第二十話:ローガン村の夜
太陽が西の稜線に沈み、宵闇を告げる月1刻の鐘が、ローガン村の小さな見張り台から鳴り響いた頃。チヅルとユイは、静まり返った北方の森を抜け、無事に北門を通って村へと帰り着いた。腐葉土と泥にまみれた隠密スーツのまま、大きく息を吐き出したチヅルの視界に、南の方角から飛ぶように駆けてくる小柄な影が映った。
「チヅルちゃん! ユイちゃん!」
声を震わせながら飛び込んできたのは、ラズベルだった。彼女は勢いそのままに二人に抱きつき、顔を押し当てる。力強い抱擁にチヅルもユイも思わず苦笑しながらその背中を優しく叩いた。
「ただいま、ラズベルちゃん」
「そんなに心配しなくても、大丈夫に決まってんだろ。あたしたちを誰だと思ってんだよ。ホント心配性だな、ラズベルは」
ユイが不器用に照れ隠しをしながらも、安堵の表情を浮かべる。ラズベルは涙ぐんだ緑の瞳を瞬かせ、「本当に、本当によかったわ……」と何度も繰り返した。溢れ出すような母性と愛情が、冷え切っていたチヅルたちの身体を温かく包み込んでいく。チヅルはラズベルの温もりを感じながら、ふと、帰還途中の森の中で背筋を撫でたあの不穏な気配を思い出した。マーレンの東門を通過した時と同じ、説明のつかない奇妙な引っかかり。
(……なんだろ。気のせい、かな)
チヅルはその微かなざわめきを胸の奥底へ深く沈め、表には一切出さずに、勝負師の顔から年相応の柔らかな笑顔へと表情を緩めた。
「さあ、南門の方へ行こうか。ゼッペルくんたちが待ってるよ」
***
南門広場は、凄惨な戦いの爪痕が色濃く残っていた。砕け散った丸太の門、黒く焦げた地面、そして端に寄せられた魔物の骸。防御結界の淡い光のすぐ外側で、ゼッペルたち若手冒険者がへたり込んでいる。その中で、ドーレスの懸命な治癒魔法を受けながらも、痛みに顔を歪めているエマとセラムの姿をチヅルはすぐに見つけた。
「二人とも、動かないで。すぐに治すから」
チヅルは二人の傍に跪き、両手を患部にかざした。初級治癒魔法では、この深手は塞ぎきれないと判断したのだ。
「ハイヒール」
チヅルの掌から、初級とは比べ物にならないほど濃密な、淡い緑色の光の粒子が溢れ出した。それがエマの背中の傷とセラムの腹部へと吸い込まれていく。肉芽が再生し、裂けた皮膚がみるみるうちに繋がり、二人の顔から苦痛の色がスッと引いていった。
「あ、痛みが……」
「すごい……傷が完全に……」
セラムが信じられないというように自身の腹部をさする。チヅルは魔力の供給を止め、ふう、と一つ息を吐いてから、エマの顔を真っ直ぐに見据えた。
「……エマちゃん。なんで、ハイポーションを使わなかったの」
チヅルの声は静かだった。怒鳴っているわけではない。だが、そのワインレッドの瞳には、一切の言い訳を許さない真剣な光が宿っていた。エマはびくりと肩を震わせ、ぽろぽろと大粒の涙をこぼし始めた。
「怖くて……。あんな高価なもの、私なんかが使っちゃいけないと思って……村の人たちを守るための、最後の切り札だと思ったから……っ」
声を上げて泣きじゃくるエマを、周囲の冒険者たちは口を挟むこともできず、ただ見守っていた。チヅルは少しの間だけ沈黙し、それから、ふっと瞳の温度を下げた。彼女は両腕を広げ、泥まみれのまま、泣き崩れるエマの身体を強く抱きしめた。
「馬鹿だよ、あなたは」
チヅルの口から紡がれたのは、叱責でありながら、深い包容力を伴った言葉だった。
「ポーションはね、命のためにあるんだよ。金貨三枚だろうと百枚だろうと、あなたの命より重いものなんて、この世にはない。……生きていてくれて、本当によかった」
その言葉に、エマはチヅルの胸に顔を埋め、子どものように声を上げて泣きじゃくった。シービィも、ゼッペルも、その光景を見つめながら静かに目を潤ませていた。
***
「……よくやってくれた。あんたたちには、どう礼を言っていいか分からない」
エマの感情が落ち着いた頃、自警団長のガストンがチヅルに近づいてきて深く頭を下げた。彼の黒髭には土埃がこびりついていたが、その瞳には確かな安堵の光があった。
「信号弾を見て、すぐに村人を結界の内側に誘導した。おかげで村人に怪我人はいない。……それに、冒険者の若い連中が本当に落ち着いて対処してくれた。彼らが矢面に立ってくれなかったら、村はパニックになっていただろう」
ガストンがゼッペルたちに目を向けると、若き冒険者たちは照れくさそうに顔を掻いた。
「ありがとうございます。皆さんが動いてくれたから成立した作戦でした。これで、ローガン村の安全は確保できました」
チヅルがにっこりと笑う。
「ところで、この結界はどうやれば解除できるんだ?」
ガストンの疑問に、チヅルはあっさりと答えた。
「叩き割ってください」
ガストンは「ふむ、なるほど」と頷き、結界の向こう側にいる村の長に向かって、腹の底から声を張り上げた。
