王都防衛――痛みを喰らう蟻【後半】
王都を覆う、黒い蟻の群れ。
それは、人々の痛みを喰らい、
巨大な怪物へと姿を変えていく。
黒い蟻の群れが、城壁の前で一つに集まり始めた。
地面を埋め尽くしていた無数の蟻が、
互いに絡み合い、膨らみ、重なっていく。
やがて、それは人の形を取った。
巨大な女の上半身。
その下には、巨大な蟻の腹部。
無数の腕が伸び、その身体には無数の顔が浮かんでいた。
顔は、すべて泣いている。
「誰も……」
重なった声が、王都へ響き渡る。
「助けて……くれなかった」
兵士たちの動きが止まった。
その言葉は、誰もが心のどこかで知っている痛みだった。
失ったことがある。
救われなかったことがある。
届かなかった願いがある。
それは悲鳴であり、祈りでもあった。
ヒマリは、その異形を見つめた。
そして、胸の奥が冷たくなる。
「……あなたは」
無数の顔が、一斉にヒマリを見る。
「誰なの?」
その輪郭は、魔王城の最上部に立つ白い影とよく似ていた。
「けひょ。我は――ベル・ゲラーテ」
低い声が響く。
兵士たちが後退する。
「ベル・ブリュード様の分体として
魔王城に、人間を捧げる者」
ヒマリは王錫を突き立てた。
「浄化波動を十秒間隔へ変更!」
フェルマーが即座に魔法盤を書き換える。
「寒い……」
「私を愛して……」
無数の顔が一斉に裂けた。
「あなたと――一緒にぃぃぃぃ!!」
絶叫。
黒い津波が城壁へ殺到する。
「迎撃!!」
フェルマーが叫んだ。
ハエを牽制しつつ、巨大な結界が展開される。
グシャ。
黒い波が白い結界へ激突した。
だが、押し返せない。
「今の内に追い払え!!」
城壁が軋む。
だが、兵士たちの顔に絶望が浮かび、
結界で蠢く蟻に浮足立つ。
「怯むなぁぁぁぁ!!」
アレクシスが城壁へ飛び乗った。
「立て!!」
たった一言だった。
それでも、ここまで回復した事実と
その苦労を見ていた者たちから鬨の声が広がっていく。
「ロンデル公子に負けるな!
おおおおおっ!!」
兵士たちが再び剣を構える。
崩れかけた戦線が持ち直す。
アレクシスは息を吐いた。
(……一人で背負わせない)
ヒマリと交わした約束。
あなたのいる所に追いつくと――。
◆
だが、ベル・ゲラーテは止まらなかった。
結界を食い破り
フェルマーの術式さえ呑み込んでいく。
「あなたたちも……一緒に……」
無数の声が重なる。
「苦しみごと……」
「痛みごと……」
ヒマリは走った。
「分体、ベル・ゲラーテ!
生まれたばかりで悪いけど、あなたは生かしておけない」
王錫を構え、浄化の光を収束させる。
『ヒマリ』
クルスの声が響いた。
『わかってるな。あれに浄化は通りにくい』
「分かってる」
『怒り、悲しみ、絶望、孤独――すべてが絡み合っている』
白い光が走った。
ベル・ゲラーテの胸部へ直撃する。
一瞬だけ、怪物の動きが止まった。
だが――
黒い蟻が傷へ集まり、肉体を再生していく。
「……効いてない」
フェルマーが叫んだ。
「すべての感情をほどく必要はありません!」
ヒマリが振り返る。
「一点に絞ってください!」
「でも、どこに!?」
「すべてが負の感情として収束しているはずです!」
ヒマリはベル・ゲラーテを見つめた。
怒り。
悲しみ。
絶望。
無数の感情が絡み合い、一つの怪物を作っている。
(なら――)
その時、影が跳んだ。
ノリスだった。
ベル・ゲラーテの背後へ一瞬で回り込み、刃を首元へ叩き込む。
「ヒマリに近づくな」
ズバッ!!
「――っ!」
ベル・ゲラーテが初めて悲鳴を上げた。
泣き声ではない。
驚愕の悲鳴だった。
黒い血が飛び散る。
そして――
首元の傷が塞がらない。
「私の刻印を刻んだ――」
ノリスが静かに言った。
「ただの蟻の集合体に戻してやる」
ベル・ゲラーテの輪郭が揺らいだ。
人型が崩れ始める。
「……この程度で……終わら……ない……」
無数の声が分裂する。
怪物が再び蟻の群れへ戻ろうとしていた。
「逃がさない」
ヒマリが前へ出る。
崩れかけた身体の奥。
蟻が異常な密度で集まっている一点が見えた。
『そこだ』
クルスの声が響く。
『負の欲望の結節点だ』
ヒマリは頷いた。
『そこへ浄化を打ち込め』
ヒマリは全力で光を収束させた。
(人の痛みで生まれたあなたに、更なる苦しみを負わせてしまう)
(でも――)
「これ以上は、やらせない!」
浄化の光が、核へ叩き込まれた。
澄んだ音を立て、光の帯が包み込んでいく。
ベル・ゲラーテが絶叫する。
無数の声が重なる。
重なって。
やがて――
黒い蟻が一斉に散っていく。
霧のように。
黒い砂のように。
地面へ還っていった。
「……倒した、のですか」
「倒してない」
ヒマリは首を振った。
「核が逃げた。また集まれば戻ってくる」
『魔力反応、後退中。
再生しても以前の半分程度だろう』
クルスが続ける。
「そう……」
ヒマリは息を吐いた。
膝が笑っている。
それでも。
今夜は、これでいい。
――そう思った。
だが、下の城門から怒号が聞こえた。
「西壁!!」
「第二防衛線、突破されます!!」
ヒマリが身を乗り出す。
ベル・ゲラーテを追い返したのは、あくまで城壁の一角だった。
地上では、まだ戦いが続いている。
◆
ベル・ゲラーテと対峙している間。
王都に広がるヒマリの浄化の光が弱まった。
白い波動が薄れていく。
蟻たちが、一斉にざわめいた。
『……魔王城側の干渉が強くなっているが、
ここでヒマリの気を散らすわけはいかない』
クルスの声が低くなる。
『西壁の兵士たちには、自力で守り抜いてもらわねば』
黒い群れが、再び盛り上がる。
◆
シュルツは、不眠不休で迎撃を続けていた。
炎の魔法剣が、黒い蟻を焼き払う。
魔導士たちの火球が、黒い波へ降り注ぐ。
だが、一向に減らない。
蟻に疲弊の概念はない。
「無理に殲滅を狙うな!」
シュルツが怒鳴る。
「弱らせろ!」
「浄化結界が弱ったなら、こちらから押し込め!」
「おおっ!」
兵士たちが声を上げる。
恐怖で折れそうな心を、無理やり奮い立たせるように。
だが、限界は近かった。
「油の備蓄が尽きます!」
補給兵が叫ぶ。
シュルツは奥歯を噛み締めた。
蟻の海の向こう。
半身が崩れたままのベル・ゲラーテが、こちらを見ている。
「けひょ……けひょ……」
笑い声。
その身体には、取り込まれた蟻や人間の影が蠢いている。
少しずつ。
確実に巨大になっていく。
シュルツは、初めて思った。
この戦いは――
勝てないかもしれない。
次回、シュルツたちの戦線は
さらに厳しい状況へ追い込まれていきます。
王都を守り切れるのか。




