第十一話:盆地
おはようございます!
朝の更新です。
ついに姿を現した魔物の根拠地。
チヅルが発した静かな言葉を最後に、三人の間からは一切の「声」が消えた。
第632環、黒曜月の週四巡目、水律。陽光が天頂付近にまで達し、陽6刻から陽7刻へと移ろい、一日の内で最も高い位置から燦然と降り注ぎ、深緑の天蓋を突き抜けて辺り一帯を照らしている。斑に降り注ぐ木漏れ日の下、北西へと進むチヅル一行の影は、もはや風景の一部と化していた。
隠密スーツの上から塗りたくった腐葉土の泥は、彼女たちの人としての輪郭を曖昧にぼかし、野生の獣たちですら気付かないほど周囲に溶け込ませている。静音仕様のブーツは、堆積した落ち葉を踏み締める「乾いた音」すらも冷徹に沈黙させ、森の深部へと彼女たちを誘っていった。先頭を行くチヅルの魔力探索は、数呼吸おきに一定の間隔で魔力を一閃させ、周囲の情報を彼女の脳裏へと送り届けている。
(……この先を映し出す光の残像が、どんどん重くなっている気がする)
チヅルは眉間に微かな皺を寄せた。魔力探索が捉えているのは、生き物が放つ微弱な魔力の波動ではない。森が本来持っているはずの自然な魔力の流れが、何か不浄な重圧によって澱み、濁らされているかのような不自然な残像だった。鳥のさえずりも、冬の羽虫の羽音すら聞こえないこの静謐は、森全体が息を潜め、巨大な口を開けて待つ「何か」に怯えているかのようだった。
(あたしたちがこの源泉を見つけ、早くギルドに実態を報告しなければ、この毒のような気配はやがてローガン村を覆い尽くすかもしれない……)
リーダーとしての責任感が、チヅルの背中を静かに押していた。チヅルが不意に右手を挙げ、手の甲を後方に向ける。無言の停止信号。すぐ後ろを歩いていたラズベルとユイが、吸い付くような動作で同時に身を低くした。チヅルは振り向かず、視線だけで前方の異変を二人に伝える。密集していた常緑樹の密度が徐々に薄くなり始めていた。斑に差し込む光の量が増し、足元の地形が緩やかな下り斜面へと変化している。彼女たちは声を殺し、視線の動きと身振りだけで意思を通わせる。ラズベルが覚悟を決めたように頷き、ユイが白綱の鯉口にそっと親指を添えた。三人は一歩、また一歩と、地を這うような低姿勢で斜面の縁まで登りきった。
***
木々のカーテンを最後の一枚まで潜り抜けた瞬間。三人の視界は、突如として開けた。
「…………ッ」
チヅルは、思わず目を見開いて息を呑んだ。足元から約十エムの切り立った段差の先。そこには、小さな村一つ分がまるごと収まってしまうほど広大な、すり鉢状の盆地が広がっていた。視力強化魔法を付与されたチヅルの瞳は、盆地底部の詳細を鮮明に捉える。まず目を引くのは、盆地の最北端――剥き出しの岩肌が切り立った崖の根元に口を開けた、巨大な洞窟の入口だ。その入口の左右には、門番のように微動だにせず、二体のオークが立ちはだかっている。筋骨隆々としたその巨躯は、周囲を威圧するように直立し、盆地全体を冷徹な眼差しで監視していた。そしてその洞窟から、時折2、3体のゴブリンが出入りしている。ゴブリンたちは何か大きな物体を載せた粗末な台車を、ゆっくりとした動作で押していた。その足取りは重々しく、洞窟の近くに建てられた粗末な物置小屋のような建物へと運んでいく。
(……おかしい。まるで、操られているみたいだ)
チヅルが感じた違和感の本質。それは、彼らの動作から一切の「意志」が欠落していることだった。魔物としての凶暴性も、同族との小競り合いもない。自身の行動原理で動いているのではなく、まるで見えない糸で引かれたマリオネットのような、生気のない機械的な動き。喧嘩もせず、声を上げることもなく、ただひたすら単調な往来を繰り返している。観察する限り、洞窟の外に同時に出ているのは、見張りのオーク2体と多くて3体ほどのゴブリンだけだ。その限られた数だけが、静寂に満ちた盆地底部を幽霊のように行き来していた。
(おそらくここが、すべての根源だ)
チヅルは一旦、魔力探索を停止した。これほど鮮明に視認できる距離まで近づけば、不必要な魔力の放射はかえってこちらの居場所を敵に露呈させかねない。ローガン村を脅かしている元凶。森の平穏を奪った毒の源泉。そのすべてが、あの洞窟の奥に集約されていることを確信した。
***
チヅルが視線で合図を送ると、ユイとラズベルもまた、目の前の「異質」をそれぞれの感覚で飲み込んでいた。ユイは隠密スーツのネックゲイターから覗く目を鋭く尖らせ、左手で白綱の鞘を握り位置を確認した。
(何なんだよ、あいつら……。生気を全く感じねえ。気色悪いぜ)
剣士としての本能が、あの洞窟から流れ出る不快な魔力の奔流を察知している。それは皮膚を逆撫でするような、生理的な嫌悪感を伴う重い気配だった。
ラズベルは眉を僅かに寄せ、バックパックのベルトを締め直した。
(二千人の村人たちを脅かす魔物たちは、ここで一体何をしているのかしら)
穏やかな彼女の瞳にも、今は村の人々を守るための、静かな戦士の火が灯っていた。
三人は音を立てず、西側の斜面を這うように移動を開始した。静音仕様のブーツが岩肌を捉え、一切の小石を落とすことなく彼女たちを導く。やがて、盆地の縁にある大きな岩の陰に滑り込むと、三人は互いに肩を寄せ合い、息を殺して身を潜めた。
盆地底部までの距離、約十エム。視力強化魔法の恩恵により、眼下で見張りを続けるオークの肌の質感、往来するゴブリンたちの虚ろな目までもが、手に取るように見える。しかし、何よりもチヅルたちの感覚を逆撫でしたのは、その視覚情報ではなかった。
(なんだろう。この、重く粘つくような感じ……)
洞窟の奥から、湿った冷たい風に乗って漂ってくる「何か」。それは、ゴブリンやオークといった下位魔物が発するものとは、明らかに次元の異なる圧倒的な威圧感。まるで、巨大な肉食獣の胃袋の中にいるかのような、息苦しいほどの重圧だった。
ユイが微かに身震いし、白綱の柄を強く握りしめる。魔刀もまた、主と同じ不浄な「何か」を感じ取り、主に従うように漠然とした不快感を共有させていた。
「…………」
チヅルは、岩の隙間から洞窟の入口を見つめ続けた。盆地に蠢く統率された魔物たち、その異様な行動。そして、あの暗がりの奥に潜む得体の知れない、魔力の波動の正体。陽光が真上から降り注ぐ白昼。その光すらも届かない奈落の入り口を前に、チヅルのワインレッドの瞳が、決意を秘めて静かに燃え上がった。
本日19時過ぎの更新に続きます。
洞窟の奥に潜むものとは?




