私の足で選ぶ 後編
誰かに決めてもらうのではなく、
自分の意志で選ぶということ。
その選択が、時には国の運命さえ変えていく。
夜の医療棟に慌ただしく会談の場が設けられる。
負傷兵のうめき声と治療の指示で満ちている場所が、
魔導灯の淡い光に照らされ、臨時の仕切りと椅子が運び込まれた。
窓の外では、遠く警鐘が鳴り続けていた。
魔王城の異常。
黒い蟻型魔物。
そして王都封鎖。
人々は恐怖の中にいる。
対談の準備が進む中、フェルマーはそっと耳打ちをする。
ヒマリは小さく頷くと、アリシアに置かれたばかりの椅子を勧めた。
「座る?」
アリシアは少し迷ってから、頷いた。
「……ありがとうございます」
ヒマリは温かい茶を差し出す。
アリシアは両手でカップを包んだ。
白い湯気が、二人の間をゆっくりと昇っていく。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、アリシアがぽつりと呟いた。
「……怖かったのです」
ヒマリは何も言わなかった。
ただ、続きを待つ。
「ジギスムントが……私を王妃として扱うたびに」
アリシアの指が、カップの縁を強く握る。
「心が浮ついて……逆らえなくなりました」
一度、言葉が止まる。
「それが……幸せだったのです」
ヒマリは黙って聞いていた。
「でも、ふとした瞬間に正気に戻るのです」
アリシアの声が震える。
「夫は破滅へ向かっている。止めなければならない、と」
カップの中で、茶が小さく揺れた。
「父は、ジギスムントを廃嫡するつもりです」
そして、さらに小さな声で続ける。
「ヒマリ女王への暗殺未遂も……
サンドランドは関与しておりません」
ヒマリは目を伏せた。
(私を、女王と呼ぶんだ……)
少しだけ苦笑する。
(真面目なのよね)
壊れるまで耐える人間ほど、自分を責めてしまう。
「アリシア」
静かに名前を呼ぶ。
「あなた、ずっと頑張ったのね」
その一言で、アリシアの肩が震えた。
まるで、今まで誰にも許されなかった言葉を
初めて受け取ったようだった。
「……っ」
唇を噛む。
涙を堪えようとする。
けれど、一滴が頬を伝った。
「頑張ったんです……」
「うん」
「彼を、一人にしてはいけないって……」
「うん」
「これから、すべて良くなるって……」
「うん」
それでも、アリシアの声は次第に崩れていく。
「でも……あの人は、ずっと遠くを見ていて……」
とうとう声が途切れた。
「どうしよう……こんなことを言うつもりじゃ……」
ヒマリは静かに首を振った。
「それでいいの」
アリシアが顔を上げる。
「一人で王都に乗り込んできたあなたが、弱いわけないじゃない」
ヒマリは穏やかに続ける。
「ただ、まだ自分で選ぶことを知らなかっただけ」
「……自分で、選ぶ?」
「そう」
アリシアは息を止めた。
「あなたはずっと待っていたんじゃない?」
ヒマリの声に責める響きはない。
「誰かが寄り添ってくれることを」
アリシアは答えられなかった。
「誰かが、正しい答えをくれることを」
図星だった。
「でも」
ヒマリは微笑む。
「選ぶのは、あなたよ」
部屋が静まり返る。
アリシアは膝の上に置いた自分の手を見つめた。
細い指が震えている。
思えば、ずっとそうだった。
父に言われたから。
夫に望まれたから。
誰かに必要とされたから。
「……ヒマリ様」
アリシアが顔を上げる。
「あなたは……怖くなかったのですか?」
「ん?」
「ジギスムント陛下と正面から対峙された時も」
一度、息を呑む。
「暗殺者に襲われた時も……」
ヒマリは少し考えた。
そして、苦笑する。
「怖かったわよ」
あまりにもあっさりした答えだった。
「すごく」
アリシアが目を見開く。
「でも」
ヒマリは窓の外を見る。
暗い王都。
守るべき人たち。
「立つしかなかったの」
「女王だから……ですか?」
ヒマリは少しだけ笑った。
「違うわ」
そして、静かに答える。
「私が、そうしたかったから」
アリシアの胸が、小さく揺れた。
「私……」
声が震える。
「私も……強くなりたい」
目に涙が滲んだ。
「あなたみたいに」
ヒマリは少し困ったように笑った。
「私みたいにならなくていいわ」
そして、そっとアリシアの肩に手を置く。
「あなたは、あなたになればいい」
その温もりが、アリシアの胸に染み込んでいく。
ずっと誰かの顔色を見ていた。
誰かに決められた道を歩いていた。
けれど――。
今、この人は自分に選べと言っている。
「……私」
アリシアは震える声で言った。
「ヒマリ様の側に……いたい」
怖い。
それでも、言葉を止めなかった。
「私は……私の足で立ちたい」
ヒマリは微笑んだ。
「それが、あなたの選択なら」
アリシアは、震える息を一度だけ吐いた。
「……はい」
その目から、涙が溢れた。
けれど今度の涙は、絶望のためではなかった。
「……ジギスムントは、王都へ進軍を開始しています」
アリシアは涙を拭い、顔を上げた。
「私が、眼前に立ちます」
ヒマリは苦笑した。
「そんなことさせたら、フェルマーに怒られちゃうよ」
「……はい」
「クルスは喜びそうだけど……まあ、今はいいか」
アリシアは思わず小さく笑った。
ほんの一瞬だけ。
王都を覆う恐怖を忘れるような、穏やかな時間だった。
しかし――。
『ヒマリ』
胸の奥で、クルスの声が響いた。
ヒマリの表情が変わる。
「……どうしたの?ちょっとした冗談じゃない」
返事はなかった。
代わりに、窓の外が赤く染まった。
王都の空。
その向こうにそびえる魔王城の中心部が、赤黒く脈動している。
まるで、巨大な心臓のように。
ドクン。
ドクン。
魔王城そのものが、鼓動していた。
「陛下!!」
魔導通信から、フェルマーの叫び声が響く。
「再び魔導砲圧力が急上昇しています! 結界を二重に!」
ヒマリは立ち上がり、窓から外を見た。
魔王城が、脈動している。
アリシアも、その光景を見つめていた。
「……あれが」
「うん」
ヒマリは錫杖を握る。
「魔王城よ」
赤黒い光が、ゆっくりと王都の空を染めていく。
そして――。
魔王城の砲門に無数の魔法陣が浮かんだ。
ジギスムントの妻である彼女がヒマリを「女王」と呼ぶことは、
政治的にも大きな意味を持っています。
そして、ようやく心がほぐれたその時――。
魔王城にも、変化が現れます。




