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第十話:腐葉土

 ローガン村の外周、その北西に位置する地点から、再び深い森林へとその身を投じた。チヅル、ラズベル、ユイの三人は、北西へ進路を取り、さらに森の奥深くへと歩を進めていく。陽5よういつこくを過ぎ、天頂へと昇りつつある太陽の光は、幾重にも重なる常緑樹の葉に遮られ、まだらな影となって地面を焼いている。森の奥から染み出してくる空気はひんやりと冷たく、肌を刺すような鋭さがあった。


(……静かすぎる)


 チヅルは隠密スーツのフードの中で、小さく鼻を鳴らした。この森は生きている。黒曜月のこの時期、本来であれば越冬を控えた小動物たちが忙しなく動き回り、鳥たちの鳴き声が木々の間に反響しているはずだ。しかし、今のこの森にはそれがない。羽虫の羽音一つ聞こえない静謐せいひつが、不自然なまでに深く、重く横たわっている。三十体以上の魔物が潜んでいるという事実――その「毒」のような濃い気配が、森の生態系を沈黙させていた。


「…………」


 チヅルが不意に足を止め、右手を軽く上げて後方の二人に合図を送った。二歩ほど下がった位置にいたラズベルとユイが、音もなく同時に身を低くする。


***


 チヅルは何も言わず、隠密スーツの腰ベルトに付属する小さなホルダーから、琥珀色の液体が入った小瓶を三本取り出した。一本を自分で開け、残りの二本を仲間に手渡す。


「これ、感染予防魔薬だよ。念のために飲んでおいて」


 チヅルが囁くような小声で告げると、まずは自ら一気に飲み干した。ラズベルとユイは不思議そうな顔をしながらも、リーダーの言葉に従って喉を鳴らす。続いてチヅルは、ネックゲイターを鼻まで引き上げ、フードを深く被り直した。顔の下半分と頭部がダークグリーンの魔法繊維に覆われる。ラズベルとユイもそれに倣った。


「ゴブリンもオークも、視力より嗅覚が鋭い。……ここからは、できるだけ匂いを消すよ」


 チヅルがニッコリと、しかし目は笑わずに告げると、足元の黒ずんだ土――堆積した腐葉土を両手で力いっぱいすくい上げた。そして躊躇ちゅうちょなく、自分の胸、脚、腕と、隠密スーツ全体へまんべんなく、その湿った泥を塗り込み始めた。


「え、マジ……?」


 ユイが顔をしかめ、自分の綺麗なスーツを見つめた。だが、チヅルの真剣な様子と、森の奥から漂ってくる獣臭を察し、覚悟を決めたように吐息をつく。


「……まあ、仕方ねーな。いつものセーラー服じゃなくてよかったよ。泥だらけの『セーラーふく』なんて、洒落になんねーし」


 ユイは自分に言い聞かせるように呟くと、膝をついて腐葉土を掴み、乱暴に体に擦り付けた。


「ドワーフの狩人の知恵と似てるわね。父から聞いたことがあるわ。……それに、泥の中にいる雑菌から体を守るために感染予防魔薬まで用意しているとは、さすがね、チヅルちゃん」


 ラズベルは感心したように微笑みながら、丁寧な手つきで泥をまとっていく。やがて、三人のダークグリーンのスーツは、森の土と枯れ葉の色に完全に同化した。


「これ、帰ったら三人で湯浴みだね」


 チヅルが軽口を叩くと、ユイは「湯浴み……か」と遠い目をした。


(……今はそんなこと考えてる場合じゃないけど、マジで温泉とか恋しいぜ)


 内心の郷愁を振り払い、ユイは白綱の鯉口を微かに切って、意識を前方に固定した。


***


 泥にまみれた三人は、再び歩き出した。一歩踏み出すごとに、落ち葉がカサリと鳴りそうになるのを、静音仕様のブーツが魔法のように吸収する。踏み締める音がほとんどしないその足取りは、もはや森を彷徨う亡霊のようだった。木々の間から斑に差し込む光は、天頂に近づくにつれて白さを増していく。黒曜月の森は、夏のような青々とした輝きはないものの、常緑樹の深い緑と、冬にのみ色づくシダ植物の銀灰色が、独特の冷たい色彩美を作り出していた。三人の間に会話はない。チヅルが指差す方向、ユイが白綱の柄に添える手の角度、ラズベルが周囲を伺う視線の鋭さ。それだけで十分、意思疎通は図れていた。数呼吸おきに、チヅルが自身の魔力を全周囲に一閃いっせんさせる。


(……この辺りに大きな集団反応はなし。まだ距離があるね)


 波紋のように広がった彼女の魔力波は、木々や土に干渉し、瞬時に立体的な淡い光の残像として、彼女の脳内に描き出される。周囲半径五十エム。今のところ、魔物の伏兵はいない。


***


 森の中ほど、起伏が激しくなってきた場所で、チヅルが再び足を止めた。彼女は後ろの二人に向き直り、唇の前に指を一本立てた。


「視力強化、しておくね」


 チヅルが囁くと同時に、左右の手を二人の顔の前にかざした。ラズベルとユイの目元を、淡い光の輪が一瞬だけ包み込む。ひと呼吸おいて、チヅルが「パチン」と小さく指を鳴らすと、その光の輪は吸い込まれるように消えた。代わりに、二人の瞳の色がわずかに赤く染まる。最後にチヅルが自分自身にも術式を施すと、世界が劇的にその解像度を変えた。


(……やべッ、マジでよく見えるな、この魔法)


 ユイは、いつものことながら驚きに目を見開いた。遥か遠く、影に隠れた木の一本一本に刻まれた微細な傷跡や、苔の表面を這う微小な虫の足の動きまでが、手に取るように視認できる。


「近くに魔物の反応はあった?」


 ラズベルがチヅルの耳元で、呼吸音のような微声で尋ねる。


「今のところ、大きな集団反応はないかな。……でも、空気の淀みが濃くなってきた。この先に、魔物の根拠地があるのは間違いないよ」


 チヅルは北西の方向をじっと見据えた。魔力探索が捉える、不気味なほどの「無」。それが逆に、巨大な何かが口を開けて待っている予感を抱かせる。


「……行こう。あと少しで、盆地が見えるはずだよ」


 三人は再び、沈黙の森へと吸い込まれていった。泥と葉にまみれたその姿は、今や完全に森の一部と化し、その存在を感知できる者は、この広大な樹海の中には誰もいなかった。


明日は、お昼12時過ぎと夜19時過ぎの更新です!

不気味な森の奥へ……。

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