影の刺客、北部都市群へ
夜の医療院を襲う、王家直属の影。
狙われたのはヒマリ女王。
北部都市群の夜は静かだった。
港の灯りが海面を淡く照らし、
遠くから荷役の音だけが規則正しく響いてくる。
その静寂を裂くように、一つの影が中央医療院の屋根を滑っていた。
月光すら映さない漆黒の人影。
人の姿をしていながら、人ではない。
王家直属の隠密魔導士
――ジギスムントが最後まで温存していた切り札である。
影は屋根の縁から壁へ溶け込むように染み込み、
そのまま三階病棟へと潜り込んだ。
狙う標的は、ただ一人。
ヒマリ女王。
(目標確認)
感情のない思考だけが流れる。
(対象を排除する)
使命は、それだけだった。
◆
同じ頃。
病棟の廊下を、ヒマリとノリスは並んで歩いていた。
アレクシスの病室を出た帰りである。
「少しずつ顔色も良くなってきたみたい」
「そう? 自分じゃ分からなくて」
ノリスは照れくさそうに笑う。
その笑顔を見て、ヒマリもようやく肩の力を抜いた。
しかし、その直後だった。
ノリスの足がぴたりと止まる。
胸の奥で心臓が嫌な音を立てた。
異界へ踏み込んだ時と同じ感覚。
肌を撫でる冷気。
世界そのものが歪むような違和感。
間違いない。
殺意だ。
「……ノリス?」
ヒマリが振り返る。
ノリスは返事をせず、静かに目を閉じた。
風の流れ。
魔力の揺らぎ。
わずかな気配を探り、そして見つける。
「ヒマリ」
張り詰めた声だった。
「隠れて」
「え?」
「早く!」
叫ぶと同時に、廊下の石壁が波打つ。
壁が黒い液体のように溶け、その中から人の形をした影が姿を現した。
白い双眸だけが、不気味に闇へ浮かび上がる。
ノリスの血の気が引いた。
(この術は……)
王都で見た。
王家直属の隠密術式。
魔王だった頃の自分だけが知る、王家最強の暗殺魔導。
「ヒマリには触れさせない」
考えるより早く身体が動く。
ヒマリを背中へかばい、一歩前へ踏み出した。
影は音もなく距離を詰める。
殺気はない。
あるのは任務だけ。
だからこそ恐ろしい。
「……ジギスムント」
その名を呟いた瞬間、影の腕から漆黒の剣が伸びた。
月光すら飲み込む闇の刃。
同時に医療院へ警鐘が鳴り響いた。
◆
「侵入者だ!」
「三階だ!」
「ヒマリ女王を守れ!」
兵士たちが一斉に廊下へ雪崩れ込む。
矢が放たれ、魔術が撃ち込まれる。
だが、そのすべてが影をすり抜けた。
「効かない!」
「実体がないぞ!」
兵士たちに動揺が広がる。
北部都市群は交易国家だ。
未知の暗殺術と戦う経験などない。
その空気を断ち切るように、ペトラが鋭く叫んだ。
「落ち着け! 敵は一体だ!」
兵士たちの視線が集まる。
「第一優先はヒマリ女王の護衛だ! アレクシス公子にも護衛を回せ!」
続いてネリィが前へ出る。
影を見た瞬間、その表情が険しく変わった。
「影術……」
「知っているのか?」
「ジギスムント直属の隠密魔導士よ。普通の兵では止められない」
ネリィは影から目を離さないまま続けた。
「でも、ここでヒマリ女王を失えば、北部都市群の信用は終わる」
ペトラは静かに頷く。
「その通りだ」
そして兵士たちへ命じた。
「ヒマリ女王を守れ! これは一人の命を守る戦いではない。
我ら商人国家の信用を守る戦いだ!」
その言葉で兵士たちの表情が変わった。
恐怖は消え、代わりに責任が宿る。
◆
影の刺客はなおもヒマリだけを見据えていた。
その時だった。
ヒマリの錫杖が白く輝く。
(クルス)
『目標補足』
無機質な声が響く。
『迎撃術式、展開』
白銀の術式が廊下一面へ広がり、床と壁を幾何学模様で埋め尽くす。
初めて影の動きが止まった。
『ヒマリへの接触を禁止する』
感情はない。
それでも演算だけで侵入を拒む強固な意志が術式には宿っていた。
影は散開し、術式の隙間を縫うように動く。
それでも狙いは変わらない。
ヒマリを殺す。
その命令だけが刷り込まれていた。
だが、その前へノリスが立ちはだかる。
足が震える。
この影を見るたび、自分が何者だったのか思い出してしまう。
すると影が、魂へ直接語りかけてきた。
『戻レ』
『魔王ハ影ノママ在レ』
異界。
血に染まった戦場。
ヒマリへの憎しみ。
封じたはずの記憶が一気によみがえる。
『光ハ喰ラウモノ』
かつての自分なら、その言葉は真実だった。
だから苦しい。
影の腕がヒマリへ伸びる。
今ここで身を引けば、すべて終わる。
再び、魔王として生きる。
そんな誘惑が胸をよぎった。
その瞬間だった。
「ノリス!」
ヒマリの声が響く。
迷いのない、真っ直ぐな声だった。
ノリスは振り返る。
そこにはヒマリがいる。
アレクシスがいる。
北部都市群で出会った人たちがいる。
ヒマリに生かされたからではない。
自分は守りたい人ができたからこそ、
影であり続けることを選んだのだと。
「信じて!」
震える声で叫び、一歩踏み込む。
影の腕を掴み、その奥に潜む術者の身体を力任せに引きずり出した。
「私は――私が選ぶ!」
その瞬間、錫杖から白銀の術式が一斉に収束する。
『対象、捕捉』
『魔王城:拘束術式を開始』
光が檻となって閉じ、影を床へ叩きつけた。
「なっ――」
初めて影が動揺する。
逃げようとするが、もう遅い。
「今だ!」
兵士たちが一斉に飛びかかる。
実体化した影を拘束し、やや荒っぽい武装解除が行われる。
そして、静寂。
ようやく戦いは終わった。
膝をついたノリスの肩へ、ヒマリがそっと手を置く。
「もちろん、信じてる」
たった一言だった。
それだけで張り詰めていた心がほどけていく。
ノリスは静かに目を閉じた。
今だけは、誰かの影でも、魔王でもない。
ただのノリスとして、その言葉を受け止めていた。
今回は北部都市群編、殆ど唯一の戦闘回でした。




