第二章 偽情報
澪は椅子を数センチ後ろへずらした。
その動きはごく自然だった。最初から彼女を注意して見ていなければ、座り心地が悪かったのだと思っただろう。
しかし、新しい位置からは、椅子の背に記された番号――【11】が、05番の視界へ完全にさらされている。
秋人は指摘しなかった。
澪はすでに、05番を試す準備を整えている。
ここで彼女へ情報交換を持ちかければ、かえって二人の行動に関連性を残してしまう。
それぞれ別々に仕掛け、最後に得た答えが一致するかを確かめるほうがいい。
そのとき、電子スクリーンが再び点灯した。
【最初の役職審判まで:残り6時間37分】
【役職審判のルールを公開します】
続いて、審判の詳細が表示された。
【各プレイヤーは21時00分に、他のプレイヤー一名に対して、一度だけ役職指名を行うことができる】
【指名には、具体的な役職名を含めなければならない】
【生存プレイヤーの過半数が、同一のプレイヤーに同一の役職を指名した場合、対象の役職は強制的に公開される】
【誤った指名を行っても、直ちにペナルティーは発生しない】
【一部の役職は、公開後に特殊効果を発動する】
最後に、もう一文が添えられた。
【役職の全種類は公開しない】
広間にすぐ、ざわめきが起きた。
御影が最初に口を開く。
「つまり、どんな役職があるのかすら分からないということですか?」
「それで、どうやって指名するんだ?」
04番の小早川が眉をひそめた。
「まさか、当てずっぽうか?」
「本人に名乗らせればいい! 何度でも言うが、早く公開したほうが安全だ!」
真壁が答えた。
秋人はすぐに反論せず、待った。
予想どおり、13番の御影が話を引き継ぐ。
「少なくとも、勝利条件は先に公開すべきでしょう」
「役職は隠したままでも、条件が透明になればなるほど、危険な人物を見抜きやすくなる」
二度目だ。
秋人は御影を見た。
ゲーム開始から今までに、彼は二度も自分から議題を【より多くの情報を公開する】方向へ動かしている。
問題があるとは限らない。だが、記録する価値はある。
「なら、俺から話す」
真壁が突然言った。全員の視線が集まる。
彼は役職カードを取り出したが、他人には見せなかった。
「俺の役職は――【生還者】だ」
初めて役職名が公開された。
秋人の姿勢は変わらない。だが意識は一瞬で研ぎ澄まされた。
真壁が続ける。
「勝利条件は、このゲームが終わるまで生存し、かつプレイヤー資格を失わないことだ」
04番の小早川が尋ねた。
「特殊能力は?」
「ない」
「それだけなのか?」
「それだけだ」
真壁は間を置かずに答えた。
秋人は真偽を評価せず、一見すると無関係な言葉を口にした。
「羨ましいですね」
真壁が眉を寄せる。
「どういう意味だ?」
「生き残るだけでいい」
秋人は椅子にもたれたまま言う。
「僕があなたなら、できるだけ誰とも揉めないようにします」
真壁の表情が、ごくわずかに変わった。
ほんの一瞬だったが、秋人は見逃さない。
面白い。
役職が本当なら、ゲーム開始後の真壁の振る舞いは、あまりにも積極的すぎる。
リングを力ずくで外そうとし、全員に役職公開を求め、07番へ真っ先に矛先を向けた。
ただ【生き残る】ことを望むプレイヤーの行動には見えない。
もちろん、元来の性格だと説明することもできる。
だが秋人は、【そういう性格だから】という一言で推理を終わらせるのが嫌いだった。
あまりにも都合のいい説明だからだ。
「信じていないのか?」
真壁が聞いた。
「検証する方法がありません」
秋人は真壁を見る。
「ですから、今の段階で信じるか信じないかを決めても意味はない」
そう言って、話を打ち切った。
実際には、【生還者】という役職名をすでに深く記憶している。
【観測者】として、ようやく最初の提出候補を得た。
だが、まだ使うときではない。一日に機会は一度しかない。
今すぐ真壁を検証しても、彼が嘘をついたかどうかしか分からない。秋人は、この一枚のカードがほかに何を引き出すのかを見たかった。
その頃、澪も動き出した。