「おい、村長! 魔物はいなくなった。その結界石を叩き割ってくれ! そうすれば結界は解ける!」
視線の先には、村人たちの中心に立つ白髪の老人の姿があった。長年この村を束ねてきた、誰もが認める古老だ。老人はしばらく外の様子を窺うように目を細めていたが、やがて静かに頷き、傍らに置かれていた結界石を両手で持ち上げた。
「……冒険者の方々、自警団の者たち、そして村の皆。本当に、ご苦労じゃった」
労いの言葉を口にすると同時に、老人は結界石を地面へと力強く叩き落とした。パキンッ、と硬質な音が響き、術式が刻まれた石が砕け散る。同時に、広場を覆っていた淡い光の半球が、静かに霧散していった。広場に身を寄せ合っていた二千人の村人たちが、恐る恐る外の様子を窺うように出てくる。
「魔物は……いなくなったの?」
一人の小さな女の子が、おずおずと冒険者たちに近づいてきた。ラズベルがその子の前にしゃがみ込み、目線を合わせて優しく微笑んだ。
「ええ、もう大丈夫よ。怖い魔物は、みんな退治したからね」
その穏やかな声を聞いた瞬間、女の子の大きな目からポロポロと涙がこぼれ落ち、わあっと声を上げてラズベルに抱きついた。ラズベルは「よしよし」と、泥だらけの隠密スーツを少し気にしながら、その小さな頭を優しく撫でてあげた。それを見ていた村人の大人たちも、次々と冒険者たちに歩み寄り、「ありがとう」「本当にありがとう」と、涙ながらに何度も頭を下げた。死線を超えた村に、本当の意味での夜の平穏が訪れた瞬間だった。
***
その後、一行は村の宿舎に案内された。他の冒険者たちも既に集まり、それぞれ休息の準備を始めている。
「はい、チヅルちゃん、ユイちゃん」
一息ついたところで、ラズベルがバックパックから取り出したいつもの部屋着を二人に手渡した。
「そんな恰好じゃ、せっかく汗を流してもさっぱりしないでしょ。汚れた隠密スーツは、あとで洗っておくから」
「ラズベルちゃん、ありがとね」
「お、サンキューな」
三人は村の共同浴場へと向かい、身についた腐葉土の泥や汗の匂いをたっぷりの湯で洗い流した。すっかりラフな衣服に着替え、さっぱりとした顔つきになった総勢十五名の冒険者たちは、夜の広場の片隅や宿舎の軒先に集まり、互いの健闘を讃え合っていた。
「チヅルさん……あんたたちのおかげで、俺たちは生きてる。本当に、感謝してもしきれない」
ゼッペルが真剣な表情でチヅルに頭を下げる。その横で、シービィやエマたちも深く頷いていた。
「やめてよ、そんなの。みんなが自分の役割を完璧にこなしてくれた結果だよ。あたしたちだけじゃ、村を守り切ることはできなかったよ」
チヅルが微笑みながら首を振っている一方、少し離れた場所で、コレットがユイの前に立って真剣な表情を作っていた。
「ユイさん。今回の依頼が終わったら……約束の稽古、よろしくお願いします!」
コレットの熱を帯びた瞳に、ユイはニヤリとヤンチャな笑みを浮かべる。
「あぁ、いつでも来な。マジでキツいから、今から覚悟しとけよ!」
二人のやり取りに、周囲からどっと温かい笑いが起きた。言葉の数は少なくとも、そこには互いの実力を認め合った本物の連帯感が漂っていた。
「あ、そうだ」
チヅルはふと思いついたように手を打ち、広場に集まった全員を見渡した。
「マーレンに帰ったらさ、最高においしいお肉を食べに行こう。全員で」
作戦会議の時に交わした約束。それを聞いた冒険者たちの顔が、パァッと明るく輝いた。
「それ、絶対だぞ! 俺、めちゃくちゃ食うからな!」
「忘れたら許さないからな、姉御!」
シービィやパドが冗談めかして笑い声を上げる。死と隣り合わせの緊張から解き放たれ、笑いと安堵が夜の空気に溶け込んでいく。
***
やがて、広場の端から食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってきた。ラズベルが村人から台所を借り、疲弊した冒険者と村人たちを労うために、大きな鍋で温かい夜食を作り始めていたのだ。チヅルとユイは広場の少し離れたベンチに並んで座り、満天の星が瞬く夜空を見上げていた。
「……疲れたな」
ユイが、ぼそっと本音を漏らす。
「うん」
チヅルも、短く同意した。交わす言葉はそれだけで十分だった。二人の間には、共に死線を潜り抜けた者だけが共有できる、穏やかで絶対的な信頼が横たわっている。チヅルは夜風に吹かれながら、胸の奥底に微かに沈むあの『不穏な気配』をもう一度だけ反芻した。
(……気のせい、かな)
答えの出ない疑問は、ラズベルが運んできた温かいスープの香りに掻き消された。チヅルは自然と笑みを浮かべ、受け取った木の器を両手で包み込む。長く、そして過酷だった一日が終わろうとしている。チヅルが深く安らかな眠りについたのは、それから随分と時間が経った深夜のことだった。
この後、第二十一話を公開する予定です!
チヅルを襲う不穏な夢……。




