逃げることも、戦うことも、声を上げることすら許されない。普段なら後先よりも覚悟が先に来るチヅルの鋼のメンタルが、この異常な空間、異常な存在の前では完全に機能不全に陥っていた。
ただ、じっと見つめ合っている。永遠にも思える静寂の中で、赤い二つの光が、わずかに瞬いたように見えた。
次の瞬間、黒いフードの影が、ゆっくりと、しかし流れるような動作で大鎌の構えを変えた。頭上高く、巨大な刃が振り上げられる。
(……切られる!)
死を確信した、その刹那だった。
『うしろ、あぶない!』
不意に、チヅルの脳裏に直接響き渡るような、切羽詰まった声が響いた。男とも女ともつかない、年齢すら判然としない、澄んだ声。その声が響いた瞬間、チヅルを縛り付けていた見えない呪縛が、プツンと音を立てて千切れた。
「――っ!」
チヅルは一切の思考を捨て、本能のままに地面へと身を投げ出し、激しく横へ転がった。直後、チヅルが先程まで立っていた空間を、大鎌の巨大な刃が音もなく薙ぎ払った。ゾッとするほどの冷たい風圧が、チヅルの頬を紙一重でかすめ飛んでいく。もし声による警告がほんの一瞬でも遅れていたら、あるいは身体の反応がコンマ数秒でも鈍っていたら、間違いなくその身を両断されていただろう。地面を転がり、体勢を立て直そうと顔を上げた瞬間――。
暗闇も、黒いフードの影も、赤い瞳も、すべてが水面に浮かび上がった泡のように、ぷつりと弾けて消滅した。
***
「……はぁっ! はぁ、はあっ……!」
チヅルは、ガバッと上体を起こした。暗闇の代わりに目に飛び込んできたのは、ローガン村の宿舎の、見慣れない木組みの天井だった。窓からは黒曜月の淡い月明かりが差し込み、部屋の中に青白い四角い影を落としている。
「……っ」
チヅルは胸の辺りの寝着を強く握りしめ、荒れ狂う呼吸を必死に整えようとした。心臓が早鐘のように打ち鳴り、耳の奥でドクドクと血の巡る音が響いている。額からは冷たい汗が流れ落ち、薄褐色の肌をじっとりと濡らしていた。
慌てて周囲を見渡す。すぐ隣のベッドでは、ラズベルが穏やかな寝息を立てて丸くなっている。さらに奥のベッドでは、ユイが布団を蹴飛ばして大の字で眠っていた。いつもの、何気ない日常の風景。村の夜の、静かで平和な空気。殺意も、大鎌の風圧も、赤い瞳の影も、どこにも存在しない。
「……」
チヅルは震える手で、自分の頬に触れた。刃がかすめた冷たい感触は、もうない。だが、魂に直接刻み込まれたようなあの圧倒的なプレッシャーの記憶だけは、生々しく脳裏に焼き付いて離れなかった。
(……夢、か)
チヅルは小さく息を吐き出し、ゆっくりとベッドの背もたれに寄りかかった。夢だ。ただの、酷く質の悪い夢だ。そう自分に言い聞かせるが、指先の微かな震えは一向に収まらない。黒いフードの存在が何であったのか、なぜ大鎌が振るわれたのか。その全てが曖昧模糊としていた。まるで霞の中を歩いているかのように、夢全体の記憶は覚束ない。ただ、はっきりと耳に残っていたのは、「うしろ、あぶない!」という声だけだった。考えても、答えなど出そうになかった。
村は静まり返り、風の音すら聞こえない。平和な夜だ。すべてが終わった後の、静かな夜。
だが、チヅルは固く膝を抱えたまま、ただじっと暗い窓の外を見つめ続けていた。もう一度、目を閉じて眠りの底へ向かおうという気には、とてもなれなかったからだ。
明日(日曜日)はお昼12時過ぎ、夜19時過ぎ、夜20時過ぎの3回更新です!
事後処理と、残された謎が動き出します。