彼女は05番の宮原へ向かわず、02番の藤堂からペンを借り、自分の手の甲に小さく【11】と書いた。
それから、わざとペンを11番の椅子の下へ落とす。
「澪さん」
05番の宮原が突然、彼女を呼び止めた。
秋人の目がわずかに動く。
予想より早い。
「ペン、落としましたよ」
澪は足元を見た。
「ありがとう」
しかし腰をかがめず、宮原を見つめて尋ねる。
「悪いけれど、拾っていただける?」
宮原は明らかにためらった。
わずか二秒。
それから立ち上がった。
「……分かりました」
彼は11番の席へ歩み寄り、腰をかがめてペンを拾う。
何も起こらなかった。
だが、澪は答えを得た。
宮原はただ11番を見ていたのではない。【11番の席へ近づく】という行為そのものに迷いがある。
秋人は、まだ足りないと判断した。
その迷いは第一の公開情報を聞いたあとの緊張かもしれない。あるいは、自分が何度も見られていると気づいて警戒しただけかもしれない。
もう一歩、押す必要がある。
秋人は立ち上がり、体をほぐすふりをして給水機へ向かった。
宮原が05番の椅子へ戻ろうとしたとき、ちょうど二人がすれ違う。
「宮原さん」
05番は足を止めた。
「何ですか?」
「少し、話しませんか?」
宮原は明らかに乗り気ではなかった。
秋人は断る間を与えずに続ける。
「澪さんについてです」
宮原の目つきが即座に変わった。
半秒だけ。
それで十分だった。
秋人は二人にしか聞こえない声量まで落とした。
「さっき、彼女のリングが光りました」
宮原は黙った。
「それが?」
「表示を見ました」
嘘は、ここから始まる。
秋人が実際に見たのは、【目標】の二文字だけだ。
それでも、彼は言った。
「表示されていたのは、【護衛目標】です」
宮原の瞳孔が、ごくわずかに縮んだ。
秋人は観察を続ける。問い詰めもせず、説明もせず、捏造した四文字だけを二人の間へ置いた。
やがて宮原が耐えきれずに尋ねる。
「なぜ、僕に教えるんです?」
「あなたが彼女を三度見たからです」
秋人は率直に言った。
05番の顔色が変わる。
「見ていない」
「数え間違いだったかもしれませんね」
秋人は何でもないように一歩退いた。
宮原に逃げ道を与えるためではない。
秋人が本当に三度見たのか、それとも鎌をかけただけなのか、相手に判断させないためだ。
「安心してください」
秋人は背を向けた。
「この話を知っているのは、今のところあなただけです」
それだけ言って立ち去る。脅しも要求もしなかった。
価値のある嘘は、相手に今すぐ信じさせるものではない。
相手の頭へ入り込んだあと、勝手に育っていく嘘だ。
…………。
三十分が過ぎても、秋人は宮原へ近づかなかった。
それどころか、真壁と御影の議論に自ら加わる。
「考え直しました」
秋人の一言に、御影が話を止めた。
「何をです?」
「勝利条件の公開について。議論してもいいと思います」
真壁が冷笑する。
「最初に止めたのは、お前じゃなかったか?」
「僕が止めたのは、役職の強制公開です」
秋人は数人を見渡した。
「今は公開情報も、一つの公開された役職もある。状況が変わりました」
もちろん、本当の理由ではない。
秋人は、皆の意識を引きつける大きな議題を一つ作りたかっただけだ。
全員が勝利条件を公開すべきか議論していれば、誰かが人目を避けて動く機会を得る。
宮原も同じだ。
そして秋人には、宮原に動いてもらう必要があった。
議論はすぐに白熱した。
藤堂は条件の一部だけを公開する案を出した。御影は【ほかのプレイヤーの死亡を必要とするか】だけでも明かすべきだと主張し、真壁は全面公開を支持した。
数人の言葉が加速する一方で、秋人は徐々に議論から身を引いた。
議題はもう動き出している。これ以上、自分が押す必要はない。
彼は05番の席を見た。
空いている。
宮原は給水機の横に立ち、うつむいて二口ほど水を飲んでいた。
右手が癖のようにポケットへ伸び――途中で止まる。
何列かの椅子を挟んだ先で、秋人は見た。
宮原が右ポケットから、細く折り畳まれた白い紙を取り出した。
