アリシアの返書 ~沈黙のひび~
アリシアから届いた、一通の返書。
そこに記されていたのは、
ジギスムントが予想もしなかった言葉でした。
砂漠の陣営は、朝焼けに染まっていた。
オレンジと紫の混ざった光の下、幕営の布が乾いた風に揺れている。
その中央。
ジギスムントは軍議の幕の中で、
地図を見つめていた。
蝋燭の炎が揺れるたび、地図の上に引かれた国境線が歪んで見える。
「魔王城の異常は拡大しております」
将校が報告を続ける。
「各地で小規模な魔物の出現が確認され、民の不安も高まっています」
一度、言葉を切る。
「王都奪還には、絶好の機会かと」
ジギスムントは答えなかった。
報告の一つ一つを聞きながら、
使える情報と使えない情報を静かに選り分けている。
その時だった。幕の入口が開く。
「陛下!」
伝令が駆け込んでくる。
「アリシア様より返書が!」
ジギスムントの目が上がった。
伝令の手には、一通の封書。
見慣れた封蝋。
小さな花の型押し。
アリシアのものだった。
将校たちの間に、わずかな緊張が走る。
誰もが、その手紙が何を意味するのかを考えていた。
ジギスムントは封書を受け取った。
封を切る。
紙を取り出し、折り目を開く。
一行目に目を通した瞬間。
指が止まった。
『私は、サンドランドへ戻りません』
幕の中を、風の音だけが通り過ぎる。
ジギスムントの表情は変わらなかった。
眉も動かない。
ただ、紙を持つ指先にだけ、わずかに力が入った。
二行目。
『あなたの王妃にはなれませんでした』
「……陛下?」
誰かが声をかけた。
ジギスムントは答えなかった。
視線は、その二行に固定されたままだった。
二行だけで、十分だった。
胸の奥へ、何かが沈んでいく。
悲しみなのか。怒りなのか。
それすら分からない。
ただ、これまで自分の中にあった何かが、静かに崩れていく。
「陛下……ご命令を」
伝令の声に、ジギスムントはようやく動いた。
返書を丁寧に折り直す。
握りつぶすことはしなかった。
元の折り目に沿って折り、懐へしまう。
「……構わん」
いつもの静かな声だった。
「進軍を続ける」
「しかし、サンドランドは中立化を――」
「聞こえなかったか」
その一言で、幕の中が凍りついた。
「アリシアは王都に囚われたのだ」
ジギスムントは地図を見下ろす。
「王都奪還には、二重の意味が生まれた」
誰も、それ以上は口を挟めなかった。
ジギスムントは地図を見つめ続ける。
だが、その目は地図を見ていなかった。
(……そうか)
胸の奥に、ひとつだけ言葉が浮かぶ。
(あの女は――選んだのか)
その意味を、まだ完全には理解できていない。
それでも。
アリシアが、自分の意思で何かを選んだ。
その事実だけが、妙に胸へ引っかかった。
◆
軍議を終えたジギスムントは、陣営の外に立つ。
王都に続く街道には日の光が差し、星は消え始めていた。
風が吹き抜ける。
ジギスムントは懐へ手を入れた。
(私の知らぬ間に、アリシアが動くとはな)
以前なら、そんなことは考えもしなかった。
アリシアは命令に従う。
王妃として、自分の隣にいる。
それが当然だと思っていた。
(だが……戻らないと決めたのは、あいつだ)
誰かに命じられたわけではない。
誰かに背中を押されたわけでもない。
自分で決めた。
自分の足で。
「……くだらん」
吐き捨てるように呟く。
だが、その声には怒りよりも、戸惑いが混じっていた。
ジギスムントは、しばらく空に残る星を見上げていた。
◆
幕の中へ戻る。
将校たちはすでに出陣の準備を始めていた。
残っているのは、
机の上で揺れる一本の蝋燭だけだった。
ジギスムントは椅子に座る。
そして、返書を取り出した。
先ほどは読まなかった文章へ、ゆっくりと目を移す。
『私は、私の足で立ちます。
もし、許されるのであれば、
ただ一人の女としてあなたのお側に……』
ジギスムントの指が止まった。
蝋燭の炎が揺れる。
その光が、机の上に落ちた影を揺らした。
(……足、か)
アリシアが歩く姿を、ジギスムントは何度見てきただろう。
自分の命令に従い、いつも自分の隣にいる。
それが当然だと思っていた。
逃げなかったことも。
逆らわなかったことも。
すべて、自分を選んでいる証なのだと。
王妃としての覚悟なのだと。
そう、思っていた。
だが。
(……違ったのか)
あれは、選べなかっただけなのではないか。
そして今、
アリシアは、自分の意思で歩き始めた。
ジギスムントは返書を見つめたまま、長い間動かなかった。
やがて、紙を静かに折りたたむ。
(……ただ一人の女として、あなたのお側に)
小さな声が、誰もいない幕の中に落ちた。
けれど、その言葉は。
深いところまで沈んではいかなかった。
胸の奥で、引っかかったまま残っている。
アリシアは、戻らない。
それでも。
完全に離れたわけではない。
ならば、自分はどうするのか。
その答えだけが、まだ見つからなかった。
蝋燭の炎が揺れた。
影が揺れる。
それ以外は、何も動かなかった。
ただ。
ジギスムントの中には、確かに残っていた。
静かに広がった――
ひとつの、ひびが。
ジギスムントの中に入った”ひび”とは何なのか。
彼はこの先、どんな選択をするのでしょう。