彼は紙を広げ、数秒見ただけで顔色を明らかに変えた。
すぐにまた細く折り、ポケットへ戻す。
秋人は近づかなかった。
誰かが動き始めた。
何より重要なのは、その紙が最初から宮原の手元にあったわけではないことだ。少なくとも、先ほど二人で話した時点では、右ポケットにあの紙はなかった。
05番は二列目の椅子を回り込み、ゆっくりと11番の澪へ近づいていく。
秋人の目から、すべての温度が消えた。
来た。
偽の【護衛目標】が、効果を生み始めた。
ところが、そのとき――澪が突然、秋人の隣へ来た。
「彼に何を言ったの?」
「誰に?」
「とぼけないで」
彼女は秋人を見ず、同じく宮原へ視線を向けている。
秋人は二秒黙った。
「偽情報を一つ」
ようやく澪が振り向く。
「私について?」
「うん」
「どんな内容?」
「今は言えない」
澪の眼差しが少し冷たくなった。
「私を餌にしたのね」
「君だって、さっき椅子を餌にしたでしょう?」
二人は短く見つめ合った。どちらも引かない。
やがて、澪が先に目を逸らした。
「いいわ。あなたはあなたのやり方で。私は私のやり方で動く」
そう言って、彼女は立ち去った。
秋人はかえって眉をひそめる。
澪は情報共有を求めなかった。それはつまり、自分なりの第二手をすでに用意しているということだ。
そのとき、05番の宮原が腰をかがめた。
手を11番の椅子の下へ伸ばし、すぐに引き戻す。
秋人には、彼が何かを手に入れたのがはっきり見えた。
折り畳まれた白い紙。
ペンではない。澪が落としたペンなら、もう回収されている。
では、あの紙はいつ置かれた?
秋人が澪を見る。
彼女はまったく驚いていない。
置いたのは澪だ。
なるほど。
彼女は宮原が11番へ近づけるか試しただけではない。今度は本物の餌を置いたのだ。
宮原は白い紙を右ポケットへ入れた。
また右側。
最初に緊張したとき触れたのと同じ場所だ。宮原には、何かを隠すとき右ポケットを使う強い癖がある。
だが秋人は、すぐに違和感を覚えた。
澪が見ているのは宮原のポケットではない。
床だ。
彼女の平静な表情に、初めてかすかな亀裂が走っている。
秋人がその視線を追うと、11番の椅子の下に、小さな黒い物がまだ落ちていた。
05番の宮原も気づいた。
一瞬止まり、もう一度手を伸ばす。
秋人の目つきが変わった。
あれは澪の餌ではない。
彼は即座に踏み出した。
「宮原――」
遅かった。
05番は、すでに黒い破片を拾い上げていた。
ピーッ――!
耳をつんざく警報が、広間の空気を切り裂いた。
宮原の体が瞬時に強張る。
リングが激しく点滅した。
【違反! 違反! 違反!】
すべての議論が止まる。
真壁が勢いよく振り返った。
「何が起きた!?」
宮原の顔は蒼白だった。
「分からない! 僕はただ……」
手には、黒いカードの破片が握られていた。
表側に残っているのは、一つの番号だけ。
【11】
秋人は宮原を見なかった。
最初に見たのは澪だ。
彼女はすでに自分の役職カードを取り出している。
カードは完全な形で、どこにも欠けていなかった。
数メートルを挟んで視線が交わり、秋人はすぐに理解した。
第三者がいる。
誰かが澪の餌のあと、同じ場所へもう一つ別の物を置いた。
しかもその人物は、宮原がそこへ行くと知っていた可能性が高い。
電子スクリーンが点灯する。
【初のルール違反を検知】
【追加ルールを公開します】
【所有者本人の自発的な許可なく、他人の役職カードの内容を閲覧することを禁ずる】
【違反者:役職剥奪】
「待ってくれ!」
宮原が叫んだ。
「僕は役職なんて見ていない!」
しかし、彼の役職カードは自動的に飛び出した。
記されていた文字が急速に消え、完全な白紙になる。
【プレイヤー05の役職を剥奪しました】
宮原は呆然とした。
数秒後、何かにすがるように言う。
「役職が消えた? なら、僕の勝利条件も消えたんじゃないか?」
スクリーンは即座に答えた。
【役職を失ったプレイヤーに、生還資格はありません】
【強制脱落まで:05:00】
赤い数字が現れる。
【04:59】
宮原の顔から血の気が完全に引いた。
広間は一瞬で混乱に陥る。
藤堂が最初に駆け寄った。真壁はスクリーンへ怒鳴り、御影は黒い破片には誰も触れるなと叫ぶ。
秋人だけは動かなかった。
頭の中で、今起きたことを最初から並べ直している。
秋人は意図的に宮原へ、11番が【護衛目標】に関する情報を持っている可能性があると伝えた。
それは嘘だ。
澪は11番の椅子の下へ白紙の餌を置き、宮原は予想どおり食いついた。
そこまでは、まだ二人の制御下にあった。
だが、誰かが彼らより一歩早く動いていた。
その人物は澪の餌に気づき、宮原が引っかかると知ったうえで、実際に違反を発生させる黒い役職カードの破片を置いた。
最も厄介なのは――相手が秋人の偽情報を知っていたかどうかだ。
知っていたのなら、二人の密談が漏れている。
知らなかったのなら、宮原と澪の行動だけから試しの全体像を予測したことになる。
どちらであっても、いい知らせではない。
「秋人」
澪がすでに隣へ来ていた。声は極端に抑えられている。
「あの破片は私の物ではないわ」
「分かっている」
「私が置いたのは、白紙一枚だけ」
「それも分かっている」
澪が秋人を見た。
「いつ気づいたの?」
「破片を見たとき、君の表情が変わった」
「……そんなに分かりやすかった?」
「僕には少し」
今度は冗談ではない。澪も言い返さなかった。
彼女はカウントダウンを見る。
【04:31】
「あなたが05番へ流した偽情報は、結局何だったの?」
秋人は一秒黙った。
今なら言ってもいい。
「君のリングに表示されたのは【護衛目標】だと伝えた」
澪の眼差しが一気に冷える。
「あなたが見たのは【目標】だけ」
「そうだ」
「なら、【護衛】はあなたが作ったのね」
「そうだ」
澪は秋人を責めなかった。
代わりに、すぐ宮原へ視線を向ける。数秒後、突然尋ねた。
「もし、このあと05番が【護衛目標】という四文字を口にしたら……」
秋人が続きを引き取る。
「偽情報が、彼から外へ流れたということになる」
「黒い破片の情報まで【目標】を軸にしていたら?」
「誰かが僕の偽情報を手に入れ、別の形に包み直した可能性がある」
二人は同時に黙った。
初めて、二人が別々に仕掛けた罠が本当の意味でつながった。
そして、そこへ第三者が介入してきた。
澪が不意に言う。
「あまり早く助けないで」
秋人は彼女を見た。
澪の表情は冷たい。
「05番には、まだ四分ある。あの紙がどこから来たのか知っているのは、彼だけよ」
秋人は理解した。
彼女は宮原を見捨てたいのではない。
先に情報を引き出すつもりだ。
「尋問は君が?」
「場の制御はあなたが」
短い言葉だけで、初めて明確な役割分担が成立した。
秋人は人々の中央へ歩み出た。
「全員、止まってください」
誰も聞かない。
真壁はまだ叫び、藤堂はリングを調べ続けている。
秋人は声を張った。
「混乱を続ければ、05番は確実に死ぬ!」
今度は、全員が止まった。
秋人は議論する余地を与えない。
「藤堂さんはリングの確認を続けてください。ほかの人は05番にも、黒い破片にも触れないこと」
「真壁さんは、誰が近づくか見張ってください」
真壁が眉を寄せた。
「なぜ俺が――」
「さっき最初に触ろうとしたのが、あなただからです」
秋人は言葉を遮った。
「だから、人を見張る役に一番向いている」
真壁は一瞬言葉を失い、結局それ以上反対しなかった。
秋人はほかの者も散らした。
突然、指導者になりたかったわけではない。
混乱の中にいる人間は、明確な行動を一つ必要としている。
最初にもっともらしい案を提示した者が、一時的な指揮権を得る。
それが、局面を制御するということだ。
「澪」
秋人が最後に呼ぶ。
「質問するわ」
澪はすでに宮原の前へしゃがんでいた。
【03:56】
彼女は慰めなかった。
最初の質問は、たった一言だった。
「右ポケットの紙を出して」
宮原が勢いよく顔を上げる。
秋人の目も鋭くなった。
澪は当てた。
さっきの白い紙は、まだ05番のポケットにある。
つまり――本当の審判は、ここから始まる。




